組織の終焉(中編)
時刻は午前十時三十分。
高級住宅街に、ジリジリと肌を焼くような強烈な日差しが降り注いでいた。
雲一つない青空の下、美しく手入れされたヤシの木が風に揺れ、スプリンクラーが青々とした芝生に水を撒く規則的な音だけが、のどかな午前中の空気に溶け込んでいる。
私は、その一角にそびえ立つ白亜の豪邸――自然保護を騙り、裏で密猟ビジネスと人身売買に手を染めている環境保護団体CEOの邸宅――を、百メートルほど離れた路地裏の車内から双眼鏡で監視していた。
車内にはエアコンが効いているはずなのに、私の掌にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
日本へ帰国し、私たちのすべてを奪った元凶である田中ヒトシとの最終決戦に挑む前の、いわば『ウォーミングアップ』であり、ノヴァを見捨てた悪党どもへの『八つ当たり』。
だが、白昼堂々の邸宅強襲となれば、どれほど綿密に計画を立てても不確定要素はついて回る。
「……準備完了だ。 指揮官を働かせすぎだがな」
ドアが開き、金糸のようなプラチナブロンドの髪を無造作に束ねながらナタリーが、ふっと鼻で笑いながらシートに深く腰を下ろした。
彼女はつい先ほどまで、CEO邸の周囲を警戒に歩き回りながら、偽装工作を行っていた。
それは、リベリアなど西アフリカの裏社会で非常に安価に、かつ大量に出回っている粗悪なタバコの銘柄の吸い殻を、邸宅の周辺に意図的に放置して回ることである。
「これで、警察やFBIが捜査に乗り出したとしても、第一容疑者は『アフリカの密猟シンジケートによる報復』になるわね」
私が確認するように言うと、ナタリーはハンドルの上に足を乗せながら頷いた。
「ああ。 あいつらが裏でやっていたリベリアでの密猟ビジネスの利権争いが拗れ、現地のギャングがアメリカ本土までヒットマンを送り込んできた……というシナリオだ。 わざわざ極東から来た忍びの生き残りと、元軍人の娘が手を組んでカチ込んだなんて、誰も想像すらしないだろうさ」
他にもナタリー手製の爆弾の起爆装置として、アメリカの既製品のタイマーではなく、少年兵や民兵がよくやるように、古いジャンク品の携帯電話のバイブレーション機能を利用し、発破用雷管へと導線を繋いでいる。
外から電話をかけて、着信の電気信号で起動する仕組みだ。
もちろんSIMカードも足が付かないようにアフリカ製だ。
また、アフリカの密猟者や民兵が、銃弾よけや幸運の儀式として身につける『ジュジュ(Juju)』と呼ばれる、革の紐で縛られた小さな動物の骨や乾燥した植物の根が入った、親指サイズのお守り袋も準備していた。
軍の特殊部隊で培われたナタリーの工作技術は完璧だった。
私たちが帰国した後、アメリカの警察組織がナオフミさんたちを追及するリスクを極限まで減らすための、念には念を入れた布石。
私は、彼女の冷徹なまでのプロフェッショナリズムに、改めて頼もしさを感じる。
そして、時計の針が十一時を十分過ぎたころ。
私の耳に装着されたインカムから、待ちわびていたユカリさんの声が響いた。
『ユキちゃん、ナタリー。 ノヴァちゃんが、向こうの様子を見てくれたわよ』
ノヴァの持つ『千里眼』の魔法が、今や私たちの作戦における最強の目となっている。
安全な部屋に居ながらにして、彼女はCEO邸宅の内部と、環境保護団体本社の状況を完璧に把握していた。
『どちらも想定通りの反応だったわ。 本社の方はようやくIT部門が動き出したところよ。 CEOはまだ邸宅にいて、本社から報告を受けてパニックになっているみたいね』
「了解。 作戦を決行する!」
私が口を開くよりも早く、隣に座るナタリーがインカムに向かって力強く返事をした。
その迷いのない冷徹な声は、まさに戦場を支配する指揮官のそれだった。
「よし、ユキ。 いくぞ」
ナタリーは車のエンジンを切り、メンテナンスをしていた愛銃であるスターム・ルガーSP101を腰のホルスターに滑り込ませた。
