狂気の残滓と、見えざる聖女への挑戦
ひんやりとしたシャワーの冷水が、私の頭上から絶え間なく降り注いでいた。
足元を流れる水は、薄く赤く染まっている。火傷の痛みが全身を苛むが、それ以上に、いくら洗っても鼻腔の奥にこびりついて離れない「血と肉の焦げた匂い」が私を狂わせそうだった。
『お腹空いた〜。ねえお姉ちゃん、帰りにハンバーガー買って帰ろ?』
シャワーの音に混じって、先ほどのサヤの無邪気な声が何度も脳内でリフレインする。
あの子は本当に、帰りの車中でてりやきバーガーを美味しそうに頬張っていた。自分の服に、赤園レイカの返り血が微かに飛んでいることなど、まるで気にも留めない様子で。
(いつから……いつからサヤは、あんな風になってしまったんだろう)
タイルの壁に手をつき、私は深く息を吐き出した。
忍びとして、裏の世界で生きる覚悟は決めていたはずだった。だが、命を奪うことに対して、私はどうしても最後の最後で躊躇してしまう。復讐を誓った相手であっても、人の命を、あんなゴミくずのようにあっさりと刈り取れるものなのか。
サヤの瞳には、何の感情もなかった。怒りも、達成感も、罪悪感も。ただの「作業」として、魔法少女の首を刎ねた。
(……姉として、私の決意が鈍いのか?)
震える両手を握りしめる。
両親を惨殺されたのだ。あいつらは、のうのうと光の当たる場所で笑っている。慈悲など与える必要はない。サヤの行動は、復讐者としては正解なのだ。それを恐れてしまう私こそが、未熟で甘い。
「……しっかりしなきゃ。私が、お姉ちゃんなんだから」
誰に聞かせるでもなく呟き、私は濡れた髪を乱暴に拭いながらバスルームを後にした。
アジトのメインルームに戻ると、すでにサヤとユカリさんが巨大なモニターの前に集まっていた。
「あ、お姉ちゃん! 髪乾かさないと風邪ひくよー?」
サヤはソファの上であぐらをかき、ポテトチップスをかじりながら呑気に笑っている。その足元には、つい数時間前まで人を殺めていた彼女の愛刀に、血が付いたまま置かれていた。私はその異様な光景から目を逸らし、ユカリさんの隣に立った。
「ユカリさん、状況は?」
「……レイカの失踪は、まだ誰も気づいていないみたい。自由人のようだから、明日の朝までは誤魔化せると思う。でも、時間の問題ね」
ユカリさんはキーボードを叩きながら、不安げに私を見上げた。
「ユキちゃん、本当にやるの? 次は……あの『聖女』を狙うなんて」
中央のモニターに映し出されたのは、純白のドレスに身を包み、孤児院の子供たちに囲まれて聖母のように微笑む少女——桐里ミチル。
大企業「桐里グループ」の令嬢であり、両親を罠に嵌めた主犯格と思わしき人物。
「やるわ。レイカが吐いた通りなら、両親を殺すように指示を出したのはこの女よ。どうしても直接接触して、真意と背後関係を吐かせる必要がある」
私はモニターに映るミチルのプロフィールと、過去のニュース映像を睨みつけた。
「彼女の能力は『感知』。ニュースでも、山で行方不明になった子供をピンポイントで見つけ出したり、隠された爆発物を探し当てたりしている。……でも、逆に言えばそれだけよ。レイカのように直接的な破壊力や戦闘能力は無いはずだわ」
「確かに、彼女が物理的に何かを破壊したという記録は一切ないわね」
ユカリさんが頷き、ミチルの周囲の警備体制のデータを画面に展開する。
「問題は、その『感知』の能力よ。空間把握ができるなら、私たちが気配を殺して近づいても、視界に関係なく居場所がバレてしまう。待ち伏せや、ステルスによる奇襲が通用しない……忍びにとっては最悪の天敵ね」
私がそう分析すると、ユカリさんも重いため息をついた。
「しかも、ミチルは常に複数のプロのボディガードに囲まれているわ。移動中は防弾仕様の高級車、滞在先はセキュリティレベルMAXのタワーマンションやVIPルーム。……人混みの中で、ボディガードの目をかいくぐって、さらに彼女自身の『感知』を潜り抜けて拉致するなんて、至難の業……というか、ほとんど不可能よ」
アジトに重苦しい沈黙が落ちた。
どんなに私たちが環境に溶け込み、音を消しても、相手に「ここにいる」と直接伝わってしまうのであれば、忍びの技術は無に帰す。どうやって彼女の懐に潜り込めばいいのか。
「え〜? そんなに難しく考えることないじゃん」
その沈黙を破ったのは、サヤの底抜けに明るい声だった。
ポテトチップスの最後の一枚を口に放り込み、彼女は指についた塩を舐めながら、テレビのバラエティ番組でも眺めるかのような軽さであっけらかんと言い放った。
「拉致が無理なら、遠距離から毒入りのクナイで狙撃すれば簡単じゃ〜ん。忍びの技術なら、見晴らしのいいところから狙えるでしょ? 即効性の神経毒を使えば、感知されても問題ないじゃん!」
あまりにも軽い、まるでゲームの攻略法を語るかのような口調。
ユカリさんが「ひっ」と短く息を呑んで体をこわばらせた。私も、背筋に冷たい氷柱を差し込まれたような悪寒を覚えた。
「……ダメよ、サヤ」
私は努めて冷静な声を取り繕い、妹を真っ直ぐに見据えた。
「目的は『暗殺』じゃない。あいつから情報を吐かせることよ。ミチルが両親を狙った理由、政府との繋がり、他に共犯者がいるのか……真実を知るためには、生け捕りにしなければ意味がないわ。それに、一撃で仕留め損なえば、逆に私たちが警備網にハチの巣にされる」
「えー、つまんないの」
サヤは頬を膨らませ、不満そうにソファにゴロンと寝転がった。
「せっかくお父さんたちの仇なんだから、苦しんで死ねばいいのにさ。……ま、お姉ちゃんがそういうなら従うけどね」
その何気ない言葉の端々に、命の重さに対する絶望的なまでの無関心が透けて見える。私は胸の奥が締め付けられる思いを抱えながら、再びモニターへと視線を戻した。
ステルスが通じない。
遠距離からの狙撃も、情報収集の目的からして却下。
ならば、残された手段は——。
「……強行突破しかないか」
私の呟きに、ユカリさんが弾かれたように振り返った。
「正気!? 相手の土俵に真正面から飛び込むなんて、自殺行為よ!」
「わかってる。でも、使えるものはすべて使って、一瞬の隙をこじ開ける」
私はモニターの中の、偽りの聖女を見つめた。
決意が鈍いと悩むのはもうやめだ。妹が修羅の道を進むというのなら、私は姉として、その先頭に立って泥を被る。
どんな罠が待ち受けていようと、絶対にあの女を引きずり下ろしてみせる。
「準備をして、ユカリさん。……私たちが、偽りの聖女に本物の恐怖を教えてあげる」




