最悪の置き土産
パチ、パチ、パチ、パチ。
水圧の魔女が眠りに落ち、静寂が訪れた地下五階のコンクリート空間。そこに突如として、乾いた拍手の音が響き渡った。
ハッとして私が振り返ると、数十メートル離れたエレベーターの前に立つ黒髪の魔女――キサラが、妖艶な笑みを浮かべながらゆっくりと手を叩いていた。
「おめでとう。……まさか、ただの人間がうちの魔女に勝てるなんて思わなかったわ」
その声には、部下を失った悲壮感や焦りなど微塵も感じられない。まるで、少し退屈な演劇が予想外の結末を迎えたことを喜ぶ、観客のような余裕たっぷりの態度だった。
私はクナイを構え直したまま、冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。最悪の可能性が頭をよぎる。
(まさか、この余裕は……上の階で戦っている二人が、すでにやられているから!?)
「まさかッ! アカネさんやナタリーに何かあったの!?」
私が焦燥に駆られて鋭く問い詰めると、キサラは漆黒のドレスの肩を小さくすくめた。
「どちらも大金星よ。うちの最大戦力だった魔女が、三人ともやられちゃったわ。本当に驚きね」
その直後、私の耳元のインカムに、ノイズ混じりの通信が入った。
『ザザッ……ザー……ユキちゃん、聞こえる?』
ノイズ混じりのユカリさんの声だ。
『アカネちゃんは無事よ。ナタリーの無事も、ノヴァちゃんが千里眼で確認してくれたわ! 私たちの勝ちよ!』
その報告を聞き、私は張り詰めていた肺から、大きく息を吐き出すことができた。
だが、安堵と同時に、さらに強い疑問と警戒心が首をもたげる。自陣の最大戦力が全滅したというのに、キサラはなぜこうも悲壮感がないのか。
(絶対に、まだ何かを企んでいる……。警戒を解くわけにはいかない)
「さあ。エレベーターで金髪のお嬢ちゃんを拾って、地下三階に行くわよ」
キサラは一切の警戒心を見せず、隙だらけの無防備な背中を私に向けて、エレベーターへとゆっくり歩み出した。
(どうする……今、背後から一気に拘束するか?)
私はキサラの背中を鋭く見つめながら、一息に距離を詰めて取り押さえる算段を脳内で組み上げた。
だが、あの異常なまでの余裕の態度が、どうしても私の足に重い鎖をかける。万が一、まだ見せていない罠や、強力な魔法が隠されているとしたら、私一人で突っ込むのはリスクが高すぎる。
(一旦、仲間と合流しよう。三人揃ってから、確実に捕らえる方向で考えた方がいいわ)
私は油断なく周囲を警戒しながら小走りで駆け寄り、既にエレベーターの中で待っていたキサラの元へと乗り込んだ。
重厚なドアが閉まり、モーターの低い駆動音と共に、エレベーターは静かに上昇を始めた。
***
チン、という電子音と共に地下四階に到着し、重い鉄扉が開いた。
そこに広がっていたのは、無機質なコンクリートの床を完全に埋め尽くすほどの、見渡す限りの広大な砂丘だった。
そして、その砂の海の中央付近で倒れ伏している砂塵の魔女と……四つん這いになって、何やらブツブツと文句を言いながら砂を掘り返しているナタリーの姿があった。
「ナタリー!」
「ユキ! いいところに来たな! 頼む、銃を探すのを手伝ってくれ!」
声をかけると、ナタリーは弾かれたように顔を上げ、悲痛な顔で叫んだ。どうやら、魔女との死闘の最中で愛銃を手放し、このフロア一面に広がる砂のどこかに落としてしまったらしい。
「ええっ……この砂の中から探すの?」
いくらなんでも広すぎる。手伝うべきか一瞬迷い、横に立つキサラの方を見ると、彼女は面白そうにクスクスと笑いながら私と目を合わせた。
(私はキサラが逃げたり、不意打ちをしてくるのを止めなければならない。……それに、本音を言えば、この戦闘服を泥砂で汚したくもないわ)
私は瞬時に冷酷な決断を下し、ナタリーに向かって明るく声を張り上げた。
「ナタリー、待っているから急いで探してきて! 私はキサラが逃げないように、ここでしっかり見張っているから!」
「……トレイター(裏切り者め)」
ナタリーは恨めしそうな声で低く吐き捨てると、しぶしぶ孤独な発掘作業に戻っていった。
私は、砂を掘り続ける背中を見届けながら、キサラに質問を投げかけた。
「アカネさんも勝ったのよね? 本当に無事なの?」
「何でもかんでも聞いたら教えてもらえると思わないことね。早く確認したいなら、あなたも探し物を手伝ってきたらどう?」
キサラは意地悪く微笑むだけで、それ以上の有益な情報は引き出せなかった。
私は少し残念に思いながら、再びナタリーの奮闘に目を向ける。
