極寒の三分間は忍びの盤上
冷気によって指先の感覚が失われ、体の芯まで冷え切ってきた頃。
私は叫び出したい衝動を必死に抑え込み、消え入るような声でインカム越しに状況を伝えた。
「ユカリさん! こっちの物理コピーは今終わったわよ! ……もう二十分は経っているわ。 そっちの転送はどうなってるの!?」
通信の向こうから、ユカリさんのひどく焦った声が返ってくる。
『ユキちゃん、ゴメンね……! そのサーバールーム、騒音防止のために壁に特殊な鉛が入ってるみたい。 電波状況が最悪で、転送がひどく遅延してるの! 一緒に中継用のブースターも持たせるべきだった……完全に私のミスだわ!』
「謝っている暇はないわ、あと何分で終わるの!」
『あと三分! お願い、あと三分だけ待って!』
三分。
普段なら瞬きをする間に過ぎ去るような時間だが、敵地のど真ん中で身を隠す今の私にとっては、永遠にも等しい長さに感じられた。
私はUSBメモリを抜き取りポーチに収めると、一度撤退することを視野に入れ、入り口の分厚い扉に耳をピタリと押し当てた。
冷気で震える身体と、焦りで早鐘を打つ心臓を無理やり押さえ込み、ドア越しの微かな気配を探る。
――その時だった。
厚い扉越しでも分かる、硬い革靴の足音。
しかも、通常の巡回のゆったりとした歩みではない。
小走りで、明らかにこのサーバールームへ一直線に向かってくる音が聞こえてきたのだ。
「っ……ユカリさん! まずいわ、まだ終わらない!? 誰かこっちに向かってきている!」
インカムに叫ぶが、すでに足音は扉のすぐ向こう側にまで到達していた。
まずい。
これでは、管理用パソコンに挿し込んだままのドングル付き装置を回収しに行く時間は、到底残されていない。
カチャリ、と。
外から電子ロックが解除される音が鳴った。
(間に合わない……!)
ガチャンッ!
大きな音を立てて、先ほど見回りをしていた警備員が、息を切らしながらサーバールームの扉を開けて顔を出した。
警備員は懐中電灯を取り出し、空調の爆音が響く室内をグルリと見回した。
その光の筋が、ユカリさんのドングルが挿さっている管理用パソコンの方へと向かう。
(見つかるっ……!)
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
だが、警備員の視線はパソコンの背面までは向かなかった。ドングルを黒塗りの目立たないポートに挿しておいたのが功を奏したのだ。
警備員はしばらく床のあたりをウロウロと照らし、やがて苛立ったように一人呟いた。
「……ここでも無いな。 クソッ、何処に落としたんだ?」
そう言って、警備員はドタドタと足音を立てて部屋を出て行き、再び分厚い扉が静かに閉ざされた。
「……ふぅっ」
私は肺に溜まっていた熱い息をゆっくりと吐き出した。
扉が開く際に咄嗟に壁を蹴り、入り口のドアの真上。
配線ケーブルが束ねられている、天井ギリギリのラックの隙間へと身体を滑り込ませ、両手両足の突っ張りだけで完全に宙に浮いた状態で息を殺していた。
ただの幸運ではない。
実は、セキュリティカードをスキミングした際、私は机の上から彼の車の鍵を拝借し、見えにくい警備室のドアの隙間にわざと蹴り込んでおいたのだ。
サーバールームに異常を感知してやってきたわけではなく、鍵がないことに気づき、慌てて自分の巡回ルートを血眼で探しに戻ってきただけ。
この時間稼ぎの工作が、最悪のバッティングをすんでのところで回避させてくれたのだ。
『……ユキちゃん! こっちの転送、今終わったわ! ランサムウェアの起動は明日の11時にセット済みよ。 そっちは大丈夫だった!?』
インカムから、ユカリさんの弾んだ声が聞こえてきた。
「ええ、大丈夫よ。 今からドングルを回収して、そっちに帰るわ」
私はラックから音もなく床へと降り立ち、管理用パソコンからドングルを引き抜いた。
これで、環境保護団体が裏で蓄財してきた汚い金と機密のデータは、すべてこちらの手の中だ。
ランサムウェアが発動した後に、バックアップから復旧作業をしても、明日一日は潰れるだろう。
ニュースに気づいて慌てて資産を移動しようとしても、システムの暗号化によって金融機関の認証もロックされている。
復旧後も再認証手続きが必要なため、確実に政府の資産凍結が先回りするはずだ。
あとは、このデータを精査し、ユカリさんの手で秘匿性の高い匿名リークサイトに流すだけ。
「……明日でこの組織は終わりよ」
私は暗闇の中で静かに呟き、私の心のように冷え切ったサーバールームを後にする。
こうして、下調べも含め、十日にも及んだ潜入ミッションは、そのすべてが、完璧な形で無事に終了した。




