第捌話 :木枯らしの路地と、染み通る出汁おでん
風が、街の街灯を冷たく揺らしていた。
十一月に入り、夜の寒さは身体の芯まで凍み入るほど厳しくなっている。
街灯の光も届かない路地裏の闇の中、すりガラス越しに温かな橙色の光を漏らす一軒の店――『幽心庵』の暖簾が、木枯らしにパタパタと揺れていた。
「おい悠太! 足が止まってんぞ! お前みたいな無能が、俺様の貴重な時間を奪ってんのが分かってんのか!?」
怒声が冷えた夜気に響く。
酒の臭いを撒き散らしながら前を歩く男――佐々木は、真っ赤にした顔で振り返ると、部下の悠太の胸元に抱え込まれていた書類の束をバンッと手で叩き落とした。
紙が散らばる。寒さで痺れた手で、悠太は必死にそれを拾い集めた。
「すみません……佐々木さん、あの、ここはもう住宅街で……」
「黙れ! 俺が言いたいのはな、お前のその要領の悪さだよ!」
佐々木は悠太の胸ぐらをぐいと掴み上げ、壁に押し付けた。
「先週の大型案件だってな、俺が上層部に頭を下げてやったから通ったんだぞ? なのに何だあの報告書は! 全部お前のミスのせいで俺まで恥かいたんだよ!」
違う。あの案件は悠太が三日三晩徹夜して完成させたもので、エラーを出したのはゴルフで遊んでいた佐々木が最終確認を怠ったからだ。
だが、それを言えばどうなるか、悠太は痛いほど知っていた。
「……申し訳、ありません……」
「ハッ、口先だけかよ。……まあいい。お前みたいな代わりがいくらでもいる雑魚、明日から居場所があると思うなよ? かつての先輩みたいに、屋上から飛び降りて楽になるか? ん?」
佐々木はニヤニヤと卑劣な笑みを浮かべた。
「あいつが勝手に死んだおかげで俺の査定に響いたんだ。お前が死ぬなら会社の外で死ねよな」
――あいつ。
二年前、佐々木の理不尽なパワハラと手柄の横取りに絶望し、自ら命を絶った優しかった先輩のことだ。
あの時も佐々木は笑っていた。「打たれ弱い奴だった」と。
(もう、ダメだ……)
悠太の視界が絶望で真っ暗に染まりかけた、その時だった。
からり、と軽やかな音が響いた。
風に煽られたわけでもないのに、目の前にある古びた木の引き戸が、静かに開いたのだ。
ふわりと漂ってきたのは、出汁の効いた、暴力的なまでに甘く温かな香り。
「あぁ? なんだこのボロ店は……おい悠太、ここで酒の直しをするぞ!」
佐々木は悠太の首ぐらを掴んだまま、強引に店の中へと踏み込んだ。
店内は、まるで時代を巻き戻したかのように静かで温かい空間だった。
磨き上げられた木のカウンター、帳場で煙管をくゆらせている一人の娘。そして、厨房の奥から「いらっしゃい」と穏やかな声をかけてきた小柄な店主・勘吉。
「なんだこのショボい店は! おい、一番高ぇ酒と肉を出せ!」
佐々木はカウンター席に横着に腰掛けると、卓をドンドンと叩いた。
悠太は青ざめながら、隣で小さくなっていた。
「申し訳ありません、うちはおでんと甘味の店でしてね」
奥から現れた女将のお桂が、柔らかな微笑みをたたえながら、湯気の立つ湯呑みを二つの前に置いた。
「寒い夜でしたでしょう。まずは温かいお茶で、お腹を休めてくださいな」
「ああん!?」
佐々木はお桂の差し出した湯呑みを、激しく手で払い飛ばした。
ガシャンッ!!
