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幽心庵の温かい日々  作者: 宵月 ゆう
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第拾玖話 :仙人の矢立と、秘密の箱

冬の足音がひっそりと近づく、しんとした深夜の『幽心庵』。

赤提灯が冷たい夜風にゆらゆらと揺れる中、「ガラガラ……」と控えめながらも澄んだ引き戸の音が響いた。

戸口の影からそっと姿を現したのは、年の頃は七十を過ぎたあたりの、仙人のような気品をまとう一人の老紳士だった。

古風な深緑の羽織をゆったりと身にまとい、その顔を上げた瞬間、ランプの灯りを受けた彼の深い黄金色の瞳が、ふくろうの夜目めいて静かに、そして鋭くきらめく。

羽織の紐には、冬の訪れを告げる鮮やかな「サザンカの根付」が上品に揺れ、腰元にはあやかたちの歴史を書き残すための小さな真鍮の「矢立(やたて)」がしっかりと差されていた。その正体を知る者が見れば、それがかつての羽を折りたたんだ姿のなごりだとすぐに気づくだろう。

「いやぁ、今宵は一段と冷えるな。……大将、空いてるかい?」

長年生きている仙人のような飄々とした風格を纏いつつ、老紳士に化けたふくろうの妖怪・梟歌(しか)は、気負うことなくカウンターの端に腰を下ろす。まるで毎夜のように通っているかのような馴染みっぷりに、帳場の片隅で丸まっていた猫股のクロが、ぴくりと耳を動かしてその横顔を一瞥した。

「おや、珍しい常連客だねぇ。夜の書記官様が、こんな隠れ家に何の用だい?」

クロがニヤリと尻尾を揺らすと、梟歌はふっと白い髭を揺らして苦笑した。

「なに、最近の世は慌ただしくていかん。人の世もあやかしの世も情報の波が押し寄せて、記憶も記録も移り変わりが早すぎる。肝心の夜の歴史を書き留めようにも、手が追いつかんのよ……すっかり疲れちまったわい」

女将のお桂が、優しく微笑みながら温かいお茶と、まずは口取りの「自家製からすみの大根挟み」をそっと差し出す。

ちびりちびりと酒を含み、琥珀色のからすみを味わいながら、梟歌はふうっと長く息を吐き出した。

「おや、これはまた……沁みる味だねぇ」

そして、店主の勘吉が無言で差し出したのは、仙人の冷えた体をじんわりと解きほぐす滋味深い「百合根と銀杏のふんわり真薯(しんじょ)のお椀」だった。

立ち上る上品な出汁の香りを吸い込みながら、梟歌が椀に口を付ける。

「……ふぁぁ……にしみわたる……」

熱々で優しい出汁の旨味が五臓六腑にしみわたり、文字や記録を追いかけてこわばっていた梟歌の全身の力がすーっと抜けていく。仙人のような飄々とした面持ちが、とろけるような満足感に緩んでいった。

「美味しい料理ってのは、いつの時代も文字より雄弁に歴史を語るもんさね。……で、書記官様。そんなに古い記録ばかり覗いてないで、目の前の景色も味わいなさいよ」

クロの小気味いいツッコミに、梟歌は「はっはっは、手厳しいねぇ」と目を細め、ふとカウンターの片隅に目を留めた。

そこには、かつて九十九が持ち込み、勘吉が引き取っていた「小さな手鏡」が置かれていた。

吸い寄せられるようにその手鏡を手に取り、梟歌がそっと鏡面を覗き込む。

そこに映し出されたのは、ただの過去の幻影ではない。かつて自分が若い頃、森の奥で美しい星空や、人間たちのささやかな営みを温かく見守っていた頃の「初心」そのものだった。

いつしか効率や記録の正確さばかりにとらわれ、忘れてしまっていた「夜を見守る純粋な喜び」が、そこには鮮やかに息づいていた。

「……なるほどな。わしが本当に書き留めたかったのは、こんな温かい光景だったかもしれんねぇ」

梟歌は深く息を吐き出すと、羽織の胸元から幾重にも木目が組み合わされた精巧な「寄せ木細工の秘密箱」を取り出し、カウンターの上にコトリと置いた。

「大将、この手鏡を譲ってくれ。その代わりと言ってはなんが、こいつを置いていこう。あやかしの旅の途中で拾った『寄せ木細工の秘密箱』だがね……正しい手順でスライドさせなければ開かん。おまけに、中には何が入っているか、わしにも分からんのじゃよ」

「ご本人にも、分からないのですか?」とお桂が驚いたように問いかけると、梟歌は楽しそうに目を細めた。

「なに、長い年月を眠るうちに封が化けてしまったのか、それとも最初から開かずの箱だったのか……。この店なら、いつか相応しい誰かがその仕掛けを解く時が来るだろうさ」

勘吉は静かにうなずき、その秘密箱を受け取った。クロは興味津々な目つきで、カウンターの上の箱をくんくんと嗅いでいる。

すっかり晴れやかな顔つきに戻った梟歌が立ち上がろうとすると、お桂が「お仕事の合間にどうぞ」と、温かい竹の皮に包まれた「特製・山菜とキノコの炊き込みご飯おにぎり」を手渡した。

「おや、こいつはありがたい。夜の執筆のお供にさせてもらうとするかね」

梟歌は真鍮の矢立を軽く鳴らし、「ごちそうさま、いい夜の息抜きだったわい」と深く一礼した。

再び引き戸を開け、静かに店をあとにする老紳士の背中。

その後ろ姿を見送りながら、勘吉はふっと目を落とし、カウンターに残された「中身の知れない開かずの秘密箱」をそっと棚の片隅に納めるのだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

第19話はいかがでしたでしょうか。

今回は、夜の記録と歴史を司るふくろうの妖怪・梟歌(しか)に登場してもらいました。「仙人のような風格を持つ老紳士が、ふらっと常連のようにやってくる」というイメージを膨らませながら執筆していたのですが、いかがでしたでしょうか。

現代のめまぐるしい情報の波や忙しさに、ちょっとお疲れ気味だった梟歌。ですが、お桂さんの淹れてくれたお茶や、勘吉さんの作る温かい「真薯のお椀」に癒やされ、さらに店に置かれていた小さな手鏡を覗き込むことで、かつての「初心」を取り戻していく――そんな優しい夜を描いてみました。

そして今回、手鏡と引き換えに店へ残されたのが「開かずの寄せ木細工の秘密箱」です。

しかも「中身が何なのか、作った本人(梟歌)にも分からない」という、ちょっとワクワクする謎を残していきました。果たしてこの箱の仕掛けを解き、中を開けるのは一体どんな「キーマン」なのか……? 今後の『幽心庵』の物語の縦糸として、密かに楽しみにしていただければ幸いです。

次回も、深夜の隠れ家にどんなお客さんがやってくるのか。

あたたかいお酒と美味しいお料理を用意して、お待ちしております!

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