第弐拾弐話:人の不幸は蜜の味、食いすぎゃ毒となる
湿った夜気が、細い路地裏の闇を這うように忍び寄る。
冷たい雨が降り続く中、男――津田は、スマートフォンを覗き込みながら薄ら笑いを浮かべていた。
画面に映っているのは、ネットの掲示板やSNSで炎上している知人の醜態だ。かつて自分を出し抜いて昇進した男が、大きなミスを犯して会社を追われ、路頭に迷っているという噂。それが津田にとって、何よりも香ばしく、脳を痺れさせる最高の「蜜」だった。
「ざまあみろ……お前が落ちぶれたのは、俺を軽んじた罰だ」
他人の不幸、失脚、破滅。その毒を含んだ甘美な噂話を貪るうちに、津田の舌の根には、いつの間にかネバつくような悪趣味な甘さがこびりついていた。それは麻薬のように彼の心を浸食し、日々の食事の感覚をすべて狂わせてしまっていた。
最近の津田には、どれだけ美食を口にしても満たされない奇妙な飢えがあった。
高級なステーキも、濃厚な甘味も、喉を通った瞬間にすっと消え失せ、胃の腑には何も残らない。いくら食べても、口の中にはただ焦燥感と乾いた砂のような不快感だけが広がり、脳が求めているのは、他人の不幸という名のドブ泥の蜜だけだった。
「……寒っ。なんだこの道は」
顔を上げると、いつの間にか見覚えのない古い路地裏に迷い込んでいた。
その突き当たりに、ぽつんと灯る赤い提灯。薄汚れた木造の店構えには、『幽心庵』と墨痕鮮やかに書されていた。
引き戸を開けると、カラカラ、と乾いた木が滑る音が静けさに響く。
店内に漂っていたのは、鼻を突くような不快な匂いではなく、どこか懐かしく、透き通るような砂糖と小豆の甘い香りだった。
「おや、お客さんだねぇ」
帳場の奥から、煙管の紫煙をくゆらせた黒猫のクロが、すうっと音もなく姿を現した。
クロは、カウンターの端に腰掛けた津田の顔をじろりと見据えると、冷ややかな、けれどどこか見透かすような声を落とした。
「人の不幸は蜜の味、それは食いすぎゃ毒となる……とはよく言ったもんだねぇ。あんた、そんなドブ泥の蜜ばかり食って、舌も心もすっかり毒に侵されちまってるよ」
津田はぎょっとして眉をひそめた。
「なんだお前……気味の悪い猫だな。勝手なこと言うなよ」
「勝手かい?」
クロの琥珀色の瞳が細く吊り上がり、その背後から二本の尾がゆらりと黒い影を広げる。
だが、他人の不幸の蜜に脳を焼かれた津田の目は濁ったままで、ただ不機嫌に鼻を鳴らした。
「うるさいな……! 他人がどうなろうが俺の知ったこっちゃないだろ。それより、何か甘いものを出せ! 金なら払うからよ!」
その傲慢な態度に、奥からお桂が静かに姿を現した。
「……甘いもの、ですか」
お桂と勘吉が視線を交わすと、帳場にいたクロがふっと短く鼻を鳴らした。
「ふん……大将、今夜の甘味はあたしが仕立てるよ。毒に侵された舌に、本物の甘さがどう映るか試してやろうじゃないか」
クロがすっと目を細めた瞬間――帳場の紫煙がふわりと立ち込め、クロの身体を包み込んだ。
煙が晴れると、そこに立っていたのは猫の姿ではない。
漆黒の小袖を粋に着こなし、頭にはピンと立った黒猫の耳を残した、ミステリアスで美しい黒髪の少女。
その細い背中から伸びる二本の尻尾が、揺らめく影のようにしなやかに揺れている。
津田がその妖しい美しさに一瞬息を呑むのも構わず、少女の姿となったクロは、器用な手つきで袂をたくし上げると、身軽に厨房へと入っていった。
火にかけた小さな鍋で葛を木ベラでゆっくりと練り上げ、透き通るような琥珀色の蜜と栗を合わせる。さらに、手際よく自家製餡の練り切りを型取っていく動作は、優雅でいて無駄がない。
