私の勝手でしょ?
私はナオフミさんとジョアンナさんが仕事を終えてリビングに揃ったタイミングを見計らい、重い口を開いた。
「ナオフミさん、ジョアンナさん。……折り入って、相談があります」
ソファに深く腰掛けた二人の前に正座し、私は畳んだ膝の上に、感覚の失われた左手をそっと置いた。
隣には、固い表情を浮かべたアカネさんと、居心地悪そうに爪先を見つめるユカリさんが並んでいる。
私たちが切り出したのは、ノヴァの保護についてだった。
これから私たちが向かうのは、血と硝煙が渦巻く日本の戦場だ。
国家権力の闇そのものである、徳頭サトミチとなった田中との最終決戦。
そこに、あんなにも幼く、傷ついた少女を連れていくわけにはいかない。
「ノヴァを、ここに置いていかせてはいただけないでしょうか。 もちろん、これからの生活費や養育費は、私たちが裏仕事で稼いだお金から定期的に振り込みます。どうか……あの子を預かってほしいのです」
私の選択は綺麗事に過ぎない。
ノヴァを保護すると決めたのは私たちなのに、いざ命がけの復讐へ向かう段階になって、その面倒をナオフミさん夫婦に押し付けようとしているのだから。
私は唇を強く噛み締め、それ以上の言葉もなく地面を見つめることしかできなかった。
だが、ナオフミさんは和服の膝を正し、私を真っ直ぐに見つめてきた。
その黒い瞳には、一切の揺らぎも、誤魔化しも通用しない深い威厳が宿っている。
「……ユキ。後悔はないんだね?」
ナオフミさんの低く重い声が、リビングの静寂に響く。
私は喉の奥が乾き切るのを感じながら、その眼差しから逃げずに見つめ返した。
「はい。……さすがに現段階で、あの子を日本へ連れていくのは危険過ぎます。 あの子には、こんな泥と血の匂いがする世界ではなく、温かい光の中で生きてほしいんです」
私は畳に額がつくほど、深く、深く頭を下げた。
自分の身勝手さは百も承知だ。
それでも、サヤを奪われた私にとって、ノヴァまで死地へ連れていくことなど、絶対に出来なかった。
沈黙が室内を支配する。壁に掛けられた時計の針が刻むカチカチという音だけが、耳に痛いほど響いていた。
やがて、ナオフミさんの隣で黙っていたジョアンナさんが、ふっと息を吐き出し、温かい笑みを漏らした。
「もう、大袈裟なんだから。 いいのよ、ユキ。ノヴァちゃんのことは私たちに任せなさい」
「ジョアンナさん……」
「納得いくまで頑張りなさい。 ……でもね、諦めるのも勇気よ。私たちはいつでも、ここであなたたちを歓迎するわ」
ナオフミさんも静かに頷き、膝の上に置いた大きな手を握りしめた。
「俺が教えられた技は、ほんの僅かだ。だが、お前たちは強くなった。 ……命を無駄にするなよ」
二人からの温かすぎる言葉を受け、私の視界が急激に滲んでいった。
怒涛のように押し寄せる感謝と申し訳なさで、もうそれ以上言葉を紡ぐことができなくなる。
私はただ唇をぎゅっと噛み締め、何度も、何度も頭を下げ続けることしか出来なかった。
* * *
当のノヴァは、私たちの決定に納得していなかった。
事情を察したのか。 ノヴァはあの話をした夜から急に塞ぎ込み、部屋からほとんど出てこなくなってしまった。
「ノヴァ、ご飯。大好きなベイクド・パスタ、ジョアンナさんが作ってくれた」
アカネさんが優しくドアをノックし、トレーに乗せた熱々のパスタを運んでいっても、ノヴァはベッドの上で膝を抱えたまま、碌に返事すらしてくれない。
皿から立ち上る甘辛いトマトとチーズの焦げた匂い。
普段なら目を輝かせて飛びついてくるはずの大好物を前にしても、ノヴァの瞳には深い影が落ちたままで、心ここに非ずといった様子だった。
フォークを小さく動かし、数口だけ喉に流し込むと、すぐに「ごちそうさま」と小さく呟いて掛け布団を頭まで被ってしまう。
ナオフミさんからあてがわれたその部屋は、今やノヴァの一人部屋のようになっていた。
私とアカネさん、ユカリさんは、ノヴァに気を使い、寝るときだけ静かにノックをして部屋に入らせてもらう日々を送った。
暗闇の中、規則正しいノヴァの寝息を聞きながら、私は天井を見つめる。
(私たちが日本へ帰ると、ここはノヴァの本当の部屋になるのだろう)
彼女がアメリカの市民権を得て、学校に通い、友達を作り、当たり前の幸せを手に入れる。
そのためなら、今どれだけ嫌われようと構わない。
私はそう自分に言い聞かせ、強く目を閉じたのだった。
* * *
そして、とうとう私たちの準備が整い、アメリカを出国する日がやってきた。
