第拾捌話:「指輪と、動き出す時計」
しんとした深夜の『幽心庵』。窓の外には冬の初めの冷たい夜気が漂い、赤提灯の灯りが寒夜の中で温かく揺れていた。
カウンターの端の席。そこには、近所の小さな花屋を営む初老の男・文吉の姿があった。
すっかりこの店の常連となった彼は、勘吉が丁寧に拵えた『鴨と根菜の温かい粕汁』を味わっている。ふうふうと息を吹きかけながら汁をすすると、酒粕の芳醇な香りと根菜の甘みが冷え切った体にじんわりと染み渡り、心地よい温もりが広がっていく。
「――おや、客人のご到着だよ」
帳場の暗がりから、煙管をくゆらせた猫又のクロが黄金色の目を細めて呟いた。
「相変わらずいいタイミングで温まるねぇ、文吉。……おや、今日はまた一段と冷え込みが厳しい夜だのに、外にはまだ若いのが凍えて突っ立ってるぜ」
クロの気だるげな声と同時に、ガラリと引き戸が開いた。
冷たい風とともに滑り込んできたのは、スーツ姿の若い青年だった。年は二十代半ばほどか。彼はひどく青い顔をしてうつむき、手元をずっと気にしている。コートのポケットに突っ込まれたその右手は、何か硬い小箱をぎっと握りしめているように震えていた。
「いらっしゃい、凍えたろう。さあ、真ん中の温かい席へお掛けよ」
奥からふわりと現れた女将のお桂が、優しく微笑みながらすっと温かいお茶とおしぼりを差し出す。その穏やかな声音に、青年はぎこちなくうなずき、文吉の隣の席に腰を下ろした。
「ほら、冷えた体にはこれが一番だよ。すぐに熱々のを仕立てるからねぇ」
お桂が手際よく注文を受け付け、厨房の勘吉へと目を配る。
ほどなくして、勘吉が湯気を上げる大鉢を差し出した。冬の初めの夜にふさわしい、香ばしく焼かれた鴨肉と、じっくり煮込まれた大根や里芋の入った『鴨と根菜の粕汁』だ。
青年が震える手で椀を取り、恐る恐る汁をひと口飲んだ。
「……っ……」
芳醇な酒粕のコクと、鴨の脂の甘みが、凍りついていた喉を通って胃の腑に落ちていく。ふうわりと立ち上る湯気とともに、青年の強張っていた肩の力が、ほんのりと、しかし確実にほぐれていった。
その様子を横目で見ながら、文吉は手元の椀にそっと視線を落とし、穏やかな声で口を開いた。
「……旨いだろう。その温かさが、冷えた体に染みるよな。俺も昔……ここで人生に絶望しかけていた夜があったんだ。最愛の女房を亡くして、店も畳んで、どうやって生きていけばいいかすら分からなくてさ。あてもなく夜の街を歩いていて、吸い込まれるようにこの暖簾をくぐったのさ」
「……ここで……?」青年が小さく呟く。
「ああ。あの夜も、今日みたいに寒くてね。……ま、俺のときは、この店で盛大にいびきかいてうたた寝ちまったんだがな」
文吉が照れくさそうに笑うと、帳場からクロがすかさず煙管をトントンと叩きながら小言を挟んだ。
「まったく、いい気なもんだ。こっちは『おいおい、本当に起きねぇのかこのおっさん……』って冷や冷やしながら、片付けのほうきを何度も足元に叩きつけてやったってのにねぇ」
「ははは、そいつはすまなかったな、クロ」
文吉がからからと笑う。だが、そのお陰で救われたのだと、文吉は懐かしそうに微笑み、ポケットの中でそっと「ホウズキのお守り」のガラス玉を握りしめた。
「ここの親っさんたちが俺の心を救うために、とびきりの料理を出してくれてね。帰り際には『辛いときはこれを握りしめな』って、朱色のガラス玉が入ったお守りをくれたんだ。その温もりに触れたとき、止まっていた俺の時間と心に、もう一度火が灯ったのさ」
文吉は青年の目をまっすぐに見つめた。
「動けなくなるのは、それだけ真剣に誰かや何かを想ってる証拠だ。だけどね……怖がって立ち止まってばかりじゃ、流れるはずの時間まで止きちまう。一歩でも踏み出せば、景色はちゃんと先に進むもんさ。お前さんなら大丈夫だ、きっとうまくいくさね」
文吉の飾らない、実感を伴った言葉に、青年の胸につかえていたものがスッと溶けていく。
「……ありがとうございます。なんだか、勇気が出てきました」
お桂が「お粗さまでした。またいつでも温まりにおいでよ」と温かく見送る中、青年はすっきりと晴れやかな顔で頭を下げ、ポケットの小箱をしっかりと握りしめたまま、店をあとにしていった。
冷たい夜風が頬を撫でたとき、青年はふと首を傾げた。
――自分は今、どこで何を食べていたんだっけ?
あんなにハッキリと感じていた粕汁の温もりや、店の人たちの顔、隣に座っていた初老の男との会話の記憶は、夜霧に溶けるように、どこか遠い夢の出来事のように曖昧になっていく。
けれど、ポケットの中で固く握りしめた小箱の感触と、胸の奥の確かな勇気だけは、嘘のように温かく残っていた。
「いい若者だったねぇ」
文吉もまた、「それじゃ、俺もそろそろ帰るとしようかね」と席を立ち、満足そうな笑みを浮かべて店をあとにした。彼の背中は、自分の時間をしっかりと未来へ向けて歩んでいた。
すべての客が去り、静まり返った深夜の店内。
大黒柱の脇に掛けられたまま、長い間ずっと眠っていた古びた振り子時計が、ふと微かに身じろぎをした。
……カチ。
それは、これまでの後悔を数える音ではない。
迷いを吹っ切って歩き出した青年と、今日を懸命に生きる文吉の新しい時間を祝福するかのように。
そして、この『幽心庵』に訪れるすべての客の未来を優しく包み込むように。
カチ、カチ、カチ……と、力強く、心地よいリズムを刻み始めたのだった。
洗い物を終えた勘吉は、ふと手を止め、動き出した大黒柱の時計を見上げて静かに呟いた。
「……さて、俺たちもそろそろ、時間を動かすとしますかね」
かつて店に救われた文吉が、今度は迷える青年をそっと支える――そんな時間のバトンタッチを描いた第18話でした。
冬の初めの「鴨と根菜の粕汁」の温もりと、店を出れば記憶は消えても胸の勇気だけは残る『幽心庵』の優しさ。ラストで動き出した振り子時計の音とともに、新たな時間を歩み始めた店と客たちの姿を感じていただければ幸いです。
次回も心温まるひとときをお届けします。お楽しみに!




