キサラの能力
夜の闇の中。ユキたちが戦っている高層マンションから少し離れた車の中で、アカネは逸る気持ちを抑えていた。
左腕の傷にはユカリさんの医療用ホッチキスが打ち込まれ、止血のために包帯がきつく巻かれている。激しい痛みはあるが、休んでいる暇はない。
その隣では、ノヴァが目を虚ろにしてキサラの行方を探索していた。
彼女の持つ理不尽なまでの索敵能力『千里眼』。それを何度も酷使させてしまっている。精神的な疲労が同じ魔法少女としてよく分かる。
「キサラ……キサラ……」
ノヴァの小さな唇が、呪文のようにその名を紡ぐ。
あの漆黒のドレスの魔女がどこへ逃げたのか。魔法少女システムの根幹である彼女を逃がせば、サヤも、他の魔女たちも元には戻らない。
(ノヴァ、焦らなくていい。でも、絶対に見つけ出して)
アカネが祈るように見守る中、ノヴァの研ぎ澄まされた意識は、闇夜の街を縦横無尽に駆け巡っていた。
***
一方、地下三階のコンクリート空間。
シュンッ!
空気を裂く鋭い風切り音が、私の耳元を掠めた。
サヤの振り抜いた忍刀が、私の首筋からわずか数ミリの空間を薙ぎ払う。
その刃に『霧化』の魔法は纏われていない。純粋な、そして極め抜かれた忍びの剣術だ。
「くっ……!」
私は背筋に冷たい汗を流しながら、大きくバックステップを踏んだ。
そこへ、息をつかせぬ追撃の鋭い突きが放たれる。体勢が崩れた私には躱しきれない。
「ユキ、伏せろ!」
ナタリーの鋭い声と共に、マグナム弾がサヤを目掛けて放たれた。
サヤは踏み込みをピタリと止め、銃弾を受けた。
パスッ。
弾丸が彼女に触れた瞬間、真っ白な霧へと変換され、無害な煙となって消え去る。
その隙に私は床を転がり、ナタリーの隣へと身を寄せる。
「助かった……!」
「気を引き締めろ! お前の妹、武器には魔法を使っていない。純粋な体術と剣術だけで私たちを圧倒しているぞ」
ナタリーの言う通りだった。
サヤの能力は、自身が触れたものを霧にする魔法。だが、彼女はそれをあくまで防御の盾としてのみ機能させている。
私たちのクナイや銃弾、投げつけたコンクリートの破片はすべて霧化されて防がれるが、彼女から繰り出される攻撃は、忍びの技術そのものだった。
「私が牽制する! ユキ、合わせろ!」
ナタリーが連続で引き金を引く。サヤが自身に当たる弾丸を霧化して無効化する一瞬の隙。
私は死角へ回り込み、クナイを振りかざして腕に突き立てようとしたが、サヤは見えていないのに、正確に忍刀の峰でいとも容易く弾き落とした。
そして、床を力強く蹴ってナタリーへと肉薄する。
「ナタリー!」
サヤの鋭い回し蹴りがナタリーの頭部を狙う。ナタリーは間一髪でスウェーして躱すが、そのまま回転の遠心力を利用した忍刀の横薙ぎが迫る。
私は咄嗟にワイヤーを射出し、ナタリーの腰のベルトに当てて弾き飛ばした。
ザシュッ、とナタリーのジャケットの胸元が浅く切り裂かれたが、なんとか致命傷は免れた。
「……貸し一つだ」
「すぐにお釣りをもらうわよ」
息の合った連携でお互いをカバーし合わなければ、とうの昔に私たちは切り伏せられていただろう。
だが、このまま防戦一方ではジリ貧だ。攻撃を通すためには、サヤの『霧化』の法則と限界を検証し、反撃の隙を見つけるしかない。
(でも……)
私はクナイを握りしめ、荒い息を吐いた。
簡単に検証をさせてくれない。それに、検証した結果として致命傷を与えるような本気の攻撃を、はたしてサヤに仕掛けられるだろうか。
自我を奪われた人形のようなサヤ。彼女に本気の刃を向けることに、私の心は激しく葛藤していた。
(サヤ……お願いだから、正気に戻って……!)
私が迷いを抱いたその瞬間。
サヤが再び無音の歩法で距離を詰めてきた。
だが、その無機質な虚ろな瞳から――ツーッと、静かに一筋の涙が溢れ落ちたのだ。
「……サヤ」
私の心臓が、鷲掴みにされたように激しく痛んだ。
完全な人形に見える。けれど、心の深層では、傷つけたくないと、サヤの自我が悲鳴を上げているのだろう。
涙を流しながらも、プログラムに従って無慈悲に刃を振るい続ける妹。
(あの子が一番苦しんでいる……! 私が迷ってどうするの!)