指名手配されている私たちが正規の空港を使えるはずもなく、帰国手段は裏社会の密輸ルートだ。日本行きの大型フェリーの船長に、ユカリさんが積み上げてきた裏金を渡して、極秘裏に客室へ乗り込ませてもらう手はずになっている。
朝の冷たい風が吹き抜ける見送りの船着き場。
潮の臭いと、ディーゼルエンジンの重厚な排気音の匂いが立ち込める港に、ナオフミさん夫婦は仕事を休み、見送りに駆けつけてくれていた。
「ユカリ! ユキ! アカネ! あなた達に幸運の女神が宿りますように。……でも寂しいわ。 絶対に、絶対に帰って来なさい!」
ジョアンナさんは涙ぐみながら、私たち三人を抱きしめてくれた。 その胸の温もりが、冷え切った身体に心地よく染み渡る。
ナオフミさんは黒いコートのポケットに手を突っ込んだまま、静かな眼差しで私たちを見つめていた。
「ユキ、そしてアカネ。 俺が教えた期間は短く、完全な技術は伝えきれていない。 俺は国を見限って逃げた忍びだ。 ……お前たちにも逃げろとは言わないが、命は何よりも大事だ。 ……すまんが、ナタリーを頼む」
とうのナタリーは離れたところで、顔を真っ赤にしながら、聞いていないフリをしていた。
ナオフミさんの言葉に、私は深く頷いた。
二人の激励を受けながら、私は胸の奥が熱くなるのを覚える。
血の繋がりもない異国の地。だが、ここは間違いなく私にとって第二の故郷だった。
両親が死んでから久しく忘れていた「家族団欒」の温もりを思い出させてくれた二人には、感謝してもしきれない。
けれど、私がこの幸福感に包まれれば包まれるほど、暗闇の中で囚われている妹・サヤの泣き顔が頭をよぎってしまうのだ。
(サヤ……待ってて。 お姉ちゃんは、もうすぐ行くから)
私は最後になるかもしれない心からの感謝を、目の前の二人へ真剣に伝えた。
「ナオフミさん! ジョアンナさん! 二人のおかげで、私たちは前に進む力を得ました。 ……今度は、妹を連れて遊びに来ます!」
「ナオフミ……さん、ジョアンナさん。お世話になりました。ノヴァのこと……どうかよろしくお願いします」
アカネさんも、隣で深く頭を下げて感謝を言葉にした。
ユカリさんはといえば、昨日までに散々二人と抱き合い、言葉を交わしていた。
「じゃあね!」
短く、けれど万言を費やす以上の信頼を込めて手を振ってみせた。
それだけで心が通じ合うほどの強い絆が、この数ヶ月で私たちと二人の間に築かれていたのだ。
私たちは意を決し、遠くのタラップで腕を組んで待っている船長の元へと歩き出した。
その時だった。
「待って!!!!!」
腹の底から絞り出したような、甲高い少女の絶叫が、静かな港の空気を突き破った。
船の乗組員や、周囲の作業員が一斉に振り向くほどの声量。
ドタバタと荒い足音を響かせて走ってくる影に、私の心臓がドクンと跳ね上がった。
ノヴァだった。
肩を激しく上下させ、額に汗を滲ませながら、彼女はこちらへ向かって猛ダッシュしてくる。
その背中には、昨日まで持っていなかったはずの、自分の背丈ほどもある大きめのリュックサックが背負われていた。
(一人での外出は絶対にダメだって、あれほど言っておいたのに……買いに行ってきたんだ)
「私も乗る! お金もギリギリ足りる!」
ノヴァは荒い息を吐きながら、ポケットからクシャクシャになったドル紙幣の束を引っ張り出し、掲げてみせた。
それは、私がリベリアで彼女を連れ去る前に渡したドル札だった。ずっと、大切に抱え込んでいたのだ。
息を切らし、必死の形相で駆けつけてきたノヴァ。
だが、私の決意は微塵も揺るがなかった。
「ノヴァ、ゴメンね。 本当にゴメン! でも……正直に言って、ノヴァが日本に来ても足手まといなの!」
胸を刺すような罪悪感に苛まれながらも、私は冷酷な言葉を言い放った。
甘い顔をしてはいけない。
かつて自分の無力さから道を間違え、サヤを救えなかったあの日々の後悔が、私に冷徹になれと叫んでいた。
だが、ノヴァの決心もまた、固く研ぎ澄まされていたのだ。
「別行動しよう! 私が妹さんと敵の居場所を必ず感知する! それを伝えてみせる! だから……だから!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に食い下がるノヴァ。
その瞬間、隣にいたアカネさんが衝動的に走り出し、ノヴァの小さな体を正面から強く抱きしめた。
「ノヴァ……」
アカネさんのその行動に、私の決意までグラグラと揺らぎそうになる。
ダメだ、ここで流されてはいけない!
