開戦の狼煙
完全に日が落ち、街を冷たいネオンの光が照らし始めた頃。
私たちは田中が潜伏する高層マンションの裏通りに車を停めた。
私は深く息を吸い込んでからドアを開ける。
肌を刺すような冷たい夜風が、戦闘用のベストの上に羽織った作業着をパタパタと揺らした。
「ユカリさん。通信テストをお願い」
インカムのスイッチを入れると、わずかなノイズの直後、安全圏に待機しているユカリさんのクリアな声が鼓膜に届いた。
『こちらユカリ、感度明瞭よ』
「了解。これより潜入を開始するわ」
私は通信を切ると、車の後部座席から大きな台車を引き下ろした。
ナタリーはキャップを深く被り、マスクをつけて顔の大部分を隠し、これから重い荷物を運ぶ宅配業者の作業員として潜入する。
台車の上には、大きな段ボール箱が一つ乗せられている。
その中には、アカネさんが息を潜めて丸まっていた。
(……今頃、あの雷鳴の魔女も動いているだろうか)
私たちがここで派手に動けば、田中の意識は必然的にこの本丸へと向く。その隙を突いて、彼女もまた妹を救うために牙を剥くはずだ。
私たちは交わることのない別々の道から、同時に田中の喉元へと刃を突き立てる。
台車の車輪が、アスファルトの上でゴロゴロと低い音を立てる。
マンションの通用口に辿り着くと、そこには分厚いガラス扉とテンキー式のオートロックが立ち塞がっていた。
「……解除できるか?」
ナタリーが周囲を警戒しながら小声で尋ねる。
私はテンキーの表面を指先でなぞった。
「問題ないわ。この手のメーカーのオートロックには、初期解除コードがあるの。特に変更していないマンションでは、業者がそれを利用して入るのよ。昨日の下調べの際に、出入り業者が普通に開けて入っていたことを確認済みよ」
ピッピッピッ、と素早く数字を打ち込む。
カチャリ、と小気味よい電子音が鳴り、重いガラス扉が静かに自動で開いた。
高級マンションの警備は一見強固に見えるが、システムに依存しすぎている分、こういった足元の穴に気づかないことが多い。
監視カメラの死角を縫うようにして、私たちは足早に非常階段への扉を潜り抜けた。
コンクリートの無機質な匂いと、冷え切った空気が肺を満たす。
ここで段ボール箱を開けると、アカネさんが身軽な動作で外へと飛び出した。
「……ちょっとだけ、窮屈だった」
「ごめんね、ここからは足で上るわよ。作業着はここに捨てていくわ」
私とナタリーは羽織っていた宅配業者の服を素早く脱ぎ捨て、あらかじめ下に着込んでいたフォーマルな装いへと切り替えた。戦闘用ベストの上からジャケットを羽織ることで、一見しただけではこのマンションの住人や来客に見えるように偽装している。
非常階段を、一切の足音を立てずに駆け上がる。
隠密行動を取るにあたって、忍びである私とナタリーの動きには一切の無駄がない。アカネさんも魔法少女として鍛え上げた身体能力で、私たちのペースに遅れることなく続いている。
十階、十五階と順調に上っていた、その時だった。
『ユキお姉ちゃん、ストップ! 三つ上の扉から、警備員のおじさんが非常階段に入ってくるよ!』
インカムからノヴァの切迫した声が響いた。
「上には逃げられない。隠れるわよ!」
私は瞬時に判断を下し、左手のギミックを作動させた。
シュガッ! と鋭い音を立てて射出された極細のワイヤーが、階段の手すりに巻き付く。
「アカネさん、捕まって!」
私の首にアカネさんが両腕をしっかりと回したのを確認し、ワイヤーを巻き上げて一気に体を宙へと持ち上げた。非常階段の真下、完全に死角となる暗がりへと身を隠す。
ナタリーを見ると、彼女は驚異的な身体能力で階段の裏に両手両足を突っ張り、まるで自力で張り付いていた。
直後、上方の階から鉄扉が開く音と、革靴の重たい足音が反響して聞こえてきた。
カン、カン、カン……。
警備員の足音が、私たちのすぐ真下を通り過ぎる。
暗がりに溶け込んだ私たちに気づく様子はない。しばらくして再び扉が閉まる音が響いた。
「……行ったわね」
ワイヤーを解除し、音もなく着地する。
ナタリーも無言で飛び降り、ジャケットの埃を払った。
『ノヴァが先に見てきたわ。警備員が入ってきたフロアは非常階段の出入り口にカメラは無いそうよ』
ユカリさんの落ち着いた声が指示をくれる。