私は奥歯を噛み締め、涙を振り払うようにクナイを構え直した。
サヤが私たちの追撃を防ぐために大きなコンクリート片を霧化させて飛ばしてくると、フロアには再び濃厚な白い霧が立ち込め始めた。
***
「見つけた!!」
ノヴァの歓喜に満ちた叫び声が響いた。
「この前の六つの候補のもう一つ! 別の『田中の屋敷』に向かってるよ!」
「ありがと……行くよ、ノヴァ!」
アカネは無事な右手でノヴァの手を引き、夜の街を駆け出した。
左腕を負傷していても、アメリカでの過酷な修行で鍛えた脚力に衰えはなかった。
「逃がさない……!」
入り組んだ住宅街を抜けてしばらく進むと、鬱蒼とした森に囲まれた洋館へと続く、開けた公園に出た。
そこに、漆黒のドレスの裾を揺らして悠然と歩くキサラの姿があった。
「待ちなさい、キサラ!」
アカネの鋭い声に、キサラはコツンとヒールの音を響かせてゆっくりと振り返った。
「あら。氷のお嬢ちゃんと、迷子の子供かしら?」
逃げ場を塞がれたというのに、キサラは余裕たっぷりの妖艶な笑みを浮かべていた。
「あなたを捕まえて、サヤを解放する手段を聞き出す!」
アカネは右手を前に突き出し、冷気を集束させようとした。
だが、キサラは焦る様子もなく、甘く陰湿な声で言葉を紡いだ。
「ねえ、あなた。魔法を使うとき、どんな『感覚』を頼りにしているのかしら?」
「ごちゃごちゃと……ッ!」
「魔力の練り方、冷気を生み出す時のあの研ぎ澄まされた感覚……全部、あなたがこれまで血を吐く思いで積み上げてきた『経験』よね?」
その言葉が、蛇のようにスルスルとアカネの意識の隙間に入り込む。
キサラがスッと右手をかざした。
「ここまで来たんだから、教えてあげるわね。私の別名は……『盗心の魔女』よ。――こんな風にね」
キサラが、前に伸ばした自身の掌を、何かを包み込むようにギュッと握りしめた。
瞬間、キサラの掌の上に、淡く光る宝石のような小石がポコンと現れた。
「……え?」
アカネが氷を放とうと右手に意識を集中する。
だが、自身の周りに氷を飛び散らしただけだ。いつもなら即座にキサラの足元を氷で拘束できたはずなのに。
「どう……して……?」
アカネは自分の右手を見つめた。
魔力の練り方が、思い出せない。氷をどうやって作り出していたのか、その感覚が頭からすっぽりと抜け落ちている。
まるで、手足の動かし方すら分からなくなってしまったかのような、致命的な喪失感。
当たり前にできていた呼吸の仕方を忘れたような強烈なパニックが、アカネを襲った。
「私の魔法……私の、魔法が!」
「ウフフッ。盗心の能力は、完璧に心を操るには少し時間がかかるけど、一部の経験や概念を『盗む』ことくらい造作もないの。あなたの経験はこの『盗心石』の中よ」
キサラは手の中の盗心石を弄びながら、クスクスと残酷に笑った。
「可哀想に。武器を奪われたただの脆い少女が、私にどうやって勝つつもり?」
キサラはすっかり興味を失ったように背を向け、洋館の方へと歩き出した。
アカネは膝からコンクリートの地面へと崩れ落ちた。
「待って!」
ノヴァが叫んでアカネの手を引くが、アカネは凍りついたように動けなかった。
「ノヴァ、待って」
アカネは精神を集中させて氷の鶴を作ろうとした。
だが、アカネができたのは周りに氷を飛び散らせることだけだった。
その飛び散った氷に、ノヴァは薄く頬を切られる。
「いたっ!」
底知れぬ絶望が、アカネの心を黒く塗り潰していく。
深呼吸し、もう一度集中して氷の盾を作ろうとする。
だが、盾が現れることはなく、目の前に不格好な氷の塊ができただけだった。
「ノヴァ、どうしよう……魔法の使い方が、分からなくなった」
身も心も削って身につけた魔法。それが奪われた。
唯一の武器を失った彼女は、今やただの無力な少女に過ぎない。
「私はもう……魔法少女じゃない。ただの、足手まといの少女だ」
絶望に心を折られたアカネの目から、涙がこぼれ落ちる。
「ごめんね、ノヴァ。私じゃ戦えない……いったん、一緒に戻ろう……?」
震える声で泣き言を漏らしたアカネに対し。
「ふざけないで!!」
ノヴァの激しい一喝が、夜の空気をビリッと切り裂いた。
アカネが驚いて顔を上げると、ノヴァは怒りに満ちた真剣な瞳で彼女を見下ろしていた。
「魔法が使えなくなったくらいで、何よ!」
ノヴァはアカネの前にしゃがみ込み、その小さな両手でアカネの腕を力強く握りしめた。
「私の部族ではね、子供だって立派な戦力で、労働力で、生きるための『力』なの! 魔法なんかなくたって、戦える力はいっぱいある! だから、私は行くよ!」
過酷な環境を生き抜いてきたノヴァの言葉には、生半可な慰めではない、確かな覚悟と強さが宿っていた。
そしてノヴァは、怒った顔を一瞬で和らげると、アカネの首にギュッと優しく抱きついた。
「お姉ちゃんは、魔法がなくても、私のお姉ちゃんだよ。強いもん!」
年下の少女が見せた、母のような包容力と精神的な支柱。
「ユキお姉さんを待たせているんでしょ?」
アカネは目を見開き、やがてその目から熱い涙が止めどなく溢れ出した。
(……そうだ。私は、ノヴァを守るって約束したんだ)
自分が守る側だと思っていた。だが、今は自分のほうがこの小さな手に、心を引き上げられている。
「……ごめん。そうだったね」
アカネは空いた右腕で顔の涙を乱暴に拭い、立ち上がった。
魔法という武器を失っても、過酷な訓練に耐え抜いた肉体と、絶対に折れない心がある。
力強い光を取り戻したアカネの顔には、もう迷いはなかった。
「ノヴァ……走るのは私に任せて。サーチをお願い!」
「うん! 行こう、お姉ちゃん!」
アカネはノヴァを連れ、キサラが消えた洋館へと向かって、再び前を向いて駆け出した。




