絶対の天敵と、闇夜の逃走劇
「な、んで……」
完璧に気配を殺していたはずだ。物音一つ、立てていないのに。
「ふふっ。どうしてバレたのか、不思議そうな顔をしているわね」
ミチルはクスクスと笑いながら立ち上がった。
「私にはね、あなたたちの『位置』が手に取るように分かるの。それに……あなたたちから噴き出している、そのドロドロとした醜い赤色の『殺意』。どんな技術を用いても、感情までは消せないでしょう?」
背筋に、氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
視覚、聴覚、熱源。私たちが欺いてきたすべての物理的な隠密技術が、この女の前では『まったくの無意味』なのだと悟った。
空間そのものを把握し、感情の色を見る。
——忍びにとっての、絶対的な天敵。
「お父さんたちの、仇っ!!」
私が硬直したその一瞬の隙に、隣からサヤが弾かれたように飛び出した。
手には白刃。その動きは常人の動体視力を凌駕する、瞬きの間に相手の首を掻き切る神速の抜刀術。
「サヤ、ダメっ——!」
「私の正面」
ミチルの、まるで歌うような、それでいて無機質な指示。
サヤの刃がミチルの首に届くコンマ数秒前。ボディガードの一人が、全くの無駄のない動きでサヤの死角から特殊警棒を振り抜いた。
「——っ!?」
ゴスッ! という鈍い音と共に、サヤの小さな体が空中でくの字に折れ曲がり、無惨に床へと叩きつけられた。
「かはっ……あ……!」
「サヤ!!」
私は叫び、クナイを両手に構えて躍り出た。だが。
「次、クナイの投擲は無視。後ろよ」
ミチルが嘲笑うように言葉を紡ぐと、私の動きはすべて読まれていたかのように、放ったクナイには見向きもせず、分厚い防刃ブーツを着た男がミチルの後ろに回った私を正面から迎え撃った。
直後、私の腹部に強烈な拳がめり込んだ。
「ガハッ……!」
肺の中の空気がすべて弾き出され、鉄錆の味が口いっぱいに広がる。床に崩れ落ちた私の顔面を、冷酷な軍靴が情容赦なく踏みつけた。
「あははははっ! 傑作! 虫けらみたいに地面を這いつくばって!」
ミチルが手を叩いて喜悦の声を上げる。
「私の能力はまだまだ先があるのよ? 私にはあなたたちの『次になにをしたいか』という焦りや怒りの感情が、ぜーんぶ文字になって感知しちゃうの。どこからどう攻撃してくるか、あらかじめ分かっていれば、防ぐのなんて簡単よね」
ギリギリと、頬骨が軋むほどの力で顔を踏みつけられながら、私は必死にミチルを睨みつけた。
「き、さま……お父さんたちを……罠に嵌めて……!」
血反吐を吐きながら睨みつける私を見て、ミチルの顔が歪な三日月のように吊り上がった。
「ああ、あのネズミの夫婦! 最高のショーだったわ! あの時ね、レイカの炎で退路を塞がれたあの二人が最後に放った絶望の色……深く、濁った、美しい青色。あんな綺麗な色、見たことなかったわ。思い出すだけでゾクゾクしちゃう」
ミチルは自身の体を抱きしめ、うっとりと目を細めた。
「あなたたちも、これからあんな綺麗な色を出してくれるのかしら? 楽しみだわ。手足を一本ずつ折って、少しずつ、少しずつ味わってあげる」
(勝てない……)
骨の髄まで理解させられた。この女の能力の前では、私たちの培ってきた忍びの技はすべてが子供の遊びに等しい。完全に手も足も出ない、一方的な蹂躙。
意識が遠のきかけた、その時だった。
音もなくボディガードの横に立ったサヤが、私を踏みつけている男の足に隠し持った刃を突き立てた。
「がっ……!?」
男がバランスを崩した隙に、私は踏みつけられていた足から抜け出し、サヤの腕を掴んで後退する。
ミチルの言葉がピタリと途切れた。
「え……?」
彼女の視界の中で、倒れていたはずのサヤの『色』が、突如としてフッと消滅したのだ。
怒りも、殺意も、焦りも。あらゆる感情の波長がゼロになった、完全なる『無』。
死に物狂いで追い詰められたサヤが、無意識のうちに自らの精神のスイッチを切り離し、殺戮のためだけの純粋な『空っぽの器』と化したのだ。感情の色に依存していたミチルにとって、それは未知のバグに等しかった。
「……おかしいわね。この子は感情を無くしちゃったの?」
不思議そうな顔をするミチルを油断なく見据えながら、私は退路を探す。
『ユキちゃん! サヤちゃん! 逃げて!!』
インカムから、ユカリの緊迫した声が響く。
直後、ユカリがホテル中央の制御システムへ送り込んだウイルスにより、スイートルーム一帯の照明と電子ロックが一斉にショートした。分厚いカーテンにより月明かりすら届かない、完全な漆黒の闇が部屋を包み込む。
「……あら? 停電? でも無駄よ。私にはあなたたちの位置も、感情も見えて——」
ミチルが余裕の笑みを浮かべた、まさにその瞬間だった。
——スッ。
感情を無くしたサヤが闇に溶け込み、一人、また一人とボディガードたちの急所へ刃を突き立てていった。
「このっ……! 撃て、適当に撃ちなさい!」
ミチルの指示が遅れたコンマ一秒。
サヤの放った閃光弾と煙幕弾が、暗闇の中で激しく炸裂した。
強烈な光と白い煙が、暗視ゴーグルを装着しようとしていたボディガードたちの視界と連携を完全に奪い去る。
「サヤっ!」
私は痛む体で床を蹴り、サヤの腕を強く掴んだ。
そのまま一気に、煙を切り裂いて窓際へと疾走し、テラスに向かって身を挺して突撃する。
ガシャアアアアアンッ!!!
テラスのガラス戸を粉々に突き破る轟音と共に、私たちは横浜の暗く冷たい夜空へと投げ出された。
「逃がさないわよ……! 追って!!」
背後からミチルのヒステリックな絶叫と、無数の銃弾が夜空を引き裂いて飛んでくる。
私は空中でワイヤーガンを射出し、隣のビルの鉄骨にフックを引っ掛けた。肩を弾丸が掠め、焼けるような痛みが走るが、今は止まるわけにはいかない。
風を切り、闇に紛れ、私たちは泥を這うようにして逃げ延びた。
* * *
冷たい雨が降り始めた、路地裏のゴミ捨て場。
「はぁっ……はぁっ……」
私はサヤを庇うように壁にもたれかかり、激しく咳き込んだ。口から吐き出した血が、雨水に混ざって足元の暗がりへと流れていく。
サヤは頭から血を流し、うつろな目で宙を見つめたまま、ピクリとも動かない。
勝てなかった。
手も足も出なかった。
私たちの憎悪も、磨き上げた技術も、すべてを嘲笑うように見透かされ、へし折られた。
あの、純白のドレスを着た化け物の前では、私たちはただの無力な虫けらでしかなかったのだ。
「……ごめんなさい、お父さん、お母さん……」
雨音に紛れて、私の口から弱々しい嗚咽が漏れた。
冷たいコンクリートの壁の感覚と、全身を苛む激痛、そして何よりも、胸の奥を真っ黒に塗り潰していく『絶対的な無力感』。
私たちは今夜、偽りの聖女の前に、ただひれ伏すことしかできなかったのだ。




