第弐拾参話:開かずの箱と職人の手(上)
ひっそりと静まり返った人間の世界。闇が最も深く、あやかしたちの時間が濃くなる丑三つ時。
勘吉とクロは、古びた板塀の隙間をすり抜けるようにして、闇の中にぽっかりと浮かぶ隠し戸を押し開いた。
「さあて、丑三つ時だ。今夜もしっかり良いもんを仕入れないとねぇ」
勘吉が大きな風呂敷包みを肩にかけ、石畳を踏み鳴らす。その足元で、クロがぴんと尻尾を立てて、ツンと冷たい夜気を鼻で嗅ぎ分けた。
扉の向こうに広がっていたのは、怪しく揺らめく黄昏色の提灯がずらりと並び、威勢のいい声と香ばしい湯気が立ち込める江戸情緒あふれる長屋商店街――通称『百鬼横丁』だ。
河童の源次と海坊主の「大入水産」でピチピチの川魚を仕込み、豆腐小僧の小太郎が営む「水月堂」で極上のおぼろ豆腐を受け取る。木霊たちの「木漏れ日堂」で朝露に濡れた山菜を譲り受け、砂かけ婆と子泣きジジイの「姥捨屋」で名物の古漬けを手に取る。麦わら帽子のカカシが守る立派な里芋に、狐の女主人・稲荷屋が極上に寝かせた特製醤油、さらに瀬戸大将の店で杉のせいろまで買い揃え、二人は大満足で『幽心庵』へと戻ってきた。
「ふう、これで今夜の役者は揃ったねぇ」
パンパンに膨らんだ風呂敷をカウンターに下ろし、勘吉が汗を拭う。
だが、仕入れたばかりの極上食材を棚に収めようとしたお桂が、ふと手を止めた。
「あら……棚の隅のこれ、どうしましょうかねぇ」
お桂の視線の先にあるのは、数日前に梟歌が置いていった、あの「寄せ木細工の秘密箱」だった。
仕入れの熱気が残る店内に、噂を聞きつけた百鬼横丁のあやかしたちが「どれどれ」「見せてみな」と野次馬根性でワラワラと集まってくる。
「なんだい、この妙ちくりんな木箱は。あたしたち陶器の職人技(?)から見れば、こんな細工など……!」
仕入れのついでについてきた瀬戸大将が、ピカピカと茶碗の縁を光らせながら転がり出てきた。器用に蓋の隙間へ尖った口を差し込もうとするが、コンクリートのように硬く閉ざされた継ぎ目に弾かれてしまう。
「むぐっ……なんだいこの頑固さは! 隙間一つ通さないなんて、焼き物よりよっぽど厄介じゃないか!」
「おや、瀬戸大将がそれほど手を焼くとはね」
ふふ、と妖艶に微笑みながら進み出たのは、狐の女主人・稲荷屋だ。
彼女はしなやかな指先で箱を撫で、流し目を送りながら妖力を込めてみたが、美しい木肌は微動だにしない。
「ふふっ、呪力も妖気も綺麗に弾き返すわね。人の手による仕掛けだけでここまで完璧に固められているなんて、大した代物だわ」
さらに河童の源次や砂かけ婆まで加わり、風を吹きかけたり、力任せに押したり引いたりとなんだかんだで大騒ぎになった。
だが、どんな方法を試しても、箱はまるで固い岩の塊のように冷ややかに沈黙を守っている。
「いやはや、相変わらず賑やかですな」
そこへひょっこり現れたのは、黒塗りの行商箱を背負った烏のあやかし・九十九だった。
右目の片眼鏡をキラリと光らせ、細い指先で慎重に箱の表面を撫でまわす。
「ふむ……単なる呪力や力任せでは開きませんね。幾重にも組み合わされた木目と構造、それ自体が完璧な鍵となっている。……おや、これ以上やるとせっかくの組み木が痛みますよ」
「あぁもう、めんどくさいねぇ!」
帳場の端で見守っていたクロがすっかり飽きてしまい、プイと大きな黒い尻尾を振って背を向けた。
「せっかくの美味しいお魚や豆腐があるのに、こんな開かないガラクタと睨み合ってたって仕方ないじゃないか! もう放っておきなよ!」
