組織の終焉(前編)
凍てつくような深夜の風が、高層ビル群の隙間を吹き抜けていく。
背後には、環境保護団体の本社ビルが、まるで夜の闇にそびえ立つ巨大な墓標のように佇んでいた。
遠くでけたたましく鳴り響くパトカーのサイレンを背に、私は薄暗い裏路地を音もなく駆け抜けていた。
足取りは重く、蓄積した疲労のせいか僅かに足元がよろめく。
冷たいコンクリートの壁に背中を預け、乱れた呼吸を整えた。
しばらく息を潜めていると、路地の入り口に、ヘッドライトを消した一台の真っ黒な車が音もなく滑り込んできた。
私は周囲に追手がないことを確認し、素早く後部座席に乗り込んだ。
バックミラー越しに、プラチナブロンドの髪を無造作に束ねたナタリーが声をかけてきた。
「よくやったな。 ミッションコンプリートだ! 疲れたろ? 家に着くまで少し眠っていろ」
ぶっきらぼうだが確かな労いの言葉が降ってくる。
「……ありがとう」
私は素直にナタリーにお礼を言い、疲労困憊の身体を深くシートに沈み込ませた。
車の心地よい振動と、安全な空間。
張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、私の意識は深い泥の底へと沈んでいった。
* * *
ビクッ!
不意に、自らの身体に触れられた感触があり、私はバネのように跳ね起きた。
目に映るのは、車のドアを開けて私を覗き込むナタリーの顔だった。
「ん? 家に着いたがまだ寝ていろ」
いつの間にか、車はナオフミさんの家のガレージに到着していたらしい。
エンジンはすでに切られており、静寂が広がっている。
私は疲労と眠気の余韻に包まれ、その優しい言葉に甘えてもう一度目を閉じようとした。
ところが、次の瞬間、私の身体がフワリと浮き上がる感覚に襲われたのだ。
「ちょっ……えっ!?」
驚いて目を見開いた時には、私はナタリーの腕の中にすっぽりと収まっていた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
軍隊で鍛え上げられた彼女の腕力は凄まじく、私の体重などまるで羽毛のように扱っている。
「降ろして!」
私は顔から火が出るほどの恥ずかしさに襲われ、ジタバタと足をバタつかせた。
「問題ない!」
(問題があるか判断するのはこちらよ!)
心の中で激しくツッコミを入れながら、身体を捻って脱出を試みる。
だが、ナタリーは私の重心の移動を完璧に読んでいるのか、どう動いても絶妙なバランスでホールドされ、全く逃げ出すことができない。
ナオフミさんから教わったのであろう技術を、こんな恥ずかしい場面で発揮されているのだから堪ったものではない。
「暴れると落ちるぞ。大人しく運ばれていろ」
有無を言わさぬ軍人特有の圧に押され、私は結局、抱き上げられたままガレージから家の中へと連行される羽目になった。
リビングを抜け、私たちが割り当てられている部屋に入った。
「……ユキちゃん、お疲れ様。 その、仲良くなれたのね」
ユカリさんが、私とナタリーの姿を見て目を丸くし、どこか微笑ましそうに労ってくれた。
部屋の中央にあるベッドに、ようやく私の身体が下ろされる。
スプリングが微かに沈み込む感覚に、思わず深い安堵の溜息が漏れた。
「ユキはこのままゆっくり休み、明日に備えるように! 私ももう寝る」
ナタリーは上機嫌に言い放つ。
「はっはっはっ、明日が楽しみだ!」
彼女は豪快に笑いながら自室へと戻って行った。
「えっと、ユキちゃん。デバイスを渡して? 後は上手くやっておくから。 ユキちゃんは明日も仕事があるんだから、本当に寝なさいね」
ユカリさんが、手を差し出してきた。
私はポケットから、本社ビルで抜き取ってきたデータが詰まった機器を手渡す。
これで、必要な準備が整った。
ふと視線を部屋の隅に向けると、冷たい空気がどんよりと滞留している場所があった。
アカネさんが、壁に背を付けて膝を抱え、一人むくれていたのだ。
彼女の周囲だけ、微かに霜が降りているように見え、不満げに私を睨んでいる。
「ユキ、明日は私が代わりに行ってもいい」
ポツリと、抗議の声が投げかけられた。
明日は、環境保護団体のCEOの自宅に突撃する手筈になっている。
だが、必須条件として、今後調査に乗り出すであろうアメリカ政府に、私たちの存在を気づかれる訳にはいかない。
よって明日の襲撃は、裏取引のルートを奪われたリベリアのマフィアからの反撃として、プロのヒットマンに襲われたように見せかける必要がある。
銃火器の扱いに長けたナタリーと、私の組み合わせこそが、偽装工作において最も適任なのだ。
空間を凍らせるような派手な魔法を使ってしまえば、「マフィアの仕業」という偽装が成り立たなくなるばかりか、日本の政府にまでも魔法少女の存在を察知されてしまうだろう。
アカネさんには事前にお留守番だと話して納得してもらっていたはずだった。
