第弐話:「黄昏時の予約席」と、受け継がれる種
師匠が亡くなって、一ヶ月。蓮はアトリエの片隅で、古びた桐の箱を見つけた。
中には、茶色く変色した一通の封筒が入っていた。表書きには、師匠の骨太な筆文字で「蓮へ」とある。
震える手で封を切ると、中から出てきたのは便箋ではなく、小さな和紙の包みだった。
包みを開くと、中には一粒の、黒くて硬い「夕顔の種」。
その下に、ただ一言だけ書き添えられていた。
『道に迷わば、黄昏に赤い提灯を探せ。この種が、お前を導く』
「導く……? これが?」
蓮には意味が分からなかった。だが、その種を握りしめたとき、不思議な温かさを感じた。師匠の手の平のようだった。
絵を描けず、生きる意味を見失っていた蓮は、吸い込まれるようにその種をポケットに入れ、夕暮れの街へと這い出した。
雨上がりの冷たい霧の中、あてもなく歩き続けてどれくらい経っただろう。
ふと見上げると、霧の向こうにぽつんと、温かい赤い提灯が灯っていた。
「幽心庵」。
その暖簾をくぐった瞬間、蓮は悟った。ここが、師匠の言っていた場所だと。
「いらっしゃい……おや」
出迎えた店主の勘吉は、蓮の顔を見て、一瞬目を見開いた。
カウンターの奥でキセルをくゆらせていた猫又のクロも、動きを止める。
「……その匂い。まさか」
蓮は無言で、ポケットから夕顔の種を取り出し、カウンターに置いた。
「師匠の遺言書に、入っていました。『ここへ来い』と」
勘吉はその種を愛おしげに手に取り、女将のお桂と顔を見合わせた。
「……四十年ぶりだねぇ。まさか、あいつがこの種を、自分の弟子に残すとは」
お桂が、しみじみと呟く。
「ご存知なのですか? 師匠を」
蓮の問いに、勘吉は静かに頷いた。
「ええ。四十年ほど前、あいつ――若かりし頃の師匠さんも、ここに座っていました。今のあんたと同じように、絵筆を持つのが怖くてたまらない、真っ白な顔をしてね」
勘吉はカウンターの奥にある、古びたガラス瓶を取り出した。
「あの時、あいつが会いに来たのは、亡くなったばかりの自分の母親でした。その時、母親があいつに手渡したのが……この夕顔の種から咲いた花だったんです」
夕顔の種は、幽心庵において「愛する者への、最後の未練と、明日への希望」を繋ぐ触媒だった。
師匠は、自分が幽心庵で母親に救われたその奇跡を、四十年の時を超えて、今度は蓮に託したのだ。
「勘吉。いつまで昔話をしているんだい。黄昏が来るよ」
クロが短く言った。
勘吉は頷き、蓮から受け取った種をガラス瓶の水に浸した。
そして、カウンター最奥の、夕日が差し込む席――「夕顔の予約席」へ、その瓶を置いた。
その瞬間、種からみるみるうちに茎が伸び、大きな蕾をつけた。
外の景色が、茜色から深い紫へと溶け始める。
ガラス瓶の中の夕顔が、ふわりと花開いた。
「……遅かったな、蓮」
向かいの席に、いつの間にか師匠が座っていた。半纏姿で、白い髭をたくわえた、あの懐かしい姿で。
「師匠……!」
蓮の瞳から、ボロボロと涙が溢れ出した。
勘吉が、湯気の立つ「鯖の味噌煮」を二人へ静かに差し出した。
濃厚な赤味噌の香りと、ガツンと効いた生姜の匂い。
老画家は箸を取り、味噌煮を口に運んだ。
「ふむ……。あの日、お袋がワシに作ってくれた味噌煮より、少々味が薄いな。ワシが作る時は、もっと砂糖をドバドバ入れて、甘辛くしたもんだ」
「師匠……ごめんなさい。俺、もう描けない。師匠のいない世界で、何を描けばいいのか、分からないんです……!」
泣きじゃくる蓮の前に、クロがすっと小さな皿を差し出した。
それは、透き通った「黄昏色の琥珀糖」だった。
「食べな」とクロが言う。
「アンタの師匠も、四十年前は今のアンタみたいに、メソメソ泣いていたよ。心がガチガチに固まってねぇ。でもね、琥珀糖は外側が固まってからが美味いんだ。時間はかかるけど、固まった心は、いつかアンタだけの『味』になる」
師匠は琥珀糖を一口かじり、蓮を真っ直ぐに見つめた。
「蓮。四十年前、お袋はワシにこう言った。『迷ったら、味噌煮を作れ。味噌の香りは、お前が愛されていた証拠だ』とな」
師匠は、自分の遺言書に入っていた種が、かつて自分が母親から受け取った「希望」の続きであることを明かした。
「ワシはその種をずっと大切に持っていた。……いつか、ワシが死んだ時、お前が道に迷ったら、この幽心庵でお袋に(ワシに)会えるように。……ワシもお袋と同じだ。蓮、お前が描く味噌煮の絵は、ワシの味噌煮よりずっと、優しくて、温かかった」
「師匠……!」
「自信を持て、蓮。ワシが愛したのは、お前の絵じゃない。『絵を描いている時のお前の、楽しそうな顔』だ」
茜色の光が消え、街に夜の闇が降りてきた。
小瓶の夕顔の花が、しずかに花弁を閉じる。
向かいの席には、もう誰もいなかった。空になった鯖の味噌煮の皿だけが、残されていた。
「……ん……」
朝の眩しい光差す、誰もいない公園のベンチ傍らには、朝顔の花。
蓮は目を覚ました。
「あれ……俺、なんでこんなところで……?」
昨夜の記憶は、影も形もなく消えていた。
幽心庵のことも、夕顔の花のことも、師匠と何を話したかも、思い出せない。
しかし――胸の奥にあった、あの押し潰されそうな重い暗闇が、跡形もなく消え去っていた。
手の震えは、完全に止まっていた。
ポケットには、なぜか一粒の黒い、硬い種(琥珀糖の包み紙に包まれた黒糖飴)が入っていた。
「……お腹がすいたな」
蓮は立ち上がり、アトリエへと走った。
部屋に着くと、埃をかぶっていたイーゼルに向かい、真っ白なキャンバスをセットした。
手にとった絵の具のチューブから押し出したのは、あの朝見た眩しい朝日と、師匠と一緒に食べた味噌煮の温かい「赤味噌色」、そして……。
「……描きたい」
忘れてしまっても、あの黄昏時に交わした温かい約束と、四十年の時を超えて受け継がれた「希望の種」の温もりだけは、彼の筆先に宿り続けていた。
お読みいただきありがとうございました!
赤提灯の灯る幽心庵で、少しでも温かい気持ちになっていただけていれば幸いです。
もし作品を気に入っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】や【評価】で応援していただけると嬉しいです!