ノヴァから得た情報によれば、現在CEO邸宅を護衛している私兵は十人。
当初の作戦では、私とナタリーの二人で邸宅の外周に設置された監視カメラを破壊し、邸宅内へ二手に分かれて侵入。
分担して無力化し、通報されるまでの十分間でCEOの首を獲り、撤退する手はずになっていた。
私も、左手を失ったとはいえ、鋼糸を駆使した新しい暗殺術で音もなく処理する自信があった。
だが、車を降りて邸宅の敷地を囲む高い石壁の裏側へ身を潜めた瞬間、ナタリーは思わぬ言葉を口にした。
「なあ、ユキ。……ここは私一人に任せてくれないか?」
「え……?」
私は咄嗟に、自分の耳を疑った。
事前にユカリさんも交えて綿密に練り上げていたプランだ。それが直前になって変更されることに、私の本能が強烈な拒否反応を示した。
「ダメよ! 何を言ってるの、時間もかけられないから二人で分担して突入するって話していたじゃない! 相手は重武装のプロが十人よ。 一人で正面から行くなんてリスクが高すぎるわ!」
私が声を潜めながらも強く反発すると、ナタリーは極めて冷静な瞳で私を見下ろした。
「ああ、それは分かっていて一度は納得したさ。 だが、直前の警備配置と、実際にこの建物の外周や庭の構造を目で見た結果……二人で連携を取りながら動くより、私一人で殲滅した方が『早い』と判断した」
「一人の方が早い……?」
「そうだ。 連携には必ず確認とラグが生じる。 今の配置なら、私の足と銃で簡単に処理できる。……それに」
ナタリーは、真剣な顔をして私の目を見て強く言い切った。
「今後のためにも、お前は私の戦い方を目にしておいた方が良い。 日本に帰る前に私の本気を見なければ、今後の『本番』で連携に無駄が生じる」
その言葉は、私の胸の奥に深く、重く突き刺さった。
ナタリーの言う通りだ。
彼女がアメリカ軍の特殊部隊で培ったCQCと、父・ナオフミさんから叩き込まれた忍びの体術を融合させた独自の戦闘スタイル。
それを実戦の中で間近に観察できる機会など、そうあるものではない。
今後を考えると、この機会は絶好のチャンスだった。
それに、彼女の瞳には微塵の慢心もなかった。
プロフェッショナルとして、冷徹に状況を計算した上での『自分がやった方が確実』という揺るぎない自信が見えた。
「……時間がかかり過ぎだと判断したら、私もすぐに出るわよ。 それでいいなら」
私が折れる形で頷くと、ナタリーは「上等だ」と唇の端を吊り上げ、凶悪で美しい笑みを深めた。
「準備をしてくる。 二十分だけここで待機してろ」
それだけを言い残し、ナタリーは音もなく石壁の向こう側へと姿を消した。
私と同じく、完全に気配を遮断するその動きに、私は改めて彼女の底知れぬ実力を感じていた。
太陽がじりじりとアスファルトを焦がす中、私は一人、石壁の影で息を潜めた。
五分、十分と時間が過ぎていく。
邸宅の方からは、怒号も、発砲音も、悲鳴すら聞こえてこない。
ただ、遠くで走る車の音と、乾いた風の音だけが耳に届く。
(本当に何も起きていないの? それとも、もう失敗して……いや、彼女に限ってそれはない)
二十分という時間は、戦場においては永遠にも等しく感じられた。
掌に汗が滲み、限界まで神経を尖らせていた、その時だった。
「よし! いくぞ!」
背後から唐突に声がかけられ、私はビクッと肩を震わせた。
いつの間にか私の真後ろに戻ってきていたナタリーが、息一つ乱さずに立っていた。
「遅い。 行くぞ」
「え、あ、うん……!」
私はナタリーの背中を追い、正門の裏側から、広大な邸宅の庭へと音もなく侵入した。
美しく刈り込まれた芝生と、色鮮やかな花壇。
そんな優雅な景色の中を、重武装した私兵たちが殺気立って巡回しているはずだ。
庭の物陰に身を隠した瞬間、ナタリーは懐からスマートフォンを取り出し、どこかへ向けて電話をかけた。
――ボンッ!!