「ノヴァ! 言う事を聞いて!」
思わず怒鳴るような強い声を出して、ノヴァを諦めさせようとする。
だって……これ以上、妹が、家族が奪われるなんて、私の心はもう耐え切れなかった。
ノヴァまで戦場へ連れて行き、もしものことがあったら、私は一生自分を許せない。
ポロポロと大きな涙の粒がノヴァの瞳から溢れ出し、冷たいアスファルトの上へポトリ、ポトリと落ちて黒い染みを作っていく。
「私の両親が死んだときに……一人で生きる決心はできていたの!」
ノヴァの大声が、潮風を切り裂いて辺りに響き渡った。
「でも……二人の姉が死ぬ決心はできていないの! 絶対にイヤ!!」
ノヴァは抱きしめてくるアカネさんの背中に小さな手を回し、しがみついて離さない。
絶対に離れるものかという強い拒絶の意志が、その小さな全身から伝わってきた。
『二人の姉』。
その言葉が、私の胸を激しい衝撃で穿った。
ノヴァにとって、私たちはただの命の恩人ではなく、かけがえのない「家族」になっていたのだ。
呆然とする私たちの背後から、パン! と力強く手を叩く音が響いた。
「オオ!…… アカネ、ユキ! あなたたちはノヴァを助けたつもりなら、途中で投げ出さないで最後まで面倒を見なさい! 良いわね? 二人そろって、絶対にノヴァを私の元に連れ帰ってきなさい!」
腕を組み、立ちふさがるように叫んだのはジョアンナさんだった。 その瞳には、すべてを見透かしたような力強さが宿っている。
ジョアンナさんの言葉が、私の心の中にストンと落ちた。
(そうか……私は、どこかで諦めていたんだ)
田中を殺す。相打ちになってでも、両親の仇を討つ。
そんな捨て身の覚悟で日本へ戻ろうとしていた自分の甘さに、ハッとさせられた。
死ぬつもりで戦うから、ノヴァを連れていけないのだ。
生きて戻る覚悟がないから、残される者の恐怖から逃げようとしていたのだ。
それではダメだ。
私たちは、生きて戻らなければならない。サヤを助け出し、全員で生きて、この温かい第二の故郷へ帰ってこなければいけないのだから。
私は深く息を吸い込み、冷たい海風を肺いっぱいに満たした。高ぶっていた心が、嘘のように静まっていく。
「ノヴァ……分かったよ」
私は歩み寄り、ノヴァとアカネさんの肩にそっと手を置いた。
「お姉ちゃんたちは、絶対に死なない。 それに、誰も死なせない。 ノヴァ、あなたがいることで私たちが無茶をしなくなるなら……ノヴァを受け入れるわ」
これから立ち向かう田中との因縁に、ようやく決着をつけられると昂ぶっていた私には、気の利いた甘い言葉なんて言えなかった。
けれど、私の本心からの誓いを聞いて、ノヴァの顔が一気に崩れた。
「ありがとう……わぁぁーん!」
ノヴァは我慢していた感情を爆発させるように声を上げて泣き出し、アカネさんが「よしよし」と不器用な手つきでその体を抱き上げる。
遠くで見守っていたフェリーの船長が、「やれやれ、お涙頂戴か?」と訝しんだ顔で溜息を吐いたが、ユカリさんが素早く追加の札束をポケットにねじ込むと、何も言わずにタラップを指差して受け入れてくれた。
タラップを登り切り、甲板の手すりに身を乗り出す。
遠ざかる港の岸壁で、ナオフミさんとジョアンナさんが大きく手を振っているのが見えた。
「ナオフミさん! ジョアンナさん! 本当にありがとう! 私たちは、死ぬつもりはありません!」
叫び声に合わせるように、日本行きの大型フェリーがゴオォォンと重厚な汽笛を鳴らし、音を立ててゆっくりと出港した。
スクリューが黒い海を白く泡立て、アメリカの街並みが少しずつ小さくなっていく。
復讐の旅路の、第二幕の終わり。
そして、すべてを奪った元凶との、命をかけた最終決戦へのカウントダウンが今、静かに始まった。
(エピソード2 完)
活動報告にエピソード2の『あとがき』を書かせていただいております。
今後の予定や、ちょっとした裏話が載っておりますので、もしお時間のある方はご確認ください。




