白百合の聖女と、暴かれる絶望の色
パシャッ、パシャッ、パシャッ。
星の瞬きのように無数のフラッシュが弾け、視界を白く染め上げる。
「——はい、ミチルちゃん! こちらへ目線をお願いします!」
「孤児院の子供たちへ、一言メッセージを!」
八月のうだるような外の猛暑を微塵も感じさせない、横浜・みなとみらい地区にそびえ立つ超高級ホテルの大広間。空調が完璧に効いたその空間には、会場を埋め尽くすほどの見事な白百合が飾られ、甘く、どこか神聖な香りが漂っていた。
純白のドレスに身を包んだ桐里ミチルは、群がる記者たちのマイクを前に、天使のように柔らかく、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
「ええ。この子たちは、社会の宝ですわ。私たち『魔法少女』が戦うのは、彼らのような弱い立場にある方々が、明日も安心して笑い合える世界を作るため。私の活動が、少しでもその希望になればと祈っております」
その声はどこまでも澄み渡り、聞く者の心を浄化するような不思議な響きを持っていた。
周囲を囲む記者たちは感嘆の溜息を漏らし、車椅子の少女が「ミチルお姉ちゃん、ありがとう」と花束を渡すと、会場は割れんばかりの温かな拍手に包まれた。
眩いばかりの光。疑う余地のない、絶対的な「善」。
誰もが彼女を愛し、誰もが彼女を崇拝している。それが、表の世界における『感知の魔法少女』桐里ミチルの日常だった。
——だが、その数時間後。
カチャリ、と重厚な電子ロックが解除され、分厚い防音扉が閉まる。
ホテルの最上階。ミチルの滞在先として用意されたVIP専用のスイートルームには、先ほどの慈愛に満ちた空気とは対極の、吐き気を催すような鉄錆の匂いが充満していた。
「あ……がっ……ゆる、して……」
毛足の長い高級なペルシャ絨毯の上に、一人の男が這いつくばっていた。彼は数日前、ミチルの熱狂的なファンをこじらせて彼女のプライベートに踏み込もうとしたストーカーだった。
ミチルは、純白のドレスから着替えることもなく、冷たい目で見下ろしている。その手には、先ほど孤児院の子供から受け取った花束から抜き取った、一本の白百合が握られていた。
「ふふっ……ねえ、顔を上げて?」
ミチルが甘ったるい声で囁くと、部屋の隅に控えていた屈強なボディガードの一人が無言で進み出た。彼は男の髪を鷲掴みにすると、無理やり顔を上へ向けさせた。
恐怖に見開かれた男の濁った瞳と、ミチルの澄み切った瞳が交差する。
その瞬間、ミチルの瞳孔の奥で、奇妙な光が瞬いた。
彼女が世間に公開していない能力の一つ、『感情の可視化』。
自分に向けられている感情を「色」として視認することができる能力。ミチルの視界の中で、男の体から立ち上っているのは、ドロドロとした泥のような紫色——『極限の恐怖と絶望』の色だった。
「ふふっ、あははっ! すごい、いい色ね」
ミチルは優雅に微笑みながら、ピンヒールの鋭い踵を、男の右手の甲にゆっくりと、だが全体重を乗せて振り下ろした。
ゴキッ、と鈍い骨の砕ける音が部屋に響く。
「ぎいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」
男が絶叫し、床に顔を擦り付けてのたうち回る。その痛みに呼応するように、男から噴き出す紫色のオーラがさらに濃く、美しく深みを増していく。それを見て、ミチルは恍惚としたため息を漏らした。
「ああ、綺麗。さっきまで、あんなに気持ち悪いピンク色の欲情を垂れ流していたのに。……人間って、少し痛めつけるだけで、こんなに美しい絶望の色を見せてくれるから大好きなの」
表舞台では聖女として振る舞いながら、裏では自らの権力と絶対的な力で弱者を甚振り、その『恐怖の色』を鑑賞することに無上の喜びを見出す。それが、桐里ミチルという少女の、底知れぬ嗜虐性だった。
「……ミチルお嬢様」
ボディガードの男が、静かに声をかけた。
「遊ばれるのも、そろそろその辺りで。……赤園レイカが消息を絶った件ですが」
「あら」
ミチルは男から足をどけ、白百合の香りを嗅ぎながら退屈そうに目を伏せた。
「あの頭の悪いギャルがどうしたの? どうせまた、男と遊び歩いてるだけでしょ」
「いえ。彼女のスポンサー企業も行方を追っていますが、完全に足取りが途絶えています。……何者かに、拉致、あるいは殺害された可能性も」
その言葉を聞いて、ミチルの動きがピタリと止まった。
そして、ゆっくりと口角を吊り上げる。
