泥に塗れた敗北と、闇底の決意
冷たい雨が、容赦なく私たちの体を打ち据えていた。
横浜の裏路地。ネオンの光すら届かないドブの匂いが立ち込める暗がりを、私たちは這うようにして進んでいた。
「はぁっ……はぁっ……サヤ、しっかり、して……」
「……うん……お姉、ちゃん……」
私の肩に寄りかかっているサヤの体重が、一歩踏み出すたびに重くのしかかる。
頭から流れた血が雨水と混ざり、サヤの黒装束をどす黒く染め上げていた。私の体も限界だった。ミチルのボディガードに踏みつけられた顔面は熱を持ち、肋骨が数本ひびがいっているのか、呼吸をするだけで肺の裏側がヤスリで削られるような激痛が走る。レイカに焼かれた左腕の火傷も、雨の冷たさに反発するようにジンジンと脈打っていた。
——惨敗だ。
骨の髄まで、私たちが培ってきた「忍び」という存在そのものをへし折られた。
空間を把握し、感情の色を見る。あの純白のドレスを着た化け物の前では、私たちが血反吐を吐いて身につけた無音の歩法も、闇に溶け込む技術も、すべてが児戯に等しかったのだ。
「ユキちゃん! サヤちゃん!!」
隠し扉のロックを解除し、地下アジトへ転がり込むと、血相を変えたユカリさんが駆け寄ってきた。
モニターの青白い光だけが照らす部屋の中。いつもなら温かいココアの香りが漂うはずのアジトは、今日ばかりは強烈な鉄錆の匂い——私たちの血の匂いで満たされていた。
「ひどい……すぐに手当てを……!」
ユカリさんは震える手で救急箱を引きずり出し、私たちをソファに横たわらせた。
「痛ッ……!」
消毒液が傷口に染み込み、思わず歯を食いしばる。サヤの頭部の裂傷は深く、ユカリさんが医療用のホッチキスで傷口を塞ぐたびに、サヤの小さな体がビクッと痙攣した。
処置が進むにつれ、アジトの中にはアルコールのツンとした匂いと、重く苦しい沈黙だけが降り積もっていった。
「……ごめん」
沈黙を破ったのは、私だった。
自分の両手をじっと見つめる。泥と血がこびりつき、かすかに震えているその手は、ひどくちっぽけで無力に見えた。
「私の……作戦ミスだ。相手の能力を、もっと深く想定しておくべきだった。私の甘さのせいで、サヤを死なせるところだった……っ」
ギリッと奥歯を噛み締める。
姉として、絶対に守ると誓ったはずなのに。あの密室で、私はミチルの力に圧倒され、ただ地面に這いつくばって絶望することしかできなかった。
「違うっ!!」
突如、静寂を切り裂くような鋭い声が響いた。
サヤだった。頭に分厚い包帯を巻かれた彼女が、ソファからバネのように跳ね起きた。
いつもなら「お腹空いた〜」と能天気に笑うはずの妹の顔が、今は悔しさと怒りで真っ赤に染まり、その瞳からは大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
「お姉ちゃんのせいじゃない! 私が弱いからだ! あのバケモノ女が、異常なだけだ!!」
サヤはソファのクッションを力任せに殴りつけた。
「悔しい……! お父さんたちを罠に嵌めたあいつが、目の前で笑ってたのに! 首を! 首を斬り落としてやるって思ったのに……私の動き、全部読まれてて……!」
ぽたぽたと、サヤの涙がペルシャ絨毯の柄を濡らしていく。
人を殺めた後でも平然としていたサヤが、子供のように声を上げて泣いている。それは、彼女の中にまだ「人間としての温かい感情」が残っている証拠でもあり、同時に、あの聖女に植え付けられた強烈なトラウマの証明でもあった。
「サヤ……」
私は痛む体を引きずってサヤの隣に座り、その震える小さな肩を抱き寄せた。
「……あの時」
私は、喉に引っかかっていた一番の恐怖を口にした。
「ミチルの部屋が停電した一瞬……サヤ、あなたの『気配』が完全に消えた。忍びの技術じゃない。殺意も、怒りも、焦りも。あなたという人間の感情のスイッチが、完全にゼロになった。……どうやって、あんな状態になったの?」
