究極の魔法少女――忍び
地下三階の凍てつくような空気の中、私は信じられない光景にただ立ち尽くしていた。
目の前に立つのは、間違いなく私の妹であるサヤだ。
だが、その瞳にはかつての温かな光は一切なく、ただ任務を遂行するためだけの機械のような虚ろさが張り付いている。
(私が助けにくるのが遅れたから……あんなに感情表現が豊かだったのに!)
今すぐにでも駆け寄って、強く抱きしめて名前を呼びたい。
早く田中の呪縛から解放して、元のサヤを取り戻さなければ。
逸る気持ちで呼吸が浅くなり、無意識のうちに前に出ようとした私の肩を、ナタリーが後ろから強く引き止めた。
「落ち着け、ユキ!」
ナタリーは自身の愛銃を油断なくサヤへ向けたまま、極めて冷静な、張り詰めた声で私に尋ねた。
「なあ。お前の妹は……『忍び』としては、どれだけの腕前なんだ?」
その問いに、私は奥歯を強く噛み締め、ぶっきらぼうに答えるしかなかった。
「……私より強いわよ。悔しいけど、模擬戦では、ほとんど勝てたためしがないわ」
姉の私よりも、サヤの方がずっと忍びとしての才能に溢れていた。私が泥水をすするような努力を重ねてようやく身につけた技術を、あの子は息をするように自然に使いこなしていたのだ。
そんな私たちのやり取りの最中、エレベーターへ向かって、キサラが悠然とした足取りで歩き出していた。
「逃がさない……ッ!」
仲の良かったサヤをこんな姿に変えられて、アカネさんも黙っているはずがなかった。
彼女は両手を床に叩きつけて魔法を解放する。
メキメキメキッ! とコンクリートを割りながら、二匹の巨大な『氷の蛇』が這い出し、鋭い牙を剥き出しにしてキサラの背中へと襲い掛かった。
キサラを飲み込もうと、蛇の顎が大きく開かれた、その瞬間だった。
――スッ。
私たちの目の前にいたはずのサヤの姿が、ふっと陽炎のようにブレて消えた。
いや、消えたのではない。極限まで足音と気配を殺した、忍び特有の足運びだ。
サヤは一瞬にしてキサラの背後へと回り込むと、空中に躍り出た二匹の氷の蛇にそっと触れる。
シュウウウウウッ!!
凄まじい音と共に、アカネさんが作り出した氷の蛇が、触れられた箇所から瞬時に真っ白な『水蒸気』へと変換されていった。
魔法の質量すらも無視するその現象によって、巨大な二匹の蛇はあっという間に形を失い、ただの霧となって空中に散ってしまった。
キサラは、自分の安全が保証されていることを知っているのだろう。
背後で繰り広げられたその攻防を振り返りさえせず、コツ、コツとヒールの音を響かせてエレベーターに乗り込み、そのまま扉の向こうへと消えていった。
残された私たちは、サヤの底知れぬ力に戦慄していた。
「……親父くらい早いな」
ナタリーの額から、タラリと冷や汗が流れ落ちる。
彼女がかつて見たであろう、人間離れした達人の動き。それを、こんな細身の少女がやってのけたのだ。
(なんてこと……)
ただでさえ人智を超えた理不尽な魔法の力。そこに、サヤが元々持っていた忍びとしての繊細かつ極まった技術が加わっている。
妹でなければ、今すぐ背を向けて全力で逃げ出したいほどの、絶望的な相手だった。
私は鐘のように打つ心臓を抑え込み、自分に強く言い聞かせた。
(冷静になれ。自我のない人形よ。必ず行動パターンがあるはず)
殺すわけにはいかない。なんとか隙を突き、無力化して拘束する手段を考えなければ。
私は必死に思考を巡らせようとした。
しかし、サヤは私たちに考える時間など与えてくれなかった。
魔法少女の力を持っていようと、彼女の根底にあるのは『忍び』の思考だ。相手に考える時間を与えず、自分の舞台に引きずり込んで強制的に踊らせる。
サヤは無表情のまま、真横にあった太いコンクリートの柱にポンと手を当てた。
バシュウウウウウッ!!!
次の瞬間、強固なコンクリートの柱全体が一瞬にして水蒸気へと変換され、その霧を操作して私たちの周りに撒き散らした。
「散開しろッ!!」
ナタリーの鋭い指示が飛ぶ。
視界が完全に奪われる前、私たちは一斉に地面を蹴り、立ち込める霧の外へとバラバラに飛び出した。
私は床を転がりながら霧の薄い場所へと抜け出し、即座にサヤと仲間たちの位置を探る。
(アカネさん!)