「へえ……? 魔法少女を狩るネズミがいるのね」
ミチルは横浜の煌びやかな夜景が広がる窓の外へ視線を向けた。
「……思い出すわね。三年前に燃やした、あの二匹のネズミ。あの時の夫婦が最後に見せた絶望の色……深く、濁った、美しい青色。あんな綺麗な色、見たことなかったわ。思い出すだけでゾクゾクしちゃう」
彼女は自身の体を抱きしめ、うっとりと目を細めた。
「政府から情報提供があった通り、もし、そのネズミの生き残りが私に噛み付こうとしているなら……大歓迎よ。あの青色を、もう一度見せてくれるのかしら?」
* * *
同じ頃。横浜の裏路地にある地下アジト。
「痛ッ……!」
シャワーを浴びた後、ユカリさんから簡単な治療を受けながら、私は思わず顔をしかめ、左腕を押さえた。
ユカリさんがピンセットで慎重にガーゼを剥がしていく。レイカの放った炎によって焼かれた皮膚は無惨に爛れ、強力な痛み止めを飲んでいても、空気に触れるだけでジンジンと脈打つような激痛が走る。
消毒液のツンとした匂いと、鼻腔の奥にこびりついて離れない『肉の焦げる匂い』が混ざり合い、吐き気を催しそうだった。
「少し我慢してね、ユキちゃん。……かなり深いわ。痕が残るかもしれない」
「構わないわ。命があっただけ、マシよ」
私は処置を受けながら、ソファの方へ視線を向けた。
「んー! やっぱりてりやきバーガー美味しいね! ユカリさんもポテト食べる?」
サヤはソファの上であぐらをかき、モグモグと呑気にハンバーガーを頬張っている。その足元には、数時間前にレイカの首を刎ね飛ばした忍者刀が、寸分の曇りもなく手入れされて置かれていた。
サヤはいつもと変わらぬ無邪気さで笑っているが、その狂気的なまでのマイペースさに、私は自分の心のざわつきを必死に抑え込んでいた。
「ユカリさん」
私は左腕に新しい包帯を巻き終えると、中央の巨大モニターを指差した。
そこには、先ほどのチャリティーイベントで微笑むミチルの映像がループ再生されている。
「レイカが吐いた通りなら、両親を爆死させるように指示を出したのはこの女よ。私たちが辿り着くべき『真実』の中心にいる。絶対に接触して、背後関係を吐かせなきゃいけない」
ユカリさんはカタカタと乾いた音を立ててキーボードを叩きながら、重いため息をついた。
「……相手は、あの『感知』の魔法少女よ。戦闘能力こそ記録にないけれど、隠密を是とする忍びにとっては、絶対に相容れない『天敵』だわ」
画面に、ミチルの能力データと、現在の滞在先である横浜の高級ホテルの見取り図が展開される。
「わかってる。でも、感知されるのが前提なら、感知されてからボディガードが対応するまでの数秒間の『タイムラグ』を突くしかない」
* * *
深夜二時。
潮の匂いが混じる冷たい夜風が、刃物のように頬を切り裂いていく。
地上五十階。私たちは、吸盤状の特殊な鉤爪を使い、音もなくホテルのガラス外壁を這い登っていた。
(……レイカの残した火傷が、まだ痛む)
関節を動かすたびに、左腕の焼け爛れた皮膚が引きつり、ピリッとした痛みが走る。だが、その痛みが逆に私の意識を極限まで研ぎ澄ませていた。
「お姉ちゃん、目標の部屋は真上だよ」
隣を這うサヤが、インカムを通して囁く。
『映像のハッキングは完了しているわ。監視カメラには、誰もいない外壁のループ映像が流れてる。熱源センサーも偽装済みよ』
「ありがとう、ユカリさん。行くわよ、サヤ」
五十階のバルコニーに手をかけ、私たちは影のように音もなく滑り込んだ。
ガラス扉のロックを特殊工具で数秒で解除し、呼吸を完全に止める。心拍数を極限まで落とし、気配という気配を完全にゼロにする。古より伝わる忍びの最高峰の隠密技術『無空』。これなら、どんな達人でも絶対に私たちの存在に気付けない。
時間との戦いだ。
静かに、闇に溶け込むように、私たちはスイートルームの分厚いカーテンの隙間から足を踏み入れた。
——パチン。
突然、部屋の照明が煌々と点灯した。
「……え?」
暗闇に慣れていた目が眩み、私は咄嗟に顔を覆う。
「いらっしゃい、忍びの生き残りさん。……あなたがたが来ることは、空間の揺らぎですべてお見通しだったわ」
視界が晴れた先に広がっていたのは、絶望だった。
部屋の中央。血まみれで気絶している男の傍らで、ミチルが優雅に紅茶のカップを傾けていた。そして、彼女を取り囲むように、完全武装したプロのボディガードたちが十人、すでに一糸乱れぬ動きで私たちに銃口を向けて待機していたのだ。




