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幽心庵の温かい日々  作者: 宵月 ゆう
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20/22

箸休め② 街角のブーケと、あたたかなバトン

秋の深まりゆく休日の昼下がり。

猫股のクロは、またしても気まぐれに昼の街へと抜け出していた。

「……さてねぇ、ほかの客たちは店を出りゃすっかり忘きちまうってのに、あのおっさんは例外だからねぇ」

ふたつの尻尾をゆらゆらと揺らしながら、クロは古いレンガ塀の上を軽やかに歩いていく。

一、老人ホームの窓辺にて(文吉 & 志保)

最初にクロが目を留めたのは、街のはずれにある静かな介護施設だった。

そのエントランスのロビーには、鮮やかな赤いガーベラと、コロンとした丸いピンポンマムを贅沢にあしらった可愛らしいカゴ盛りのアレンジメントが飾られている。

「わあ、きれい……。この赤いお花、なんだか見ているだけで元気が湧いてきますね」

そう言って笑顔を向けているのは、介護施設の事務職として働く志保だ。

かつて仕事のプレッシャーと自己嫌悪で押し潰されそうになり、幽心庵の「濃密和栗の和風モンブラン」に心を解きほぐされた女性だった(※彼女は店を出たため、当時の記憶はもう曖昧に消えている)。

その志保に、次の季節の花を仕込みながら、初老の男が穏やかに笑いかけた。

「おや、そうかい。いい若い子がニコニコしててくれると、花も一段と映えるってもさ。お仕事、大変だろうけど体に気をつけるんだよ」

花屋の店主・文吉だった。

最愛の妻を失った絶望からかつては店を畳んでしまい、あてもなく夜の街をさまよっていた文吉。だが、あの日『幽心庵』で温かい料理とホウズキのお守りに出会い、止まっていた時間を動かした彼は、再びシャッターを開け、こうして自分の足で花屋を営み続けている。

文吉自身は店での記憶を唯一鮮明に覚えている常連客だが、記憶をなくしている志保にはそれが分からない。それでも、文吉の放つ包み込むような温かさと、志保の胸の奥に残る「不思議な安心感」は、まるで磁石のように自然に引き合っていた。

「ありがとうございます、おじいさん。なんだか、すごくホッとします」

「はは、そう言ってもらえると、店をまた開いた甲斐があるってもさ」

(……ほかの連中は店を出たらきれいさっぱり忘きちまうってのに、文吉だけは全部覚えてて、畳んでいた店まで立て直して、こうして現実の街でもちゃっかり縁を紡いでやがるんだからねぇ)

塀の上から見下ろしながら、クロは鼻を鳴らしつつも、その微笑ましい光景に目を細めた。

二、風に揺れるコスモス畑にて(美咲)

続いてクロが向かったのは、川沿いに広がる見事なコスモス畑だった。

秋晴れの空の下、健康のための散歩にやってきた美咲が、色とりどりの花が咲き誇る小道をゆっくりと歩いている。初めての妊娠へのプレッシャーに泣いていた美咲だ。

あの夜、幽心庵で食べた温もりに出会った彼女もまた、店を出たことで具体的な記憶は霧のように消えている。

だが、一面に広がるピンクや白のコスモスが秋風にざわめく中、少しふっくらとしたお腹を優しく撫でながら、美咲はふわりと微笑んだ。

「コスモス綺麗だね、風気持ちいいね」

美咲は満開の花々を見上げて深く息を吸い込む。

記憶はなくとも、あの日にもらった温もりは、彼女の確かな未来への一歩になっていた。

そんな美咲の様子を、川沿いの階段で見ていたクロの背中に、ふいに「やあ」と声をかけながら大きな手が伸びてきた。

無遠慮に、しかし猫の毛並みを驚かせない絶妙な力加減でクロの背中を撫でたその手に、クロは思わずびくりと耳を逆立てた。

荒事とは違う、しかし無数の硬い木と刃物に向き合ってきた者にしか刻まれない痕跡があった。

掌や指の関節には長年の作業で刻まれた強靭で厚いタコがあり、極限まで研ぎ澄まされた刃物を扱ってきた細かな切り傷の跡が幾重にも走る。さらに、多種多様な天然木や香木に触れてきたことで、その肌には木が持つ独特の深い色合いが滲んでいた職人の手だった。

「おや、いい毛並みだ。……お前さんも、風が気持ちいいかい?」

男が去ったあとほのかに香る木の香りを感じながら、クロは毛並みを整え、面白そうに目を細めてその背中を見送った。

(……なんだい、今の奴は。あのタコだらけの手に、あの木の匂い……。また、何やらとんでもねぇ腕を持った厄介な職人が、この街に流れ込んできやがったもんだねぇ)

三、再びの夜、幽心庵にて

すっかり日が落ち、夜のとばりが降りた頃。

クロはいつものように、気だげな足取りで『幽心庵』の暖簾をくぐった。

「おや、クロちゃん。またどこかでおサボりしてたのかい?」

帳場の横で微笑むお桂に、クロはフンと尻尾を振る。

「サボりじゃないさね。パトロールだよ、パトロール」

カウンターの端にドンと飛び乗ると、勘吉がいつものように美味しい出汁を引いている香りが鼻腔をくすぐった。

「どうだったい、外の様子は?」

勘吉が包丁を止めずに尋ねる。

クロはふっと小さく鼻を鳴らし、満足げにヒゲをぴくりと揺らした。

「記憶を消して送り出した人間たちは、おのおの自分で新しい温もりを見つけて歩んでる。……で、唯一記憶を持ったままのあの花屋の文吉は、店を再開させた自分の店から、現実の街でちゃっかりいい顔して若い子たちに花を届けてやらのさ。まったく、人間ってやつは面白いもんだねぇ」

そのクロの言葉に、勘吉とお桂は顔を見合わせ、静かに目を細めて笑った。

「そうかい……それなら何よりだね」

店の大黒柱の脇では、あの夜から動き出した振り子時計が、カチ、カチ、と心地よいリズムで正確に時を刻み続けている。

記憶を忘れても胸に残る者と、記憶を覚えていて現実で店を再開させ、温もりを繋ぐ者。

それぞれの場所でしっかりと生き続ける人々を見守りながら、赤提灯の灯る小さな隠れ家は、今日も優しく静かな夜を巡らせているのだった。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。第2弾となる今回の箸休め回、いかがでしたでしょうか。

前回のケンタ・蓮・みうに続き、今回は文吉、志保、美咲の3人が現実の街でどのように時間を紡いでいるかを、猫股のクロの視点から描いてみました。

店を出れば記憶は霧のように消えてしまうけれど、胸の奥に残った温もりや、前を向くための勇気は決して消えることはない——そんな『幽心庵』が持つ優しさの余韻を感じていただければ幸いです。

唯一記憶を覚えている文吉が、再開させた花屋から赤いガーベラやピンポンマムのカゴ盛りを抱えて街へ飛び出し、志保の働く介護施設を訪れる姿。そして、健康のための散歩の途中で満開のコスモス畑に佇み、お腹を撫でながら穏やかな風を感じる美咲の姿。

それぞれの日常でしっかりと根を張り、自分の足で未来へ歩んでいく彼らの姿を、クロと一緒に温かく見守っていただけたなら嬉しいです。

次回も、心あたたまる『幽心庵』の物語をお届けします。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!

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