私の目に飛び込んできたのは、白い霧のベールから飛び出した直後のアカネさんに向かって一直線に疾走するサヤの姿だった。
その手には、いつの間にか鈍い光を放つ忍刀が握られている。
スピードが違いすぎる。逃げられないと判断したアカネさんは、両手を左右に伸ばし、自身の周囲に分厚いドーム状の『氷の盾』を展開した。
先ほど、ゴム弾をいとも容易く防いだ強固な絶対防御。
だが、サヤはそれを見ても一切速度を落とさなかった。
彼女は氷の盾の直前で低く沈み込むと、コマのように鋭く回転し、盾に向かって強烈な後ろ回し蹴りを浴びせた。
サヤの足が氷の盾に触れた瞬間――。
ジュワァァァッ! と、まるで熱したナイフでバターを切り裂くように、足が通った空間の氷だけが綺麗に水蒸気となって消滅したのだ。
サヤは蹴りの威力を一切殺さず、遠心力を利用して忍刀を振るった。
ぽっかりと穴が開いた氷の盾の隙間を縫って、白刃が一閃する。
ザシュッ!
「あぁッ……!!」
アカネさんの悲鳴と共に、腕から鮮血が赤い弧を描いて飛び散った。
分厚い氷の盾が僅かな距離を稼いでくれたおかげで、腕が切り飛ばされることだけは免れた。だが、止まることなく、彼女の左の上腕からは絶えず真っ赤な血が流れ落ちていた。
タンッ!
堪らず、後方の死角にいたナタリーが、サヤの足元を目掛けて愛銃の引き金を引いた。
殺さないよう、機動力を奪うための的確な射撃。
放たれたマグナム弾が、空気を裂いてサヤの太ももへと迫る。
パスッ……。
サヤの足に命中したはずの弾丸は、奇妙なほど気の抜けた音とともに、彼女の肌を傷一つ付けることなく、一瞬にして無害な水蒸気へと変換された。
「嘘だろ……ッ! 物理攻撃も無効化するっていうのか!」
ナタリーが驚愕に目を見開く。
その間に、腕を押さえてうずくまっていたアカネさんが、激痛に耐えながら傷ついた左腕をサヤへと向けた。
パキパキパキッ!
至近距離からの魔力解放。サヤの足元から首元まで、一気に分厚い氷の塊が覆い尽くし、その動きを封じ込めた。
「サヤ!」
私はその隙を見逃さず、クナイを構えてアカネさんの前に立ちふさがる。
しかし、凍りついたはずのサヤの全身から、凄まじい勢いで高熱の水蒸気が立ち昇り始める。
氷の中に閉じ込められながらも、彼女は自身の体に触れている氷を内側から水蒸気へと変えているのだ。拘束できるのは、ほんの数秒にも満たない時間だと直感した。
バシュッ!
氷が完全に気化し、新たな濃霧が発生する。
サヤはその自らが生み出した霧に紛れ、音もなく私の視界から姿を消した。
(どこ……上、後ろ!?)
私が神経を尖らせて周囲を探った、その直後だった。
ガキィィンッ!!
少し離れた霧の奥から、鋭い金属音が鳴り響いた。
ナタリーの銃の硬質なフレームと、サヤの忍刀が激しくぶつかり合った音だ。
銃を撃つ暇すら与えられず、ナタリーは近接戦闘を強いられている。
「おい! こんな化け物、どうやって拘束するんだ!?」
ナタリーが悲鳴じみた声を上げながら、サヤの斬撃を必死に捌いているのが影で分かった。
彼女の問いに、明確に答えられる者はいない。
遠距離からの銃弾は水蒸気にされ、魔法の氷も無意味。近接戦闘に持ち込もうにも、相手は天才的な忍びであり、触れられれば武器ごと気化させられる危険がある。
攻防一体の、まさに『究極』の存在。
私は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締めると、傷ついたアカネさんの側へと滑り込んだ。
「アカネさん! 一旦、退いて治療して! 地上で待機しているユカリさんから、治療を受けられるから!」
出血の激しい彼女をこの場に留まらせるわけにはいかない。
アカネさんは悔しそうに顔を歪めたが、今の自分が足手まといになることを理解したのか、コクリと力強く頷いた。
彼女は周囲を警戒しながら、後ずさるようにしてエレベーターへと移動を開始した。
「ナタリー……!」
私は両手にクナイを握り直し、金属音が響き渡る真っ白な霧の奥へと向かって叫んだ。
「加勢する! 二人で一緒に、なんとか時間を稼ぐよ!」