やがて、津田の前に出されたのは、見た目にも美しい「栗の葛寄せ」と、上品な「練り切り」だった。
あやかしの美学と確かな手仕事が合わさった、極上の甘味だった。
「お待ちどうさま。あたしが丹精込めて拵えた甘味だ……心して味わうんだね」
津田は鼻で笑うと、箸で練り切りを乱暴につまみ、口に放り込んだ。
――が。
「……っ!?」
津田の顔色が変わった。
甘くない。美味しいはずの小豆の風味も、砂糖のまろやかなコクも、まったく感じられない。
口の中に広がるのは、どこかドブ川の底のような、ねっとりと舌を這い回る気味の悪い「濁った甘さ」だけだった。
「なんだこれ……! まずい! 味しねぇぞ! こんな腐った甘味を出しやがって!」
津田は茶碗をガチャリと乱暴に音を立てて卓に叩きつけた。
すると、店内の空気が凍りついた。
「……腐って、いるかい?」
低く、地獄の底から響くような勘吉の声。
そして、厨房の端で黒い小袖の裾を揺らしたクロが、縦に裂けた琥珀色の瞳で津田を冷ややかに睨みつけた。
「あたしの手仕事に泥を塗るのかい? お前さんが味わっているのは、他人が血を流して泣いたときの、ドブ泥のような呪いの蜜だ。そんなものに舌を浸しきった乾いた口で、本物の甘味の味が分かるものか」
「人の不幸ばかりを貪り食うから、お前の内側はとうとう空っぽになちまったのさね。その甘味の味がしないのは、お前の心がすでに毒で腐り果てているからだよ」
「ひっ……!」
ようやく、津田の背筋に本物の恐怖が走った。
目の前の店主も、女将も、そして美しい少女の姿をした猫も、人間ではない。自分を値踏みし、その醜い魂を丸ごと見透かしている異形の者たちなのだと気づいた瞬間、津田は泡を食って椅子から転げ落ちた。
「帰れ……二度と、この店の暖簾をくぐるんじゃないよ」
お桂の静かな一言が落ちた瞬間、激しい旋風が店内に吹き荒れた。
――気がつくと、津田は冷たい雨の降るアスファルトの上に尻餅をついていた。
目の前にあるのは、ただの古びた空き地と、水たまりだけだった。
『幽心庵』の姿も、赤提灯の光も、跡形もなく消え失せていた。
「はぁ、はぁっ……なんだ、あれは……夢か……?」
恐怖に震えながら立ち上がり、津田は自分のスマホを取り出した。
しかし、画面に映っていたはずの知人の炎上記事も、SNSの悪口も、なぜかすべて「エラー:ページが存在しません」と表示され、跡形もなく消え去っていた。
脳を焼かれていた「蜜」の味が消えた瞬間、津田の口の中に残っていたのは、ただの生暖かい泥のような不快感だけだった。
彼は恐怖に顔を引きつらせながら、震える足で家路へと走り出す。
その背中が闇に溶けていくのを、夜の路地裏の深い影から――無数のギラギラとした異形の目が、ただ静かに、冷徹に見下ろしていた。
人間の善も悪も、醜さも業も、すべてはあやかたちの掌の上にある一幕にすぎない。
それぞれの思惑を沈めながら、赤提灯の灯る小さな隠れ家の夜は、今日も静かに更けていくのだった。
第22話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、他人の不幸や失態を貪るうちに心を毒されてしまった男と、そんな人間の業を冷徹に、かつ鮮やかに見据えるあやかたちのエピソードでした。
久しぶりに人間の姿(黒髪の少女)になったクロの甘味作りや、少しダークでゾッとするような『幽心庵』の裏の顔を楽しんでいただけたなら幸いです。
次回もまた、小さな隠れ家にやってくる新たな客の物語をお届けします。どうぞお楽しみに!