「ですねぇ。力任せじゃ開かないように、よほど頑固な術がかけられているんでしょう」
お桂が温かいお茶を差し出しながら、くすくす笑う。
「違いない。みんな、仕入れの食材で温かい汁でも拵えるから、飲んでいきな」
勘吉が苦笑いしながら包丁を握ると、あやかしたちは「なんだ、開きもしないのか」「つれない箱だねぇ」と文句を言いながらも、美味しそうな出汁の香りに引き寄せられてテーブルへと散っていった。
九十九はやれやれと肩をすくめ、箱をそっと棚の最上段の隅へと戻した。
「……まあ、いつかこの箱の複雑な意趣を、指先ひとつで解き明かすような奇特な職人でも現れるのを待つとしましょうか」
夜が更け、百鬼横丁のあやかしたちが満足げにお腹を叩いて帰り去ったあと。
静まり返った『幽心庵』の棚の隅で、その「開かずの箱」は誰に触れられることもなく、静かにポツンと佇んでいた。
――まさかその翌晩、あの職人が暖簾をくぐってくるとは、この時のあやかしたちは知る由もなかった。
第23話の上巻、いかがでしたでしょうか。
今回は「開かずの箱」という不気味でミステリアスな本筋の前に、あえて賑やかな『百鬼横丁』の仕入れシーンを挟むことで、日常の温かさと“あやかしの日常感”をたっぷり描いてみました。
あやかたちが束になってもピクリとも動かないあの寄せ木細工の箱ですが、実はあやつる者たちの「力任せや呪力」を完全に弾き返す性質を持っています。だからこそ、このあとの中巻・下巻で登場する「あの職人」の職人技(指先の感覚と木の癖を読む技術)がより一層引き立つという算段です。
ここで、今回登場した「百鬼横丁」の愉快な仲間たちの特徴を少しだけご紹介します!
河童の源次 & 海坊主(大入水産)
特徴: 幽心庵の料理に欠かせない川魚や魚介を卸す目利きコンビ。源次は頭の皿にプライドを持っており、気風が良くて少しお調子者。海坊主は寡黙ながら、水桶の底から極上の素材をそっと差し出す職人肌の巨漢。
豆腐小僧の小太郎(水月堂)
特徴: いつもちょっとおどおどしている気弱な小妖怪。しかし、その手から生み出される豆腐の味は本物で、地下の清らかな湧き水で仕込んだおぼろ豆腐は勘吉の汁物作りに絶対不可欠。
木霊たち(木漏れ日堂)
特徴: 言葉を話さず、サワサワと枝や葉を揺らしてコミュニケーションを取る植物の精霊たち。朝露に濡れた天然の山菜や香り高い山椒など、山の恵みをいつもベストな状態でわけてくれる。
子泣きジジイ & 砂かけ婆(姥捨屋)
特徴: 長屋の老舗コンビ。顔を合わせれば「干瓢の干し方が甘い」「湿気を持たせるな」と毎日言い争ってばかりいますが、二人が漬け込む古漬けの沢庵などは、幽心庵を訪れた客のささくれた心をほぐす隠し味になっています。
カカシの八百屋の旦那
特徴: 麦わら帽子を目深にかぶり、風に揺られながらどっしりと根菜を守る職人気質なカカシ。ぶっきらぼうですが、「幽心庵の鍋に使われるなら本望さ」と、実は料理に使われることに誇りを持っています。
狐の女主人・稲荷屋
特徴: 艶やかな着物をまとい、優雅に尻尾を揺らす美しい狐。彼女がしっかりと寝かせた特製醤油は、クロも大絶賛する幽心庵の煮物の要です。
瀬戸大将
特徴: ピカピカの茶碗の縁を光らせながら転がり出てくる、陶器の妖怪。今回は「陶器の職人技」のつもりで箱に挑みましたが、木工の壁に阻まれて盛大に撃沈しました。
――さて、賑やかな夜が明けたあと、いよいよ静まり返った『幽心庵』にあの男がやってきます。
誰も開けられなかった箱の蓋が、指先ひとつで開かれる瞬間をどうぞお楽しみに!