突如、邸宅の裏手から、小規模な爆発音が響き渡った。
手製の爆弾に着火させたのだろう。
電子レンジ内で料理が爆発した程度の音と聞いていたが、私には想像よりは大きな音が住宅街に響いた。
「今のは配線板の爆破だ。これで邸宅のセキュリティシステムは殆どダウンした筈だ。 正面から堂々と入れるが……念のために邸宅内部の監視カメラは潰すぞ」
ナタリーは平然と言い放った。
私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
(白昼堂々の高級住宅街で爆発音!? 野次馬や警察が飛んでくるんじゃ……!)
私がハラハラして周囲を窺うが、幸か不幸か、このエリアの豪邸は敷地が広大すぎる上に、高い防音壁と豊かな植栽に囲まれているため、近隣住民がすぐに異常を察知して集まってくる気配はなかった。
ナタリーは私の焦りなど意に介さず、ノヴァが事前に透視で発見してくれていた監視カメラの死角へと正確に移動した。
懐から小さな手鏡を取り出し、壁の向こう側を瞬時に把握する。
そして、ホルスターから愛銃を引き抜くや否や、鏡越しに狙いを定め、壁から一瞬だけ銃口を突き出して引き金を引いた。
パンッ!
乾いた発砲音と共に、十メートル以上離れた監視カメラのレンズが正確に粉砕され、火花を散らして機能停止した。
「クリア。 行くぞ」
流れるような動作で銃を構えたまま、ナタリーは邸宅の正面玄関が見える植え込みの陰へと滑り込んだ。 私もその後に続く。
正面玄関の扉の前には、自動小銃で武装した屈強な私兵が五名、庭に散らばっていた筈だが、爆発音に伴い完全に固まって警戒態勢を取っていた。
残りの五名は邸宅の中にいるはずだ。
「五人も固まっているわよ。どうするの?」
私が極小の声で囁くと、ナタリーは再びスマートフォンを操作し、別の番号へ発信した。
――ボンッ!!
今度は、私たちが隠れている角とは全く逆方向、庭の東側に置かれた巨大なプランターの裏で爆発が起きた。
プランターが割れる音も重なり、先ほどの配線板の爆破よりも一回り大きい音がした。
「なんだ!? 東側だ、確認しろ!」
私兵のリーダー格が怒号を上げ、五名のうち二名が銃を構えたまま、爆発音のした方へと足早に向かっていった。
玄関前に残されたのは、警戒を強めて周囲をギョロギョロと見回す三名。
その、敵の意識が完全に東の爆発へと向けられたコンマ数秒の『一瞬の隙』。
ナタリーの姿はすでに私の隣から消えていた。
音もなく壁を蹴り、蜘蛛のように垂直の壁を二歩、三歩と駆け上がり、正面玄関の巨大な庇の真上へと到達していたのだ。
そして、まるで重力という概念が存在しないかのように、音もなく最後尾で警戒していたリーダー格の真後ろへと落下した。
ゴキッ。
鈍く、そしてひどく乾いた音が響いた。
着地した瞬間、ナタリーは一切の躊躇なく男の口を左手で塞ぎ、右手で首の骨を捻り折っていた。
男が悲鳴を上げる間も、倒れる音を立てる間すら与えない。
瞬きする間もない神速の暗殺。
だが、彼女の『軍隊格闘術と忍術の融合』の真髄は、ここからだった。
首を折られた男の体が崩れ落ちる前に、ナタリーは自身の体を男の背中に隠れるように半身になり、右手のスターム・ルガーSP101を男の脇下から突き出した。
パンッ!
正面で警戒していた二人目の男の心臓を、正確無比に撃ち抜く。
「がっ……!?」と二人目の男が胸を押さえて崩れ落ちたことで、ようやく最後の一人が背後の異常に気づき、自動小銃を振り向けようとした。
だが、遅い。
ナタリーは、首の骨を折ってまだ立っていた最初の男の背中を力強く蹴り飛ばし、最後の一人に向かって肉の盾として覆い被せたのだ。
「うおっ!?」
死体が覆い被さってきたことで、最後の一人は銃の狙いが逸れ、バランスを崩す。
その一瞬の死角を突き、ナタリーは床を滑るように前進し、男の下顎を真下から銃身でカチ上げた。
パンッ!