だが、潜入任務にも明日の任務にも全く関われないことが、彼女にとってひどく悔しいらしい。
私はベッドから身を起こし、アカネさんの目の前まで歩み寄った。
そして、彼女の冷たい両手を自分の手で優しく包み込み、真剣な顔をしてその瞳に訴えかける。
「アカネさん。 何かあった時に、ノヴァとユカリさんを守ってね。 頼りにしているから」
私が心からの信頼を言葉に乗せると、アカネさんの瞳が僅かに揺れた。
彼女は目を閉じ、時計の針が進む音だけが響く中、ゆっくりと考え込んでいる。
彼女の中で、魔法少女として戦いたいというプライドと、バディとしての理性が激しく葛藤しているのだろう。
やがて目を開けた時には、不満げだった顔はスッと落ち着きを取り戻し、いつもの涼やかな表情に戻ってくれた。
「……分かっている。 私の魔法だと、偽装ができない」
「ごめんね。 アカネさん……」
「ん。 もう寝るといい。 明日の作戦開始までそんなに時間はない。 私が全員を守るから、今は熟睡して」
アカネさんの言葉には、絶対的な誓いが込められていた。
彼女が守ってくれるなら、私は何一つ憂うことなく背中を任せられる。
私は皆が勧めてくれた通り、ベッドに横たわり、そのままゆっくりと目を閉じた。
私は久しぶりに、深く安らかな睡眠の底へと落ちていった。
* * *
「起床しろ!!」
鼓膜を突き破るような大きな声で、私はガバッと跳ね起きた。
時計を見ると、時刻は朝の9時。部屋のドアの前に仁王立ちしているのは、すでに黒いタクティカルベストを着込み、完全武装を終えているナタリーだ。
軍人だった頃の癖が全く抜けていないのか、カッチリキッチリ動く彼女のペースに、私は時々ついていけなくなる。
熱いシャワーを浴びて目を覚まし、軽く朝食を取った。
時刻は、すでに環境保護団体の本社で勤務が始まっている時間。
彼らは自社のシステムに致命的な爆弾が眠っていることすら、まだ気づいていないだろう。
辺りを見回すと、ユカリさんの姿がなかった。
念のためにフリーWi-Fiが使える遠方のカフェなどからVPNを経由し、秘匿性の高い匿名リークサイトを使ってデータを流すと言っていたので、今頃は外でその作業に没頭しているはずだ。
ユカリさんが真っ先にIRS(国税庁)に流すのは、昨夜私が盗み出した決定的な裏帳簿である。
彼らは環境保護活動を行うNPO(非営利法人)を騙っているため、『脱税』が最大の弱点になり得る。
裏帳簿によって、『保護活動とは別に、押収した密猟品を裏ルートでマフィアに横流しし、役員が不正に利益を得ていた証拠』が完璧に証明されるのだ。
これほどの爆弾となれば、国税局も即時に動いてくれるだろう。
また、事前に予告して貰った通り、独立系のジャーナリストや、巨大資本に属さない調査報道メディアの窓口にも、様々な機密情報を送付する手筈になっている。
『密猟者を捕獲・拷問した報告書』や、『海外で独自に持っている軍事組織の訓練の映像』など、目を覆いたくなるような非道の数々だ。
表向きは地球の自然を守る高潔な組織を装いながら、裏では暴力と金に塗れたマフィアと同等の悪事を働いていた事実。
匿名掲示板にも要約したデータを流すことで、ネット上からも一気に火をつける。
義憤に駆られた民衆の怒りは、最も早く、残酷に組織を焼き尽くす炎となるはずだ。
これで、たとえ現職の司法高官や政治家への贈賄を行って癒着していたとしても、誰も彼らを庇いきれず、自身を守るために身を引くだろう。
私は装備の最終確認をしながら、リビングにいる皆に声を掛けた。
「忍び込んでいた時に残ってしまったデータもろとも、彼らの業務に必要な情報がランサムウェアで利用不可となるのは11時よ。 私とナタリーは11時前からCEOの自宅付近で待機しているから、上手くいったか報告をお願いね」
「うん。 分かったよ!」
ソファに座っていたノヴァが、元気よく声を上げてくれた。
彼女は一度目を閉じ、目を開けた後は空間の遠く先を見つめるような仕草を見せる。
今朝もすでに、標的であるCEOが自宅の豪邸に引きこもっていることを、彼女の千里眼が完璧に感知してくれているのだ。
ノヴァの能力があれば、敵の待ち伏せもトラップも事前にすべて看破できる。
暗殺や強襲において、これほど恐ろしいアドバンテージはない。
……誰にも気づかれずに相手の情報を手に入れられるなんて、本当にとんでもない力だと思う。
私はマガジンの装填を確認しているナタリーと力強く目を合わせる。
今日が、アメリカでの最後の仕事だ。
これを終わらせれば、私たちはいよいよ日本へと帰還する。
私たちは確実に力をつけ、敵の足元を崩すための準備を整えてきたのだ。
全てを狂わせた田中ヒトシの首を狩るための、長く苦しかった逃亡と準備の期間が、今、終わりを告げようとしている。
私は決意を込めて、ナタリーと共に決戦の地であるCEOの豪邸へ向かうべく、朝の眩しい光の中へと足を踏み出した。