それから重苦しい沈黙が五分ほど流れ、ようやく砂の中から愛銃の感触を掴み取ったナタリーが、ドスドスと重い足取りでエレベーターまでやってきた。
「見ろよユキ! 髪の中まで砂まみれだ! ファック!」
金糸のような美しい髪は泥砂で汚れ、戦闘服の隙間からもサラサラと砂がこぼれ落ちている。不機嫌の極みといった顔のナタリーを乗せ、エレベーターは再び上の階へと動き出した。
***
地下三階に到着し、扉が開く。
私たちは揃ってエレベーターを降り、ひんやりとしたフロアの奥で待っていたアカネさんと無事に合流を果たした。
「アカネさん!」
「ユキ、そっちも大丈夫そうでよかった」
アカネさんの戦闘服は所々が鋭利な刃で裂かれていたが、激しい戦闘を乗り越えたその顔には確かな安堵が浮かんでいた。
太ももを負傷したようだが、歩行や戦闘に支障はなく、すでに応急手当を済ませたのか血も完全に止まっており、命に関わるような深い傷はなさそうだ。
その横で、ナタリーは砂にまみれた愛銃のシリンダーをジャキッと回し、軽く動作点検をしている。
自分の目で仲間全員の無事を確認できたことで、私はようやく本題に入る決意を固めた。
「キサラ。……約束通り、あなたを拘束させてもらうわ。その後は田中の居場所まで案内して!」
私は両手にクナイを構え、ナタリーは砂まみれとなった銃ではなくクナイを、アカネさんは両手をキサラへ向けた。
三対一。完全に逃げ場のない包囲網。
だが、絶望的な状況であっても、腕を組んだキサラは決して余裕の態度を崩さなかった。
その時。
ピロリン、と。
キサラのドレスの懐から、この緊迫した場に似つかわしくない無機質な電子着信音が鳴り響いた。
キサラは全く焦る様子もなくスマートフォンを取り出し、画面に表示されたメッセージを確認した。
おそらく、田中とやりとりしたのだろう。その内容を見た瞬間、彼女の赤い口元がニヤリと、狂気じみた三日月型に吊り上がった。
「魔女たちを一体ずつ相手させるとは約束したけど……無条件で拘束されるなんて、私、一言も言ってないわよ?」
「なっ……」
スマートフォンから顔を上げたキサラは、まるで熱を持った蒸気にあてられたような、ゾッとするほど妖艶な顔をして言い放った。
「私はここで逃げさせてもらうわ。 その代わりに最高の『置き土産』をあげるわね」
その言葉と同時だった。
シュウゥゥ……バシュッ!!!
地下三階の強固なコンクリートの天井が文字通り消えた。
物理的に破壊されたわけではなく、くり抜かれたわけでもない。
まるで、最初からそこに物質がなかったかのように一瞬にして消滅したのだ。
「えっ……!?」
上の階、つまり地下二階の床に、ぽっかりと丸い大穴が開いた。
そこから、濃厚な白い霧が、滝のように渦巻きながらフロアへと溢れ出してきた。
そして、その白濁した濃霧の中を落下してくる一つの影。
スッ。
影は、数メートルの高さを物ともせず、羽のように軽い身のこなしでキサラの隣に音もなく着地した。
霧が晴れていく中で、その姿がゆっくりと露わになる。
動きやすい黒の戦闘服。
首筋で切り揃えられた、見覚えのあるショートカットの髪。
幼さが混じった、私とよく似た顔立ち。
「……サヤ!?」
私の口から、絞り出すような声が漏れた。
間違いない。絶対にこの手で取り返すと誓った、世界でただ一人の最愛の妹だ。
「サヤ! サヤ……ッ!」
私が叫びながら駆け寄ろうとすると、隣にいたナタリーが強く私の肩を掴んで引き止めた。
「待てユキ! 様子がおかしい!」
ナタリーの言う通りだった。
目の前に立つサヤの瞳には、かつての明るい光は一切ない。先ほどまで私たちが戦っていた魔女たちと同じ、感情を完全に失った、虚ろなガラス玉のような目をしていたのだ。
「うちの最終兵器――霧の魔女よ」
キサラが、サヤの華奢な肩に手を置きながら、狂気を含んだ笑みを作った。
「サヤ、せっかく会いに来てくれたお姉ちゃんだもの。存分に可愛がってあげなさい。……私は逃げるから、足止めもお願いね?」
その非情な命令に、サヤは表情一つ変えることなく、ゆっくりと両手を私たちへ向けて持ち上げた。彼女は不気味な霧の中、私たちに向けて忍刀を構えて立ち塞がる。
その隙にキサラは踵を返し、悠然とした足取りで背後のエレベーターに向けて歩き出した。
「サヤ……嘘でしょ……」
田中のシステムによって自我を奪われ、私たちに牙を剥く妹。
取り戻すべき最愛の存在が、最悪の敵として立ちはだかる。地下空間の凍てつくような空気の中、私たちの絶望的な戦いが、今、幕を開けようとしていた。




