第伍話 : 月夜のモンブランと、不器用なままでいい
爽やかな秋の風が、街路樹の葉をサラサラと揺らす夜。
介護施設で事務職として働く三十代の女性・志保は、トボトボと夜道を歩いていた。
「はぁ……またミスしちゃったな……」
後輩たちはパソコン操作も要領も良く、手際よく業務をこなしていく。それに引き換え、志保は要領が悪く、一つの書類を作るのにも時間がかかり、周りに置いていかれているような焦りと自己嫌悪で胸がいっぱいだった。
「私って、何をやっても不器用でどんくさいなぁ……」
下を向いて歩いていると、路地の奥にぽっと温かい朱色の灯りが浮かんでいるのが目に入った。
軒先に揺れる赤提灯と、「幽心庵」と書かれた古風な暖簾。誘われるように引き戸を開けると、涼やかな風鈴の音が響いた。
「いらっしゃい……おや、いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、着物姿の温和そうな女将・お桂だった。
志保はカウンターの端の席に腰を下ろし、肩をすぼめた。
「あの……何か温かいものでもいただけますか? 今日、なんだかすっごく疲れてしまって……」
「疲れた時には、甘いもんに限るよ」
カウンターの端で煙管をくゆらせていた二本尾の黒猫――猫又のクロが、ぬっと立ち上がった。
いつもなら料理を担当する店主の勘吉が厨房に入るが、今日はクロが八重歯を覗かせてニヤリと笑う。
「おいおいクロ、今日は自分で行くのかい?」と勘吉が尋ねると、クロはフンと鼻を鳴らした。
「当たり前だろ。甘味はアタシの領域さ」
次の瞬間、ボッと小さな白い煙が立ち上った。
志保が「えっ!?」と目を丸くする間に煙が晴れると、そこに立っていたのは――黒い小袖を粋に着こなし、頭にピンと立った黒猫の耳を残した、ミステリアスで美しい黒髪の少女だった。
「な……ネコちゃんが、人間に……!?」
驚いて固まる志保をよそに、人間の姿になったクロは「この手の方が力が入りやすいんだよ」と手首をくるりと回し、エプロンをキュッと結んだ。
厨房に入ったクロの足取りは、本物の職人そのものだった。
茹で上げた国産の和栗を木べらで丁寧に裏ごしし、きめ細かなペーストに仕上げていく。そこに少量の生クリーム、隠し味にほんのひと匙の和三盆、そして無塩バターを加え、ツヤが出るまで滑らかに練り上げていく。
「裏ごしは二度やらないと、舌触りにボツボツが残るんだよ。横着しちゃダメなのさ」
クロは繊細な指先で絞り袋をしっかりと握り、土台となるサクサクのほうじ茶メレンゲの上に、濃厚なマロンクリームを幾重にも、幾重にも美しく渦を巻くように絞り出していく。最後にトップへ艶やかな栗の渋皮煮をひとつ乗せ、粉糖をはらりと降らせた。
「ほらよ。クロ特製『濃密和栗の和風モンブラン』だ。崩れないうちに食べな」
目の前に置かれたのは、まるで高級店のお菓子のように美しく重なり合った和栗のモンブランだった。
香ばしい和栗の豊かな香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「……すごい。こんなに綺麗で繊細なお菓子、見たことないです」
志保は感嘆の声を漏らし、フォークでそっと一口すくって口に運んだ。
「……っ!!」
口に入れた瞬間、濃密な栗の甘みと風味が贅沢に広がり、ほうじ茶メレンゲのサクサクとした食感と絶妙に調和する。あまりの美味しさに、志保の目からふっと力が抜けた。
「すっごく美味しい……。こんなに素敵なお菓子を作れるなんて、クロさんは器用でうらやましいな。私なんて……職場でも要領が悪くて不器用で、後輩にも追い抜かれてばかりで……自分でも嫌になっちゃうんです」
一口食べるごとに、ずっと溜め込んでいた惨めさと情けなさが溢れ出し、志保はポロポロと涙をこぼした。
人間の姿のままカウンターに肘をついたクロは、ふたつの黒猫の耳をぴくっと動かし、黄金色の瞳で志保をじっと見つめた。
「あんたねぇ、さっきから『不器用』『不器用』って自分を貶めてばかりだけどさ」
クロは八重歯を少し覗かせ、フンと鼻を鳴らした。
「栗ってのはね、頑丈なイガと硬い鬼皮で自分をガチガチに守ってて、剥くのが一番面倒で手のかかる奴なんだよ。裏ごしだって何回もやらなきゃならねぇ。……けどね、時間をかけて丁寧に剥いて向き合えば、中から一番甘くて美味い実が出てくるんだ」
「え……?」
「要領よく器用に立ち回る奴が偉いわけじゃないのさ。あんたは不器用なんじゃない。じっくり時間をかけて、自分の中にいい味を育ててる途中なだけだよ。焦って自分の価値を下げたり、安っぽい妥協に流されんじゃないよ」
辛口で素っ気ないけれど、そこには志保の真面目さや努力をちゃんと見てくれている、温かい芯があった。
「クロの言う通りですよ」とお桂が優しく微笑み、温かい緑茶を添えてくれる。「時間をかけた分だけ、深みのある良い人間になれるんですからねぇ」
「……私、時間をかけていい味を出してる途中、なんですね」
志保は涙を拭い、もう一口、モンブランを口に含んだ。
和栗の深い甘みが、傷ついた心にじんわりと染み渡っていく。
「ありがと……クロさん。すごく救われました。私、自分のペースで、ひとつずつ丁寧にお仕事頑張ってみます」
「フン、感謝するなら残さず食べな」
クロはそう言うと、ボッと煙を立てて元の可愛い黒猫の姿に戻り、照れくさそうに顔を背けて毛繕いを始めた。
モンブランを綺麗に平らげ、お腹も心も温まった志保は、晴れやかな笑顔で「ごちそうさでした!」と会計を済ませ、暖簾をくぐった。
ガラガラと引き戸が閉まり、チリンと風鈴の涼やかな音が夜風に溶ける。
――その瞬間。
「……あれ?」
志保はふと足を止め、首を傾げた。
暖簾をくぐった瞬間のフワリとした感覚とともに、さきほどまでいた「幽心庵」の店内の風景も、着物姿の女将や、人間の姿に化けてモンブランを作ってくれた黒猫の顔も、まるで朝見た夢のようにすーっと頭の中から消え去っていった。
自分がどこに入り、誰と何の話をしていたのかは、もう思い出せない。
しかし――舌の奥に掠かに残る、濃厚で甘い和栗の幸せな風味。
そして、胸の奥でポカポカと温かく灯る、確かな言葉の余韻。
(あたしは、不器用じゃない。時間をかけて、いい味を育ててる途中なんだ)
どこで誰に言われたのかは分からなくても、その言葉だけは志保の心に深く根を張り、明日を生きる光となっていた。
志保は月明かりの下、ふっと柔らかく微笑んだ。
その時、ひゅっと吹いた秋風に乗って、どこか懐かしいキセルのほろ苦いタバコの香りが、かすかに鼻腔をくすぐった。
「……ふふっ」
――風に乗って届く、あのキセルのタバコの香りが、そう教えてくれた気がした。
夜風は冷たかったけれど、志保の足取りはしっかりと、明日へ向かって踏み出されていたのだった――。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回はクロ特製のモンブランと、「焦らず時間をかけて自分の味を育てていけばいい」というお話でした。
日々の仕事や生活で少し疲れてしまった方の心が、少しでも軽くなっていただけたら嬉しいです。
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