『でも、それより上のフロアは警備員の巡回が多く、非常階段から出入りするのは不自然だわ』
「了解。ここからは住民を装って、エレベーターを使わせてもらうわ」
私たちは鉄扉を静かに押し開き、絨毯の敷かれた豪奢な廊下へと足を踏み入れた。
慌てず、ゆったりとした足取りでエレベーターホールへと向かい、上りボタンを押す。
滑らかなモーター音と共に箱が到着し、私たちは中へと滑り込んだ。
「田中がいるのは最上階だ。だが、直通ボタンには鍵穴があるな」
ナタリーが操作盤を見て舌打ちをする。
最上階へは、専用の鍵がなければボタンを押せない仕組みになっていた。
「構わないわ。押せる一番上の階……最上階の二つ前で降りるわよ」
エレベーターが上昇していく中、静かな緊張感が、狭い箱の中に充満していく。
チン、と。
電子音が鳴り、目的の階で扉が開いた。
そこは、下の階とは比べ物にならないほど高級そうな毛の長い絨毯が敷かれている、一方通行の長い廊下だった。
足音を立てずに警戒しながら進む。
だが、廊下の中ほどまで進んだ時だった。
「ユキ、正面から誰か来ているぞ」
ナタリーの焦った声が響くとほぼ同時に、廊下の奥の曲がり角から、屈強な警備員たちが三人、姿を現した。
そして最悪なことに、私たちの背後――乗ってきたエレベーターの扉が再び開き、そこからも二人組の警備員が降りてきたのだ。
「おい、お前ら! 許可のないフロアで何をしている!」
前方の男が、腰の警棒に手をかけながら鋭い声で威嚇してくる。
完全に前と後ろを塞がれた。
隠密行動の終わり。だが、絶体絶命の挟み撃ちという状況にあっても、私たち三人の目に焦りの色は微塵もなかった。
「……もう、隠れる必要はないわね」
私は羽織っていたジャケットを脱ぎ捨て、両手に鋭いクナイを構えた。
ナタリーが獰猛な笑みを浮かべて銃を懐から出し、アカネさんの手には白い冷気が渦を巻き始める。
「邪魔する奴は排除して、一気に最上階まで駆け上がるわよ!」
私の開戦の宣言と同時に、張り詰めていた空気が弾け飛び、私たちは警備員たちに向かって地を蹴った。
***
同じ頃。
郊外にひっそりと佇む、コンクリート造りの広大な洋館。
窓の少ないその不気味な建物こそが、意志を奪われた魔女たちが囚われている『住処』だった。
洋館の門前に立つ警備員の前に、フードを被ったレイが静かに歩み寄る。
「徳頭先生から、この屋敷で待機するように指示を受けたわ。身分証はこれよ」
レイが冷ややかな声で告げると、警備員たちは一瞬顔を見合わせた。
「聞いておりません……念のために確認を取ります。しばらくお待ちください」
警備員に客間を案内されてくつろいでいると、見張りとして室内にいた警備員が慌てた声で無線でのやり取りを始めた。
『緊急事態だ! 本部の高層マンションが何者かに襲撃された! 侵入者は魔法少女を含む三名、警備部隊が交戦中! 各地の待機部隊は直ちに本部へ応援に向かえ!!』
「本部が襲撃だと!?」
警備員たちは血相を変え、レイのことなど完全に意識から飛んでしまった。
慌てふためく彼らを見ながら、レイの唇に微かな笑みが浮かぶ。
(始まったわ。次は私が覚悟を決める番ね)
「おい、お前ら半分は車を出せ! 残りは中の警戒を怠るな!」
怒号が飛び交い、警備員たちがドタバタと駆け出していく。
レイは周囲の警備が手薄になるのを確認し、静かに動き出した。
「おい、あんた。こんな時にウロウロするな。今は本部が大変な――」
警備員が咎めるように口を開きかけた瞬間、レイはすっと間合いを詰め、その男の肩にそっと右手を置いた。
ビリッ!!
「が、あ、がががががっ!?」
青白いスパークが閃き、調整された電撃が警備員の体を貫く。
男は白目を剥き、激しい痙攣を起こしながらその場に崩れ落ちた。気絶はしていないが、全身の筋肉が麻痺して身動き一つ取れない状態だ。
レイは床に倒れた男を見下ろすと、しゃがみ込んでその耳元で冷酷に囁いた。
「……もう少ししたら、口だけは動かせるようになるから」
彼女の指先で、再び青白い電流がチリチリと危険な音を立てる。
「この屋敷の見取り図と……捕まっている魔女たちの部屋はどこ? 嘘をついたら、次は脳髄まで黒焦げにするわよ」
氷のように冷たい声音。
妹を取り戻すため、雷鳴の魔女は静かに動き出した。




