第柒話 :秋祭りの太鼓と、ふたりを結ぶ新米おにぎり
十月も下旬を迎え、すっかり陽が落ちるのが早くなった。
木枯らしが街路樹を揺らし、吐く息がうっすらと白く染まる肌寒い夜。幽心庵の赤い提灯が、夜の闇にぽつりと温かい灯りを落としている。
「本当に、この道で合ってるの……? 直樹」
「ああ、近道だと思ったんだが……すまない、迷ったかもしれないな」
暖簾の向こうから、身を寄せ合うような二つの足音が聞こえてきた。
ガラリと格子戸が開くと、風とともに店内に飛び込んできたのは、三十代半ばほどの男女だった。肩をすくめ、互いにどこかぎこちない距離感を保ったまま立ち尽くしている。
「いらっしゃい。寒かったでしょう、どうぞこちらへ」
声をかけたのは、カウンターの端で紫色の着物を上品に着こなしたお桂だった。ふわりと葛の花の香りを漂わせながら、手際よく温かいお茶の湯気を立たせている。
「あ……すみません、なんだか温かいあかりが見えたもので……何か温かいものをいただけますか?」
夫の直樹が、冷えた手をすり合わせながら申し訳なさそうに言った。隣に立つ妻の和香は、少し疲れたような顔でうつむいている。
「ええ、まずはお茶で、お腹の底から温まってくださいな」
お桂が優しく微笑みながら湯呑みを差し出すと、直樹と和香の強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
「ちょうどいい出汁が引けたところだ。まあ、そこに掛けなさい」
厨房の奥から、店主の勘吉が穏やかな笑顔で顔を出した。帳場の上にいた看板猫のクロも、パチリと琥珀色の目を開け、しっぽをパタンと揺らして二人を見つめている。
「さて……それじゃあ今夜は、とびきりのやつを拵えるとしよう」
勘吉は二人の胸の奥にある『記憶』へそっと意識を向けた。
二人が大学生だった頃の青く澄んだ秋の空気。神社に飾られた提灯の明かり。遠くから聞こえる太鼓の音と、肌寒い境内で二人で分け合って食べた、あつあつの豚汁と不格好なおにぎりの温もり――。
厨房で鍋がカシャカシャと音を立て、胡麻油の香ばしい匂いが立ち上り始める。やがて、お桂がしとやかな手つきで二人のお膳を運んできた。
「お待たせいたしました。召し上がれ」
運ばれてきた膳を見て、直樹と和香は同時に息をのんだ。
「これは……!」
湯気がもうもうと立ち上る大椀には、ごぼう、大根、里芋、そして旨味たっぷりの豚肉がごろごろと入った『具だくさんの豚汁』。その横には、炊きたての新米をふっくらと結んだ『ツヤツヤの塩おにぎり』と『炙り味噌おにぎり』が並んでいた。
「これ……大学の時の、あの秋祭りと同じだ……」
和香がぽつりと呟く。
「覚えていてくれたのか、和香。あの日もすごく寒くて……お金もなかったから、神社で振る舞われていた豚汁と、屋台のおにぎりを二人で半分こして食べたんだよな」
直樹の言葉に、和香の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。
大学生の頃、付き合い始めたばかりの二人は、ただ一緒にいるだけで温かかった。けれど結婚して数年が経ち、連日の残業や日々の忙しさの中で会話が減り、いつしかお互いに「自分と一緒にいて楽しいのだろうか」と本音を飲み込むようになっていたのだ。
「いただきます……」
ふたりはおにぎりを手に取り、一口かじった。
新米の甘みが口いっぱいに広がり、ふんわりとお米が解けていく。続いて啜った豚汁の出汁と白味噌のやさしい温もりが、身体の芯までじわじわと染み渡っていく。
「美味しい……すごく、温かいです……」
涙を拭いながら食べる和香に、勘吉が静かに語りかけた。
