第弐拾壱話:秋夜の調律と、七輪の旋律
深まる11月の夜。冷たい夜風が木々を揺らし、どこか遠くの波音と混ざり合いながら、静まり返った暗がりを吹き抜けていく。
都会の喧騒と、終わりなきヒット曲のプレッシャーに耳をすり減らしてきた作曲家・真壁は、吹き付ける冷気に背中を押されるようにして、ぽつんと灯る赤提灯の前にたどり着いた。
「……こんなところに、店なんてあったか」
戸惑いながら引き戸を開けると、カラカラ、と乾いた木が滑る心地よい音が静けさに響く。
店内に満ちていたのは、外の冷たさを忘れさせるような炭の香ばしい匂いと、しっとりとした暖かな空気だった。
「おや、お客さんだねぇ。冷えただろう、こちらへおいで」
帳場の奥から顔を出した女将のお桂が、優しく微笑みながらカウンターの端へと促す。
席に腰を下ろした真壁の目の前で、店主の勘吉が無言で卓上の七輪に炭をくべた。
パチパチ、と炭が爆ぜる乾いた小気味いい音が、真壁の強張っていた鼓膜を優しく撫でる。
「……お待ちどうさま。まずは、これで温まりな」
勘吉が七輪の網の上に載せたのは、見事なまでに脂ののった、太い秋刀魚だった。
炭火の熱を受け、ジュワリ、と皮目が音を立てて脂を弾き始める。香ばしい煙がふわりと立ち上り、醤潮の香りが鼻腔をくすぐった。
箸を入れれば、皮はパリッと軽やかに割れ、中からは湯気をまとったふっくらとした白い身があらわれる。
大根おろしに醤油を垂らし、熱々の身と一緒に口に運ぶ。
――瞬間。
香ばしい脂の旨味と絶妙な塩気が口いっぱいに広がり、冷え切った身体の隅々まで染み渡っていく。
頭であれこれと音符をこねくり回していた真壁の思考がすーっと澄み渡り、ダイレクトに「美味しい」という生きる実感が心を満たしていった。
「……うまい……」
言葉を失い、ただ無心で秋刀魚を味わう真壁の足元に、カウンターから音もなく降りてきたクロがふわりとすり寄る。
クロはしっぽを優しく揺らしながら、気だげな、けれどどこか核心を突く声で言った。
「耳ばかり澄ませて、頭の中でばかり音を鳴らそうとするから、肝心の腹の底が空っぽになるのさね。音なんてのは、ちゃんと外の風の音を聴いて、七輪の炭の爆ぜる音を聴いて、温かい飯を食ってから紡ぐもんだよ」
クロの言葉と七輪の温もりに包まれ、真壁の乾いた頭の中に、かつて自分が純粋に音楽を愛していた頃の「音の記憶」が鮮やかに蘇っていく。
すっかり表情が和らいだ真壁は、深く頭を下げて店をあとにした。
「……ごちそうさまでした。おかげで、なんだか肩の荷が下りたよ」
引き戸が閉まり、冷たい夜風の中へと真壁の背中が消えていく。
――その瞬間。
いつものように、店を出た途端に『幽心庵』での記憶やあやかしたちの姿は、夜霧に溶けるように曖昧な夢へと変わってしまった。
けれど、真壁の胸の奥には、確かな温もりと、生きた「音の感覚」だけがしっかりと残されていた。
数日後の深夜。
静まり返った『幽心庵』のカウンター。
棚の上にちょこんと置かれた小さなラジオから、深夜の音楽番組のDJの穏やかな声が流れていた。
『――さて、今夜の最後にお届けするのは、作曲家の真壁氏による新曲です。なんでも、ある冷たい夜に行き詰まっていた彼をふと救ってくれた、名前も顔も思い出せない不思議な温もりをインスピレーションに書き下ろしたそうですよ。それでは、お聴きください』
ラジオのスピーカーから響き出したのは、どこか懐かしく、そして七輪の炭火や夜の赤提灯の温もりをそのまま音にしたような、美しく切ないピアノの旋律だった。
その音色を聴きながら、クロは心地よさそうに喉を鳴らし、勘吉とお桂は顔を見合わせてふっと優しく微笑む。
それぞれの場所でしっかりと音を響かせ始めた人々を見守りながら、小さな隠れ家の夜は、今日も静かに更けていくのだった。
第21話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、ヒット曲のプレッシャーにすり減ったスランプの作曲家・真壁が『幽心庵』に迷い込むエピソードをお届けしました。
七輪の秋刀魚: 卓上の七輪で香ばしく焼き上げられた脂ののった秋刀魚。その皮がパリッと割れる音や炭の爆ぜる音が、真壁の凝り固まった思考を優しく解きほぐします。
音の記憶とラジオの旋律: 店を出ると記憶は霧のように消えますが、胸に残った温もりは新しい音楽のインスピレーションとなり、後日深夜のラジオから美しいピアノ曲として響き渡ります。
寒さが増す季節、皆さまの心にも温かな音色が届いていれば嬉しいです。感想やコメントなど、いつでも気軽にお聞かせくださいね!




