第拾柒話:「冬の寒椿と、トロトロ豚軟骨の煮物」
いよいよ本格的な冬の寒さが訪れ、夜更けの『幽心庵』の庭木にも、キリッとした冷気が満ちていた。
裏庭にひっそりと佇む寒椿の木は、凍てつく闇夜のなかで、静かに深い紅色の花を咲かせている。
カウンターの隅では、先日子どもたちや九十九を巡ってここに預けられた「古びた振り子時計」と「小さな手鏡」が、静かに磨かれて佇んでいた。
厨房の奥からは、醤油とみりんの甘辛く芳醇な香りと、根菜の煮えるコトコトという穏やかな音が店内に広がっている。
「……これだけ冷えると、じっくり時間をかけて煮込んだ脂の乗った肉が、一段と恋しくなるねぇ」
勘吉が大きな鍋の蓋を少しずらすと、湯気とともに香ばしい匂いがふわりと立ち上った。
お桂は温かいお茶の準備をしながら、「そうですねぇ。今夜は、身体の芯からとろけるような一品がいいですね」と優しく微笑む。
ガラガラと引き戸が開き、冷たい夜風とともに暖簾をくってきたのは、古びた木彫りの道具箱をぎゅっと抱え、凍えた足取りで入ってきたひとりの若い職人の青年だった。
祖父から受け継いだ小さな工房を守り、伝統的な木工細工を続けているものの、「自分の腕ではこの場所を維持できない」「時代の変化に置いていかれる」という重圧に押し潰され、心身ともにすり減りきっていた彼の名は――謙吾。
「いらっしゃい、冷えただろう。奥の席へどうぞ」
お桂が温かいおしぼりを差し出すと、謙吾は力なくうなずき、カウンターの隅に腰を下ろした。
「……なんか、温かくて、腹にたまるものを……お願いします」
ささくれ立った声でそう呟く謙吾の足元に、クロがいつの間にか音もなくすり寄り、トントンと尻尾を揺らした。
勘吉は無言でうなずくと、年季の入った黒光りする鉢に、熱々の煮物をたっぷりと盛り付けて差し出した。
それは、「人参、大根、ゴボウ入りの豚軟骨の煮物」だった。
黄金色の出汁をたっぷりと吸い込んだ大根は箸がスッと通るほど柔らかく、ゴボウは土の香りを残したままホクホクに仕上がっている。そして主役である豚軟骨は、じっくりと時間をかけて煮込まれ、お肉はホロホロ、軟骨部分はゼラチン質になってプルプルにとろけていた。
「お待たせ。身体を温めなさい」
目の上に置かれた鉢から立ち上る湯気とともに、甘辛い極上の香りが謙吾の鼻腔をくすぐる。
謙吾は震える手で箸を取り、まずはとろけるような豚軟骨を口へと運んだ。
――じわあぁ……と、冷え切った食道から胃の腑へと、濃密な旨味が染みわたっていく。
噛む必要もないほど柔らかく煮込まれた肉のコクと、根菜の優しい甘み。その瞬間、謙吾の脳裏には、幼い頃に亡き祖父と囲んだ食卓の記憶が鮮やかに蘇っていた。
昔、工房の隅で仕事終わりの祖父が大きな鍋でコトコトと煮込んでくれた、まさにあの日の味と同じだった。
「……あ……これ、じいちゃんが……」
大根を一口噛みしめ、あふれ出す熱々の出汁を味わいながら、胸に抱えていた工房の維持への不安や、祖父の期待に応えられない情けなさが堰を切ったようにあふれ出す。謙吾はポロポロと涙をこぼしながら、ぽつりぽつりと本音を零し始めた。
「俺……本当は、じいちゃんが遺してくれたこの工房と道具をずっと守りたかったんです。でも、自分の才能じゃ無理なんじゃないかって、怖くて……」
そんな謙吾の姿をじっと見つめながら、クロが静かに言葉を投げかける。
「あんたがその手で抱えている道具や想いはね、誰かに急かされて持たされたもんじゃないだろうさ。重荷に押し潰されそうになったら、たまにはこういう美味いもんを喰って、肩の力を抜けばいいのさね」
お桂も優しく微笑み、あたたかいお茶をそっと差し出す。
「ええ。あなたが大切にしたいというその気持ちだけで、もう十分すぎるほど立派なんですから」
クロたちの温かい言葉に包まれ、謙吾は豚軟骨の煮物を綺麗に平らげた。不思議と、抱えていた恐怖や焦りはすっきりと晴れ、胸の奥には穏やかな灯火がともっていた。
やがて店を出て、ひんやりとした冬の夜風を浴びた瞬間。
謙吾はふと足を止め、首をかしげる。
――自分は今、どこで何を食べていたんだっけ?
あんなにハッキリと感じていた煮物の味や、店での出来事の記憶は、夜霧に溶けるように遠い夢の出来事のように曖昧になっていく。
けれど、凍えていたはずの胸の奥だけは、嘘のように軽やかで、じんわりと温かかった。
ふと手元の道具箱の留め具に目を落とすと、わずかに浮いた底板の隙間から、一枚の古い紙片がのぞいていることに気づく。
不思議に思いながらそっと引き抜くと、そこには亡き祖父の達筆な文字で、謙吾という名前の由来が綴られていた。
――庭の寒椿の花言葉である「謙譲」から、「謙」の字を取った。
他人の意見に耳を傾ける優しさと、自分の意見をしっかり持つ強さを兼ね備えた人になってほしいという願いを込めて。
文字を読み終えた瞬間、謙吾の胸の奥から、温かい血が全身を巡るような確かな力が湧き上がってきた。
祖父との思い出の味が教えてくれた温もりを胸に、謙吾は道具箱をしっかりと抱え直し、自分の足でしっかりと明日へ歩き出すのだった。
第17話「冬の寒椿と、トロトロ豚軟骨の煮物」をお読みいただきありがとうございます。
冬の温もり「豚軟骨と根菜の煮物」: 祖父との思い出の味であるトロトロの豚軟骨と根菜の煮物が、工房を継ぐ重圧に揺れる謙吾の心を芯から優しく癒やしました。
寒椿と名前に込めた願い: 庭の寒椿の花言葉「謙譲」に由来する祖父からのメッセージが、謙吾の背中をそっと力強く押してくれます。
胸に残る温もり: 店を出れば記憶は消えても、胸の奥に残る温もりは明日を歩む確かな力になります。
また次回の夜の暖簾の向こうでお会いしましょう!




