凍てつく虚無と、氷の魔法少女
ひんやりとした地下アジトの空気が、今日はやけに重く、肺の奥をチクチクと刺すように感じられた。
数日前の夜、私たちは『感知の魔法少女』桐里ミチルの滞在するホテルのスイートルームを強襲し——そして、手も足も出ずに惨敗した。
ミチルの『空間把握』と『感情の可視化』という理不尽極まりない能力の前に、私たちが血反吐を吐いて身につけた忍びの技術はすべて見透かされ、へし折られた。命からがら逃げ出した代償として、私の顔には軍靴で踏みつけられた醜い痣が残り、呼吸をするたびにひびの入った肋骨が鋭く痛む。
「……ユキちゃん、サヤちゃん。傷の具合はどう?」
三台の大型モニターの前でキーボードを叩いていたユカリさんが、心配そうにこちらを振り返った。
「痛み止めが効いてるから、平気よ。それより、ミチルの動向は?」
ソファに深く腰掛けたまま尋ねると、ユカリさんは重いため息をつき、モニターの一つを指差した。
「あれから、桐里グループはスポンサーの権力をフルに使って、ミチルの周囲の警備をさらに跳ね上げているわ。物理的なボディガードの増員だけじゃない。……最悪のニュースよ。あの女、自分と同じ『魔法少女』を専属の護衛として雇い入れたみたい」
「魔法少女を……護衛に?」
私が眉をひそめると、サヤがポテトチップスをかじりながらモニターを覗き込んだ。
画面に大写しになったのは、透き通るような白い肌と、腰まで伸びたサラサラの銀髪を持つ、人形のように美しい少女だった。年齢は私たちと同じ、十七歳くらいだろうか。しかし、そのアイスブルーの瞳には一切の感情が宿っておらず、どこまでも深く、冷たい。
「水島アカネ。『氷の魔法少女』よ」
ユカリさんが彼女のプロフィールデータを次々と展開していく。
「能力は、文字通り『周囲に氷を発生させる』こと。レイカの炎とは真逆だけど、防御力と制圧力はトップクラス。……ミチルの感知能力で私たちの位置を特定され、このアカネの氷で広範囲を丸ごと凍結させられたら、今度こそ完全に逃げ場がなくなるわ」
絶望的な組み合わせだった。
ただでさえミチル一人に手も足も出なかったというのに、さらに氷の魔法少女まで加わったとなれば、ミチルの懐に潜り込む難易度は天文学的な数字に跳ね上がる。
「氷かぁ〜。かき氷食べたいな。お姉ちゃん、イチゴシロップ買ってある?」
「サヤ、真面目に聞いて。殺されるわよ」
能天気な妹をたしなめつつ、私はアカネの冷ややかな瞳をじっと見つめた。
「……ミチルに近づくためには、まずこの氷の魔法少女をどうにかするしかない。ミチルの感知の範囲外にアカネを誘い出し、孤立させて排除する。ユカリさん、この水島アカネの行動パターンを徹底的に洗い出して」
* * *
同じ頃。
都内の有名私立高校。放課後の生ぬるい風が、開け放たれた窓から教室に吹き込んでいた。
生徒たちが部活動や遊びの相談で賑やかな声を上げる中、水島アカネは教室の片隅の席で、一人静かにカバンに教科書をしまっていた。
周囲の熱気とはまるで無縁のような、静謐で冷ややかな空気。誰もが振り返るほどの美貌を持ちながらも、彼女の周りには人を寄せ付けない見えない透明な壁があるかのようだった。
「あ、あのさ……アカネちゃん!」
ふいに、隣の席の女子生徒が、少し緊張した面持ちで声をかけてきた。その後ろには、数人のグループの女子たちがソワソワしながら見守っている。
「今日、駅前に新しくできたクレープ屋さんに行くんだけど……もし良かったら、アカネちゃんも一緒にどうかな? ずっと忙しそうだったから、たまには息抜きに……」
その言葉を聞いた瞬間、普段は凍りついているはずのアカネの胸の奥で、小さな温かい火が灯った。
(……嬉しい。誘ってくれた)
アカネは、決して人が嫌いなわけではない。ただ、極端に不器用なのだ。
幼い頃から感情を顔に出すのが苦手で、相手が自分に何を求めているのかを考えすぎてしまう。