脳天を撃ち抜かれ、三人目の男が崩れ落ちる。
わずか数秒。
私が瞬きを二度する間に、重武装した三人のプロフェッショナルが、完全に無力化されていたのだ。
(……すごい。動きに一切の『淀み』がない)
忍びの隠密性と体術で敵の死角を取り、銃火器による瞬間的な破壊力を組み合わせる。
これは、魔法のような理不尽ではない。極限まで合理性を追求し、人間の身体能力を殺人という目的のためだけに最適化した、恐るべき『暴力の芸術』だった。
だが、感嘆している暇はなかった。
東側の爆発を確認しに行っていた二名の私兵が、玄関での異変に気づき、慌てて戻ってきたのだ。
「おい! 何があった!」
自動小銃を構えた二名が正面玄関へ引き返ってきた。
しかし、そこにはすでにナタリーの姿はない。
ナタリーは、三人を片付けた直後、玄関横の壁の目地に私のものと同型のクナイを深く差し込み、それを足場にして常人離れした跳躍を行っていた。
彼女は今、二階の窓の装飾用手すりに片手でぶら下がり、空中に浮いていたのだ。
ナタリーはぶら下がっていた手を自ら離し、重力を最大限に利用して自由落下した。
ガツンッ!!!
落下と同時に、真下にいた敵の脳天へ向けて、スターム・ルガーの硬く重い銃底を全力で叩きつける。
頭蓋骨が陥没する鈍い音と共に、男が泡を吹いて倒れ込む。
そして、叩きつけたと全く同時に、ナタリーは空いている左手をスターム・ルガーに被せて照準を操作し、隣で硬直していたもう一人のこめかみに狙いを定めていた。
パンッ!
最後の一人が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
流れるような動作で、ナタリーは倒れた男から自動小銃を拾い上げ、残弾を確認して安全装置を外す。
そして、正面玄関に向かわずに、一階の窓から躊躇なく邸宅の内部へと飛び込んでいった。
ダダダダダダダッ!!!
邸宅の奥から、くぐもった自動小銃の連射音が途切れ途切れに聞こえてくる。
悲鳴すら上がらない。 ただ、一方的な制圧の音だけが、白亜の豪邸の静寂を切り裂いていた。
私は物陰から飛び出し、玄関へと駆け寄る。
私が中の様子を伺おうとしたちょうどその時、薄暗い廊下の奥から、自動小銃を肩に担いだナタリーがひょっこりと顔を出した。
「慌てて正面玄関に向かっていた三名も無力化した。 残りは、二階のCEOの部屋の前にいるであろう二名だけだ」
その声には、高揚感も焦りも、人を殺めたことに対する忌避感も一切含まれていない。
彼女の表情はどこまでも冷静で、ただ与えられた任務を機械的に遂行する、冷徹な『軍人』の顔だった。
「……信じられない。これが、あなたの戦い方……」
私が息を呑んで呟くと、ナタリーは自動小銃を捨て、素早く愛銃に弾を込めながら口角を少しだけ上げた。
「盗めるものはあったか? だが、重火器や爆発物も利用する忍び。 お前にはできないだろう?」
彼女はニヒルな笑顔で、二階へと続く大階段を顎でしゃくった。
「最初の爆発から三分は経過した。 撤退まで残り七分。 後は二人でケリを付けるぞ」
私は、自分の左手の鉄鋼手袋をギュッと握りしめた。
ナタリーが見せてくれた、圧倒的なまでの合理性と決断力。
今ある手札をどう組み合わせて敵を殺すか。
その答えの一端を、彼女は身をもって示して見せた。
「ええ。……でも指揮官が先陣を切るのはいただけないわ」
私は皮肉を言って、右手にクナイを構え、ナタリーを追い越して二階への階段を音もなく駆け上がっていった。
CEOの首はすぐそこにある。 私たちの痛烈な八つ当たりが、今まさに完遂されようとしていた。