甲高くて不快な音が店内に響き渡る。
淹れたてのお茶が床に散り、陶器の破片が飛び散った。
「こんな貧乏くさいタダ茶がいらんと言ってんだろ! 俺を誰だと思ってやがる! 会社の管理職様だぞ!」
悠太は恐怖で息を呑んだ。
だが――次の瞬間、店内の空気が一変した。
すうっと、どこからともなく冷たい風が吹き抜ける。
カウンターの上の提灯の灯りがゆらりと大きく揺れ、まるで氷の息を吹きかけられたかのように、ふっと消え去った。
店内を包んでいた温かな出汁の香りが一瞬で消え去り、墓場のような、肌を刺す冷気が吹き荒れる。
「……おい」
低い、地獄の底から響くような声が聞こえた。
帳場で煙管をくゆらせていたクロが、紫煙の向こうからゆっくりと立ち上がっていた。
その姿に、悠太は言葉を失った。
クロが細い唇から吹き出した煙がゆらりと立ち込めると、背後から伸びる二本の尾が巨大な影となって天井まで膨れ上がっていく。
煙管を握るしなやかな指先から鋭い爪が伸び、その琥珀色の瞳は――人間のそれではない。血走り、縦に裂けた『獣の眼』へと変わっていた。
「人間の分際で……お桂の淹れたお茶を、粗末にしてくれたわね?」
「ひっ……!? な、なんだこの女……!?」
佐々木が腰を抜かしかけた瞬間、店内の格子戸が、ゆっくりと開いた。
外は、街並みなどではなかった。
ぬらぬらとした、漆黒の夜霧が店内へと流れ込んでくる。
闇の奥から、ぽつり、と一つ。
血のように紅く、怪しく光る『鬼ほおずきの提灯』が揺らめきながら近づいてきた。
カツン……カツン……と、下駄の音が響く。
夜霧の中から現れたのは、顔を深編み笠で隠した、異形の使者。
そして――その使者のすぐ後ろに、ゆらりと佇む影があった。
スーツ姿の、痩せた男の影。
「あ……あ……っ!?」
佐々木が喉をひくつかせ、狂ったように後ずさった。
その影の顔を、佐々木は、秩序を奪われた悠太も知っていた。
「あ……先輩……?」
悠太が声を漏らす。二年前に命を絶った、あの先輩だった。
使者が、手に持ったほおずきの提灯を静かに掲げた。
その瞬間、佐々木の足元から真っ黒な蔓が伸び、蛇のようにその身体を縛り上げる。
「助け……ひ、ヒィィ! 悠太! 助けろ! 助けてくれええっ!」
佐々木が失禁しながら悲鳴を上げる。しかし、悠太の足は金縛りに遭ったように動かない。
勘吉が、漆黒の瞳で佐々木を見下ろしながら、静かに告げた。
「他人の努力を奪い、尊厳を踏みにじり、命を弄ぶ……お前が捨てさせた命、踏みにじった心。そのすべてが、お前を迎えにきたんだよ」
「嫌だ! 来るな! 離せぇぇぇっ!!」
死者の影が、ゆっくりと佐々木の手に触れた。
瞬間、佐々木の叫び声は音を失い、顔を苦痛に歪ませたまま、使者とともに漆黒の夜霧の奥へと引きずり込まれていった。
バタンッ!!