(私が行ったら、気を遣わせちゃうかな。うまく笑えないし、会話も弾ませられない。せっかくの楽しい時間を、私が台無しにしてしまうかもしれない。どう言えばいいんだろう。ありがとう、って……嬉しいよって、伝えたいのに)
頭の中で無数の言葉が渦を巻き、最適解を探してパニックになる。
そして、数秒の沈黙の末に、アカネの口からこぼれ落ちた言葉は——。
「……いい」
短く、冷たい一言だった。
「えっ……あ、そ、そっか……!」
誘ってくれた女子生徒の顔に、明らかな戸惑いと気まずさが広がる。
「ご、ごめんね! アカネちゃん、魔法少女の仕事で疲れてるよね! また今度誘うね!」
逃げるようにして、グループの女子たちは足早に教室を出て行ってしまった。廊下から「やっぱりダメだったじゃん」「住む世界が違うんだよ」という小さなヒソヒソ声が、棘のように耳に刺さる。
(……違う。行きたくないわけじゃない。疲れてもいない)
アカネは小さく唇を噛み締め、カバンの持ち手をギュッと握った。
(ごめんなさい。迷惑、だったよね。嫌な気持ちにさせちゃったよね……)
誰にも聞こえない心の声だけが、虚しく教室の空気に溶けていく。またやってしまった。傷つけるつもりなんてないのに、いつも言葉が足りなくて、人を遠ざけてしまう。
アカネは俯き加減で席を立つと、逃げるように学校を後にした。
* * *
校門を出ると、すでに真っ黒な送迎車がアイドリングをして待っていた。
「お疲れ様、アカネちゃん。今日もマスコミが張ってるから、さっさと乗って」
後部座席に乗り込むと、助手席に座るスーツ姿の男——スポンサー企業から出向してきている専属マネージャーが、振り返りもせずに業務連絡を始めた。
「明日のテレビ収録の台本、メールで送っておいたから目を通しておくように。基本的には『クールでミステリアス』なキャラ設定を崩さないこと。余計な愛想笑いやお喋りは、氷の魔法少女のブランドイメージを損なうからね。君はただ、無表情で頷いていればいい」
「……了解」
アカネは短く返し、窓の外を流れる無機質なビル群へと視線を移した。
魔法少女。世間から見れば、それは光り輝く正義のヒーローだ。
だが、その内情はどこまでも薄汚く、息苦しい。
私たち魔法少女は、政府やスポンサー企業が利益を生み出すための「商品」に過ぎない。敵が現れれば出動し、派手な魔法で戦い、テレビの前でポーズを決める。被害者の救済よりも、いかに見栄え良く敵を倒し、スポンサーのロゴをカメラに映すかが優先される世界。
(……馬鹿みたい)
自分の持っている力で誰かを守りたいと思った時期もあった。だが、大人たちの汚い思惑に振り回されるうちに、そんな純粋な感情はとうの昔に擦り切れ、凍りついてしまった。
誰も私自身を見てはいない。「氷の魔法少女」という便利な看板を見ているだけだ。
「それから、急なスケジュール変更だ。桐里グループから、直々の依頼が入った」
マネージャーの言葉に、アカネは視線だけを動かした。
「桐里ミチルちゃんの専属ボディガードだ。なんでも、最近タチの悪いストーカーというか、逆恨みの連中に命を狙われているらしくてね。ミチルちゃんといえば、今最も旬な『聖女』だ。彼女の護衛について親交を深めれば、うちの株価も君の好感度も爆上がり間違いなしだ」
大人の、脂ぎった欲望に満ちた声。
逆恨み? 命を狙われている?
(……誰が誰を憎もうと、私には関係ない)
どうせ、これも大企業同士の政治的なパフォーマンスの一環だろう。本当に危険なら、魔法少女ではなくプロの軍隊や警察を動かせばいい。
すべては作られた茶番劇。私という空っぽの器は、ただ言われた通りに舞台に立ち、氷を出すだけのからくり人形だ。
「……了解」
アカネはそれだけ言うと、深くシートに沈み込み、冷たいガラス窓に額を押し当てた。
この退屈で息苦しいシステム(せかい)を、いっそすべて凍らせて壊してしまえたら。
そんな叶わぬ虚無感を抱えながら、氷の魔法少女は、自分を待ち受ける暗い影の存在に気づくこともなく、ただ静かに瞳を閉じた。




