第肆話 :黄昏のうたた寝とホウズキのお守り
じりじりと蝉が鳴き立てる、夏の終わりの夕暮れ時。
幽心庵の軒先には、お盆の時期に合わせて鮮やかな朱色の「ほおずき提灯」が風に揺れていた。
「ガラガラ……」と引き戸が開くと、風鈴が涼やかな音を鳴らす。
暖簾をくぐってきたのは、近所で小さな花屋を営む初老の男・文吉だった。
「いらっしゃい……おや、文吉さん。今日も暑い中ご苦労様だねぇ」
女将のお桂が、氷の浮かんだ冷たい麦茶をすっと差し出す。
文吉は感謝しながら一口飲み、カウンターのいつもの端の席に腰を下ろした。
彼は、幽心庵の料理を食べても記憶が消えず、何度もこの店を訪れている数少ない「常連客」だった。
「文吉さん。あんたがうちの常連になった最初の日のこと、覚えてるかい?」
カウンターの端で煙管をくゆらせていた猫又のクロが、黄金色の目を細めて尋ねた。
「ああ……忘れるはずもないよ。一年前の、あの夏の黄昏時だったな」
文吉は懐かしむように目を細め、一年前のあの日を思い返した。
一年前の夏。文吉は最愛の妻を病気で亡くし、生きる気力を完全に失っていた。
妻と一緒に育てていた花屋も畳もうかと考え、絶望の中で夜の街をあてもなく彷徨っていた時、吸い込まれるように暖簾をくぐったのが幽心庵だった。
料理が出されるのを待つ間、疲弊しきっていた文吉は、カウンターでうとうとと「うたた寝」をしてしまった。ちょうど空が茜色から深紫へと溶け渡る黄昏時のことだ。
厨房でそれに気づいた店主の勘吉は、お桂と静かに目を合わせた。
疲れ果て、魂の糸が今にも切れそうな文吉の顔を、勘吉はじっと見つめる。
「……お桂。この人はね、いつものように記憶を消して帰したら、今夜にでも奥さんの後を追っちまうよ」
お桂は悲しそうに目を伏せ、静かに頷いた。
「ええ。この人には、明日を生きるための『温かい執着』が必要ですねぇ」
「よし……黄昏時にうたた寝をしたのも何かの縁だ。この人には、特別に『記憶の灯火』を持たせてやりますか」
目覚めた文吉の目の前に出されたのは、文吉の記憶を読み取って作った『翡翠茄子の冷やし素麺』だった。出汁の優しさが身体に染み渡り、文吉の止まっていた命の温もりを取り戻させたのだった。
そして、勘吉の手から渡されたのは、藍色のちりめん巾着に入った「朱色のホウズキのガラス玉」。
『辛いとき、悲しいとき、そのホウズキのガラス玉をギュッと握りしめれば、いつでも幽心庵の赤提灯が見えるようになるからね』
料理を夢中で平らげ、ボロボロと流していた涙を袖で拭うと、文吉は白髪頭をボリボリと掻いた。
『……いやあ、恥ずかしい。大の男が、店でうたた寝はするわ、鼻水垂らして泣くわで……見苦しいところを見せちゃいましたな』
てれくさそうに頭を下げる文吉を見て、勘吉とお桂は「ハハハ!」と気持ちよく笑い声を上げたのだった。
「ハハハ、あの時の文吉さんは本当に見事な泣き顔だったねぇ」
クロが可笑しそうに目を細めると、文吉は「よしてくれよ」と苦笑いした。
「でもね……あの時、勘吉さんがお守りをくれて、美味しい素麺を食べさせてくれたおかげで、俺は今日まで生きてこられたんだ。本当にお世話になったよ」
文吉がしみじみとお礼を言うと、厨房から勘吉が、涼やかな青ガラスの器を運んできた。
「さあ、文吉さん。思い出話はそれくらいにして、今日のお盆の特別料理をお上がり。今年もお馴染みの『翡翠茄子の冷やし素麺』だ」
美しく皮を剥かれて翡翠色に透きとおった茄子が氷水に浮かび、ミョウガと大葉の薬味が添えられている。
文吉は「いただきます」と箸をつけ、茄子と素麺をひと口すすった。
「……ッ!? ん……!?」
文吉は目を丸くし、箸を止めた。
もう一口、確かめるように出汁を口に含み、思わず立ち上がりそうになる。
「か、勘吉さん……! これ、一年前と味が違う……! 出汁のコクも風味も段違いだ……! これ、あいつ(亡き妻)が家で作ってくれていた素麺の味と、全く同じじゃないか……!!」
大興奮で目を見開く文吉を見て、勘吉はニヤッと八重歯を覗かせて笑った。
「おや、気がついたかい? 一年前にお出ししたのはね、あんたの頭の中にある『美味かった思い出の記憶』を読み取って作ったものだったんだよ」
「記憶を……?」
「そうさ。だがね、文吉さん自身が『食べる側』だったから、奥さんがどんな仕込みや隠し味を入れていたかまでは、あんたの記憶にも残っていなかったんだ。だから一年前の時点では、完璧に同じ味にはできなかったのさ」
文吉は「たしかに……」と絶句した。生前、いくら聞いても『主婦の企業秘密だよ』と笑って教えてくれなかったからだ。
「じゃあ、なんで急にうちのやつの味になったんだい……!?」
腰を抜かさんばかりに驚く文吉に、お桂がクスクスと嬉しそうに微笑んだ。
「お盆ですからねぇ。一昨日、あっち(あの世)から奥さんがうちの厨房にふらりとやって来てね。『うちの人、不器用だからちゃんと食べてるか心配で。あの子が大好きだった私の素麺の隠し味、勘吉さんに教えておくわね』って、直接伝授していってくれたんですよ」
「あいつが……! 幽心庵に来てたのか……!」
勘吉が嬉しそうに頷く。
「出汁に『炒り胡麻の風味』と『ほんの少しの生姜の搾り汁』を効かせるのが奥さんの『企業秘密』だったそうだ。これでこれからは、俺もいつでも文吉さんに奥さんの本当の味を作ってあげられるよ」
文吉はそうめんの鉢を両手で抱え込み、胸がいっぱいになってぽろぽろと涙をこぼした。
自分の記憶すら超えた場所にあった「本当の妻の味」。姿は見えなくても、妻は今も自分を心配し、愛してくれている。その確かな実感が、心とお腹を優しく満たしていった。
「……ごちそうさまでした。本当に、今までで一番美味しい素麺だったよ」
文吉はすっかり元気を取り戻した晴れやかな顔で立ち上がり、ポケットの中のお守り巾着をぎゅっと握りしめた。
手のひらに伝わる、まんまるいガラス玉の確かな丸みと温もり。
「また来年も、その先も、茄子の季節になったら来ますからね。あいつによろしく言っておいてください」
「ええ、いつでも待っているよ。奥さんにもそう伝えておくさ」と勘吉とお桂が笑顔で送り出す。
風鈴の「チリン……」という涼やかな音を聞きながら外へ出ると、夜空には満天の星とお盆の送り火の煙がたなびいていた。
あの日もらったホウズキのお守りがある限り、幽心庵の温もりも、妻が残してくれた愛の味も、何ひとつ消えることはない。
文吉は夜風を胸いっぱいに吸い込み、我が家へとしっかりと歩みを進めていったのだった――。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
お盆の時期の、文吉さんと亡き奥さんの思い出の味のお話でした。
少しでも心が温まるものを感じていただけましたら、ぜひ【ブックマーク登録】や【☆評価】で応援していただけると励みになります!
次回(第五話)も秋の物語を用意してお待ちしております。