あの瞬間、ミチルはサヤの『感情の色』を見失った。だからこそ、閃光弾を放ち逃げ切る一瞬の隙が生まれたのだ。
しかし、サヤは私の胸に顔を押し当てたまま、ブルブルと首を横に振った。
「……わかんない」
震える声で、サヤは呟いた。
「お姉ちゃんが殺されるって思ったら……一人になっちゃうと思ったら……目の前が真っ白になって、心の中が空っぽになって……。ゴミ捨て場の雨の中で倒れるまで、椅子に座って映画を眺めているような感覚だった。……怖かった。自分が自分の意志で動けなくなるのが……」
私は背筋が凍るのを感じた。
追い詰められた極限の状況が、サヤの防衛本能として「感情の切断(解離)」を引き起こしたのだ。だが、もし意図的にそのスイッチを入れられるようになったら? 感情を完全に殺し、ただ殺戮だけを行うマシーンになれば、ミチルの『感情の可視化』を無効化できるかもしれない。
……だが、そんなことをすれば、サヤの心は完全に壊れてしまう。
(絶対にダメだ。サヤを、これ以上修羅道に落とすわけにはいかない)
私はサヤの冷え切った背中を、体温を分け与えるように強く、強く抱きしめ返した。
「二度と、あんな真似はしないで。感情を捨ててまで勝ったって、お父さんたちも絶対に喜ばないわ」
「でも……! じゃあどうやってあいつを殺すの!? このままじゃ、お姉ちゃんが死んじゃう!」
サヤが私の胸ぐらを掴み、必死の形相で訴えかけてくる。
「……力押しじゃ、ダメなのよ」
私はサヤの目を見返し、静かに、だが確かな熱を込めて言った。
「あいつの能力は完璧に近い。空間の把握と、感情の可視化。私たちがどれだけ技術を磨いても、真正面からの奇襲は絶対に防がれる」
「じゃあ、諦めるって言うの……!?」
「諦めるわけないでしょ」
私は顔の痛みを堪え、ニヤリと口角を吊り上げた。
「あいつは『次になにをしたいか』が読めると言った。なら、読まれた上で、あいつの対処が間に合わないような『盤面』を作ればいい。あいつ自身が処理しきれないほどの罠、あるいは、あいつの能力の届かない『盤外の駒』を用意するの」
「盤外の駒……?」
サヤがきょとんと目を丸くしたその時、私たちの前にコトン、と二つのマグカップが置かれた。
見上げると、ユカリさんが優しく微笑んでいた。立ち上る湯気と共に、甘いココアの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「そうね。ユキちゃんの言う通りだわ。……どんな完璧な能力にも、必ず死角や綻びがある。それが人間の使う力である限りね」
ユカリさんは自分のマグカップを両手で包み込みながら、中央のモニターを見上げた。
「ミチルは今日、私たちという『ネズミ』の生き残りがいることを知った。当然、警備はこれまで以上に厳重になるはずよ。新しいボディガードを雇い入れるかもしれない。……まずは徹底的に情報を集め直しましょう。あいつの弱点になるピースを、私が意地でも見つけ出してみせるわ」
「ユカリさん……ありがとう」
私は温かいココアを一口飲んだ。全身に染み渡るようなその甘さが、強張っていた心を少しだけ解きほぐしてくれた。
サヤも鼻をすすりながらココアを飲み、大きく深呼吸をした。
「……負けない」
サヤが、強く握りしめた拳を震わせながら呟く。
「絶対に、あいつの顔を恐怖で歪ませてやる。お姉ちゃん、次はどうすればいい?」
私はアジトの天井を見上げた。
絶望的な実力差。物理法則を無視した能力。それでも、私たちは影を生きる忍びだ。
泥水をすすり、這いつくばってでも、絶対にあの偽りの聖女を引きずり下ろす。
「今は傷を治すのが先よ。……それから、ミチルの周囲の人間関係を洗い出す。孤立させ、確実に仕留めるための、蜘蛛の巣を張るわ」
冷たい雨は、まだ降り続いている。
しかし、私たちの胸の奥に灯った真っ黒な復讐の炎は、敗北の泥水を被ってなお消えることなく、より深く、より静かに燃え上がり始めていた。