格子戸が激しく閉まり、店内に静寂が戻った。
パッと明かりが灯り、床には割れた湯呑みの破片すら残っていない。
佐々木が履いていた靴も、上着も、すべて消え去っていた。
「ひっ……あ、あ……」
ガタガタと震え、床にへたり込む悠太。
自分も喰われるのだと、死を覚悟して目を瞑った。
「……はいよ。冷めないうちに喰いな」
トン、と目の前に置かれた大椀。
恐る恐る目を開けると、そこには穏やかな笑顔の勘吉が立っていた。
大椀の中で湯気を立てているのは、黄金色の出汁がしっかり染み込んだ、あつあつのおでんだった。
澄んだ出汁の中に、出汁巻き玉子、牛すじ、結び昆布、もち巾着、そして半透明になるまでじっくり煮込まれた大きな大根。
「安心しなさいな」
クロが煙管の灰をトントンと叩き落とし、紫煙をすうっと細く吐き出した。
「理不尽に耐え、亡き友を想って泣くようなお前さんを、あたしたちが喰う理由なんてないわよ」
「……おでん……?」
「おでんの大根ってのはね」
勘吉が、熱いお茶を淹れ直しながら静かに言った。
「強火で急いでグラグラ煮立てたって、表面が崩れて中まで味なんか染みねぇんだ。弱火で時間をかけて、ゆっくり冷ましてこそ、奥までしっかり味が染み込むのさ。人間も同じだよ。焦って自分を壊す必要はなかったんだ」
お桂も、優しく悠太の肩に手を置いた。
「あんな男、最初からあなたの人生に必要なかったのよ。……ええ、『最初から』ね」
悠太は、震える手で箸を取り、大根を一口かじった。
ジュワッ、と温かい出汁が口いっぱいに広がる。
昆布と鰹の深い旨味。そして大根そのものの優しい甘み。
その温もりが、冷え切っていた胃袋を、そしてボロボロだった心を、じんわりと満たしていく。
「う……あ……っ」
ぽろぽろと、涙が溢れ出してきた。
先輩を守れなかった悔しさ。殺されるかもしれないという恐怖。一人で耐え続けてきた絶望。
そのすべてが、出汁の温もりに溶かされて、涙となって頬を伝った。
おでんを綺麗に食べ終えると、お桂が小さな皿を出してくれた。
芯をくり抜き、じっくり焼き上げられた『焼きりんご』。香ばしい黒糖蜜とシナモンの香りが、傷ついた心を優しく包み込んでくれた。
翌朝。
澄み渡る秋晴れの空の下、悠太は会社のオフィスに立っていた。
恐る恐る、佐々木のデスクを見る。
――そこには、誰もいなかった。パソコンも、書類も、名札すら存在しない。
「あの……すみません。佐々木さんは今日、お休みですか?」
隣の先輩に尋ねると、先輩は不思議そうな顔で首をかしげた。
「え? 佐々木? 誰それ。うちの部署にそんな人、最初からいないよ?」
他の社員に聞いても、上司に聞いても、答えは同じだった。
社員名簿からも、悠太のスマホの着信履歴からも、「佐々木」という名前は綺麗に消え去っていた。
あの一夜で、佐々木という人間は、この世から『最初から存在しなかったこと』になったのだ。
悠太は、自分のデスクに座り、深く、深く息を吐き出した。
胸を押し潰していた重圧が消え、視界が急に明るくなった気がした。
(焦らなくて、いいんだ……)
時間をかけて、出汁を染み込ませるように。自分自身の歩幅で生きていけばいい。
悠太は、お腹の底にまだ残っている温かなおでんの感覚と、昨夜食べた焼きりんごの甘い香りの余韻を胸に抱きしめながら、静かにパソコンの電源を入れた。
ご愛読いただき、ありがとうございます!『幽心庵』第八話をお届けいたしました。
今回はいつもと少し趣向を変えて、あやかしたちの「恐ろしい本性」と「異界の裁き」にスポットを当てた、ちょっぴりダークでスリリングなお話となりました。
普段は温かく客を迎える勘吉やお桂、そして帳場で煙管をくゆらせているクロですが、理不尽に人の心を踏みにじる者には容赦がありません。
「鬼ほおずきの提灯」を下げた使者とともに闇へと消えた佐々木ですが……人間社会からは存在ごと消えてしまっても、悠太の心の中には「救われた記憶」として深く残ることになります。
そして、今回のメイン料理は「じっくり出汁の染みたおでん」と「黒糖蜜の焼きりんご」。
おでんの大根のように、焦らず時間をかけて自分を育んでいく悠太のこれからを、あたたかく見守っていただけると嬉しいです。
「ゾクッとした!」「スカッとした!」「おでんが食べたくなった!」など、感想やブックマーク、評価をいただけますと執筆の大きな励みになります!
次回、第九話もどうぞお楽しみに!