「おにぎりってのはね、ギューギュー強く握りすぎると、形は崩れなくてもお米が潰れて固くなっちまう。夫婦も同じだよ。お互いに遠慮や意地で強く縛りつけすぎず、程よい『間』と包容力で結び直していけばいいのさ」
お桂も勘吉の隣に寄り添い、優しく微笑む。
「そうよ。長いこと一緒にいりゃ色々あるけれど、一番大切な連合いにまで気兼ねして本音を隠す必要はないんじゃないかしら。ほら、肩の力を脱ぎなさいな」
温かい二人からの言葉に、直樹と和香の胸のつかえがすーっと解けていく。
直樹はぎゅっと拳を握りしめ、和香の手をそっと包み込んだ。
「和香、ごめんな。仕事にかまけて、お前の気持ちを置き去りにしてた。あのお祭りの夜みたいに、もっと色んなことを話そう」
「私こそ……忙しいあなたに遠慮して、一人で勝手に寂しくなってたの。ごめんなさい」
そこへ、すっと小鉢を差し出したのはクロだった。
揚げたての黄金色のお芋に、とろりと甘い飴と黒ごまが絡められた『あつあつの大学芋』だ。
「フン、湿っぽい顔はそこまでだ。甘いもんで口直ししな」
クロが尻尾をゆらりと揺らし、呆れたように鼻を鳴らす。
「大学芋ってのはな、外側の飴がカチッと固まってるからこそ、中のほくほくした芋の甘みが逃げねぇんだ。あんたらも大学生の頃から積み重ねてきた固い絆があるんだろ? 表面の固い遠慮なんか破り捨てて、冷めねぇうちに二人で分け合って喰いな」
「大学芋……ふふっ、私たちが大学生だったから?」
「あら、クロちゃんたら相変わらず粋なこと言うじゃない」
お桂がくすくすと嬉しそうに笑う。
「クロちゃん、勘吉さん、お桂さん……ありがとう……!」
ふたりは顔を見合わせ、久しぶりに心からの笑顔を弾けさせた。大学芋のカリッとした香ばしさと、中のあたたかな甘みが、二人の解けた心をどこまでも優しく満たしていくのだった。
「ごちそうさまでした。……なんだか、大切なことを思い出せた気がします」
ふたりは深々と頭を下げ、あたたかな光に包まれた格子戸をくぐった。勘吉とお桂、そしてクロが並んで暖簾の脇に立ち、その背中を優しく見送った。
ガラガラと戸が閉まり、冷たい夜風がふっと頬を撫でる。
ふり返ると、そこにはさっきまであったはずの赤い提灯も暖簾もなく、ただしんと静まり返る暗い路地が伸びているだけだった。
記憶は夜霧のように淡く消え去っていたが、不思議とお腹の底はぽかぽかと温かく、胸の奥には澄み渡るような愛おしさが満ちていた。
「あれ……俺たち、どこに行こうとしてたんだっけ」
「ふふ、忘れちゃった。でも……すごくお腹も心も満たされてるね」
直樹はふと立ち止まると、ポケットから手を出して、隣を歩く和香の指先にそっと触れた。
冷えていた和香の手を、包み込むようにギュッと握りしめる。
「……行こうか。寒くなってきたから、早く家に帰ろう」
「うん!」
握り返された手の温もりに、和香は嬉しそうに微笑んだ。
大学生の頃、あの秋祭りの夜に二人で手を繋いで歩いた時のように。
風に乗って遠くから聞こえる太鼓の音を背に受けながら、ふたりはしっかりと手を繋ぎ、あたたかな我が家へと歩き出したのだった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
店主の勘吉とお桂(実は化けタヌキの夫婦)、そして看板猫のクロ(実は猫又)が迎える幽心庵。
今回は、すれ違っていた人間のご夫婦が「思い出のおにぎりと豚汁」で心を温め直すお話をお届けいたしました。
もし「心がほっこりした」「大学芋や豚汁が食べたくなった!」と思っていただけましたら、作品ページ下部の【★評価】や【ブックマーク登録】で応援していただけますと、執筆の大きな励みになります!
次回(第八話)も、冬の足音が近づく夜にぴったりの温かなお料理をご用意してお待ちしております。




