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幽心庵の温かい日々  作者: 宵月 ゆう
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第陸話 :ぬくもりの出汁と、強さを秘めた葛の花

すっかり陽が落ちるのが早くなり、肌寒い秋風が街を吹き抜ける夜。

お腹のふくらみが少しずつ目立ち始めた女性・美咲(みさき)は、ゆっくりとした足取りで夜道を歩いていた。

初めての妊娠。安定期に入ったとはいえ、日によって変わる体調や、「自分は無事にお母さんになれるのだろうか」「周りに迷惑をかけてばかりではないか」という強い不安とプレッシャーが、彼女の心を重く押し潰していた。

「……私、ちゃんと強いお母さんになれるのかな」

冷えた手をそっとお腹に当てた時、路地の奥にぽっと温かい朱色の灯りが浮かんでいるのが目に入った。

軒先に揺れる赤提灯と、「幽心庵」と書かれた古風な暖簾。吸い寄せられるように引き戸を開けると、チリンと優しい風鈴の音が響いた。

「いらっしゃい……おや、身体を冷やしちゃいけませんね」

出迎えてくれた女将のお桂が、すぐに膝掛けと温かい焙じ茶を運んでくれた。

美咲はお腹を抱えるように座り、ほっと吐息をついた。

「あの……お腹に優しくて、温かいものをいただけますか?」

「お任せくださいな」

奥から顔を出した店主の勘吉が、ふっくらとした顔で優しく微笑み、厨房へ向かった。

トントンと包丁の心地よい音が響き、やがて出汁の豊かな香りが店内に満ちていく。

丁寧にとった昆布と鰹の一番出汁に、新鮮な卵を割り入れてやさしく溶きほぐす。四角い卵焼き器に薄く油をひき、じゅわっと音を立てて卵液を流し込みながら、焦らずゆっくりと幾重にも巻き上げていく。

しばらくして運ばれてきたのは、出来立てで湯気が立つ『ふっくら出汁巻き卵』と、大根や人参が柔らかく煮込まれた『根菜の出汁汁』だった。

黄色く黄金色に輝く出汁巻き卵に箸を入れると、まるで綿雪のように柔らかく、切り口から黄金色の出汁が溢れ出してきた。

「わぁ……美味しそう……」

一口運ぶと、じゅわっと上品な出汁の旨味が口いっぱいに広がり、口の中でホロホロとほどけていく。根菜汁の優しい甘みも身体の芯まで染みわたり、美咲の緊張していた肩の力がすーっと抜けていった。

「美味しい……。なんだか、ずっと張っていた気が緩む気がします……」

ボロボロと涙をこぼす美咲に、勘吉は穏やかに語りかけた。

「出汁巻き卵ってのはね、強い火で急いで巻こうとすると破れちまうんだ。弱火で、出汁をたっぷり含ませながら、じっくり巻くのが一番ふっくら仕上がる。……母親になるのも同じだよ。最初から完璧じゃなくていい。周りに甘えて出汁を吸い込みながら、時間をかけてお母さんになればいいのさ」

「へいへい、辛気臭い顔してないで、食後の甘味でも食べな」

カウンターの端から声をかけたのは、二本尾の黒猫――猫又のクロだった。

クロが差し出したのは、出来立てでほんのり温かい『濃密黒蜜の温葛餅(おんくずもち)』だった。

プルンと透明感のある出来立ての葛餅に、香ばしい深煎りきな粉と濃厚な黒蜜がたっぷりとかかっている。

「冷たいお菓子は身体に触るだろ。練りたての温かい葛餅さ」

美咲がフォークでひとくち口に運ぶと、プルプルとしていながらも、驚くほどしっかりとした弾力と滑らかな舌触り。黒蜜のコクときな粉の香ばしさが口いっぱいに広がった。

「すっごく美味しい……! でも、柔らかいのにすごく弾力があって、芯がある食感ですね」

美咲が感嘆の声を漏らすと、クロはフンと八重歯を覗かせて鼻を鳴らした。

「当たり前だろ。葛ってのはね、どんなに踏みつけられても、深く強く根を張って伸びていく頑丈な植物なんだ。だから、葛の花言葉は『芯の強さ』や『強い思い』って言われてんだよ」

「……芯の強さ……」

「あんたは『自分は弱い、不安だ』って思ってるかもしれないがね、お腹の子供を守ろうとこうやって悩んで耐えてる時点で、ちゃんとあんたの根っこには『強い思い』が張ってんのさ。もっと自分の芯の強さを信じな」

素っ気ない言葉の裏にあるクロの不器用な優しさに、美咲のお腹の中で、トントンと小さく芽吹くような命の鼓動が返ってきた気がした。

美咲は最後の一口まで葛餅を綺麗に平らげ、お腹をさすりながら微笑んだ。

「私……この子と一緒に、ゆっくり芯のあるお母さんになります。ごちそうさでした!」

お会計を済ませ、暖簾をくぐって外へ出る。

ガラガラと引き戸が閉まった、その瞬間。

「……あれ?」

暖簾をくぐった瞬間のフワリとした感覚とともに、さきほどまでいた店の風景も、優しい狸の夫婦や黒猫の顔も、朝見た夢のようにすーっと消えていった。

けれど――お腹の温もりと、舌に残る甘い黒蜜と優しい出汁の風味。

そして、「あなたにはちゃんと芯の強さがある」という言葉のあたたかな余韻だけは、確かに美咲の胸に残っていた。

(大丈夫。私には、この子を守る芯がある)

その時、秋風に乗って、どこか懐かしいキセルのほろ苦いタバコの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

美咲はそっとお腹に手を当て、月明かりの下を晴れやかな笑顔で歩き出したのだった――。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

今回は頑張る妊婦さんと、勘吉が作る『出汁巻き卵』、そしてクロ特製の『温葛餅』のお話でした。

葛の花言葉である「芯の強さ」が、不安を抱えるお母さんの背中をそっと押してくれたら嬉しいです。

もし「ほっこりした」「出汁巻き卵や葛餅が食べたくなった!」と思っていただけましたら、ページ下部の【ブックマーク登録】や【ポイント評価(★★★★★)】で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!

次回のエピソードもどうぞお楽しみに!

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