第拾陸話:「初冬の冷気と、牡蠣の土手鍋」
いよいよ木枯らしが吹き抜け、街の空気がキリリと引き締まる11月の夜。
深夜の『幽心庵』のカウンターの端では、勘吉が柔らかい布で、先日子どもたちや九十九を巡ってここに預けられた「古びた振り子時計」と「小さな手鏡」を静かに磨いていた。
曇りの取れた鏡面には、店内の暖かい明かりがふわりと柔らかく反射している。
「……いつか、この時計の針が再び動き出す日が来るといいねぇ」
お桂が温かいお茶を差し出しながら微笑むと、帳場で煙管をくゆらせていたクロが、ふうっと紫煙を吐き出して小さく鼻を鳴らした。
「やれやれ、ガラクタの世話で忙しいことだねぇ。……っと、お客さんだよ」
クロの言葉に合わせて、ガラガラと引き戸が開き、冷たい夜霧とともに暖簾をくってきたのは、冬のコートの襟をきつく立てた、ひとりの若い女性だった。
地方から上京し、デザイン関係の仕事に就いているものの、自分の表現したいものとクライアントからの冷徹な「修正指示」の間で板挟みになり、心身ともにすり減りきっていた彼女の名前は――沙耶。
「いらっしゃい、冷えただろう。奥の席へどうぞ」
お桂が温かいおしぼりを差し出すと、沙耶は力なくうなずき、カウンターの隅に腰を下ろした。
「……なんか、温かいものでも、お腹にたまるものでも……何でもいいので、お願いします」
ささくれ立った声でそう呟く沙耶の足元に、クロがいつの間にか音もなくすり寄り、トントンと尻尾を揺らした。
勘吉は手鏡と時計をそっと棚にしまい、無言でうなずくと、年季の入った黒光りする土鍋をコンロに据えた。
鍋の内側のふちにぐるりと塗りつけられたのは、熟成された自家製の赤味噌。その土手の中央に、昆布と鰹の一番出汁がたっぷりと張られる。
やがて、主役であるプリプリとした大ぶりの牡蠣と、白菜、長ネギ、豆腐、椎茸といった冬野菜が次々と放り込まれた。
火が通るにつれて、土鍋のふちの味噌がじわじわと熱せられ、香ばしい香りがふわりと店いっぱいに立ち上っていく。味噌がスープに溶け出し、グツグツと心地よい音を立て始めた。
「お待たせ。『牡蠣の土手鍋』だよ」
勘吉が差し出した目の前の土鍋から立ち上る湯気とともに、濃厚で芳醇な味噌と海のミルクの香りが沙耶の鼻腔をくすぐった。
「……いただきます」
おそるおそる取り皿にレンゲを伸ばし、まずは味噌の溶け込んだスープを一口啜る。
――じわあぁ……と、冷え切った食道から胃の腑へと、濃密な旨味が染みわたっていった。
「あ……っ」
続いて、ふっくらと煮上がった牡蠣に箸をつける。噛みしめた瞬間、中からぷしゅっとあふれ出すミルキーなジューシーさと、香ばしい味噌のコクが絶妙に絡み合う。
「美味しい……こんなの、食べたことない……」
ゴロゴロとした白菜やネギも、甘みを増した冬野菜ならではの優しい味わいで、出汁を吸った豆腐がほっと心を落ち着せてくれる。
毎日の仕事のプレッシャーや、誰にも認められない悔しさ、冷たい言葉に晒されてカチコチに凍りついていた沙耶の心が、この熱々の土手鍋の温もりに触れた瞬間、プツリと音を立ててほどけた。
「私……本当は、もっと自分の好きな絵を描きたかったんです。でも、仕事だからって言われるがままに変えられて……何が正解なのか、もう分からなくなって……っ」
ポロポロと涙をこぼしながら、沙耶は鍋を囲みながらぽつりぽつりと本音を零し始めた。
「あんたが描いた線も、込めた想いもね、消えたりなんかしないさね。他人にどう言われようと、あんたが温かいものを美味しいと感じるその心がある限り、あんたの表現は間違っちゃいないよ」
クロのぶっきらぼうで優しい言葉とお桂の微笑みに包まれ、沙耶は土手鍋を綺麗に平らげた。
店を出て冷たい夜風を浴びた瞬間、沙耶はふと首をかしげる。
――自分は今、どこで何を食べていたんだっけ?
あんなにハッキリと感じていた土手鍋の味や、店での出来事の記憶は、夜霧に溶けるように遠い夢の出来事のように曖昧になっていく。
けれど、凍えていたはずの胸の奥だけは、嘘のように軽やかで、じんわりと温かかった。
「……よしっ」
沙耶はデザインノートを抱きしめ、自分の足でしっかりと明日へ歩き出すのだった。
第16話「初冬の冷気と、牡蠣の土手鍋」をお読みいただきありがとうございます。
初冬の温もり「牡蠣の土手鍋」: 自分の表現に悩みすり減っていたデザイナーの沙耶を、香ばしい味噌とプリプリの牡蠣が詰まった熱々の土手鍋が心身ともに優しく癒やしました。
縦軸の気配: 冒頭で描いた、預かった振り子時計や手鏡をそっと磨く勘吉たちの姿が、物語に静かな奥行きを添えています。
胸に残る温もり: 店を出れば記憶は霧のように消えても、あやかしたちがくれた温もりと美味しい記憶は、明日へ歩き出す確かな力になります。
また次回の夜の暖簾の向こうでお会いしましょう!




