第壱話:「雨上がりの肉じゃが」
冷たい秋雨が、街の街灯をぼんやりと濡らしていた。
大手不動産会社に勤めるケンタ(32)は、ずぶ濡れのスーツのまま、ただ当てもなく歩いていた。
大きなコンペで痛恨のミスを犯し、会社に数千万円の損害を与えた。上司からは「お前にはもう任せられない」と罵倒され、追い打ちをかけるように、長年付き合っていた恋人からは電話一本で別れを告げられた。
自分という人間は、誰からも必要とされていないのではないか。
頭の中で同じ絶望がぐるぐると渦を巻き、足元すらおぼつかない。
どこかの細い路地に迷い込んだときだった。
雨の煙る暗闇の向こうに、ぽつんと温かい灯りが浮かんでいた。
風に揺れる赤い提灯。そこには手書きの丸っこい文字で、「幽心庵」と書かれていた。
「……こんなところに、店なんてあったか?」
吸い込まれるように引き戸を引くと、「ガラガラ……」と懐かしい音が響いた。
「いらっしゃい。おや、ずいぶんと濡れちゃって」
出迎えたのは、小綺麗な着物に割烹着を羽織った女将のお桂だった。きりりとした目元に、どこか茶目っ気のある笑みを浮かべている。
奥の厨房からは、丸顔で温和な見た目の店主・勘吉が顔を出した。
「おやおや、急いでタオルをお持ちしなさい。……おや、旦那、だいぶ心が冷え切っているようだねぇ」
店内は、カウンターが六席ほどの小さな造りだった。カウンターの端には、黒い和服を着た小柄な女性が一人、煙管をくゆらせている。猫のようにしなやかな雰囲気を纏った彼女が、和菓子の職人であり猫又のクロだった。
「勘吉、早く温かいものを出してやりなさいよ。鼻水をたらした人間なんて、見ているだけで寒々しいわ」
クロは無愛想に言いながら、杯を傾けた。
「はいはい、分かっておりますよ」
勘吉はぬくもりのある声で応えると、すぐにトントンと包丁を動かし始めた。
「はいよ、まずはこれをお上がり」
勘吉が目の前に置いたのは、湯気が立ち上る小鉢だった。
角が少し丸くなったジャガイモ、つややかに煮込まれた牛肉、くったりとした玉ねぎと糸こんにゃく。どこにでもある、ごく普通の「肉じゃが」だ。
健太は差し出された箸を手に取り、ジャガイモを一口、口に運んだ。
「――っ!?」
健太の手が止まる。
ほくほくとした出汁の旨味のあとに、ほんのりと強い甘みが広がる。ジャガイモの煮崩れ具合、醤油の加減。
(……母さんの、味だ)
健太が小学生の頃に病気で亡くなった母親。仕事で忙しかった母が、日曜日に決まって作ってくれた肉じゃがだった。健太が甘めが好きだと言ったから、いつも砂糖を少し多めに入れてくれていた。
「……なんで、この味を……」
ぽろぽろと、涙が溢れ出してきた。一度溢れた涙は止まらず、健太は声を殺して泣いた。涙が小鉢に落ちないよう、必死に顔を伏せながら、肉じゃがを口へ運ぶ。
勘吉はお桂と目を合わせ、優しく目を細めた。
「うちの料理はね、お客さんの『一番恋しい記憶』から味をいただくんです。どんなに遠い昔のことでも、お腹の底に残っている味ってのは、嘘をつきませんから」
泣きじゃくる健太の前に、コトンと小さな皿が置かれた。
クロが差し出したのは、上品な薄緑色の練り切りと、淹れたての緑茶だった。練り切りの上には、ちょこんと可愛らしい葉っぱの形をした羊羹が乗っている。
「男がいつまでもメソメソ泣くもんじゃないよ」
クロはそっぽを向きながら言った。
「でもね……ジャガイモだってさ、ゴロゴロと角を削られて、煮崩れてからが一番味が染み込むんだ。最初から完璧な形をした肉じゃがなんて、大して美味しくもないだろう?」
健太はハッとして顔を上げた。
「人間ってのは変な生き物だねぇ。失敗したら全部終わりだと思い込む。形が崩れたって、アンタという人間の味が消えたわけじゃないだろうに」
お桂も微笑みながら、温かいお茶を注ぎ足した。
「そうですよ。お腹を空かせて、心を固くしてちゃ、見えるものも見えなくなります。今日はもう、温かいものを食べて寝る。それだけで十分なんです」
健太は練り切りを口に含んだ。餡の優しい甘さが、傷ついた心にじわじわと染み渡っていくようだった。
「……俺、もう一度……やり直せるでしょうか」
「さあねぇ」とクロはクスクス笑った。「それはアンタ次第だけど……少なくとも、今日のところは生き延びたじゃないか」
五、夜明けと、消えない温もり
店内にかすかな木ねずみ(タヌキ)の鳴き声のような音が響き、健太の意識は心地よい眠気の中へと吸い込まれていった――。
「……ん……」
眩しい光に目を覚ますと、健太は駅前の公園のベンチに横たわっていた。
朝の澄んだ空気。鳥のさえずりが聞こえる。
「俺……なんでこんなところで……?」
頭を振ってみるが、昨夜の記憶があやふやだった。
どこかの店に入ったような気もするが、店の名前も、そこにいた人々の顔も、食べたものの味すら思い出せない。まるで夢でも見ていたかのようだった。
しかし、不思議なことがあった。
あれほど胸を押し潰していた重苦しい絶望感が、嘘のように消えていたのだ。お腹の底から、じんわりと温かい力が湧いてくるのを感じる。
スーツのポケットに手を突っ込むと、カサリと音がした。
取り出してみると、それは可愛らしい笹の葉に包まれた、小さな黒糖飴だった。
「……よし」
健太は飴を口に放り込むと、深く息を吸い込み、しっかりと自分の足で歩き始めた。
忘れてしまっても、あの夜受け取った「温かさ」だけは、確かに彼の心の中で灯り続けていた。
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