天井裏に潜む蜘蛛
コッコッコッ……。
等間隔で硬い床を叩く革靴の音が、足元のすぐ下から響いてくる。
私は薄暗い天井裏の暗闇の中で、自身の鼓動と呼吸音すら完全に殺し、その足音がゆっくりと遠ざかっていくのをじっと耳で追っていた。
鼻腔をくすぐるのは、長年積もり積もった建材の埃っぽさと、空調のダクトから漏れ出す無機質な金属の匂い。
ここは、あの環境保護団体の本社ビルだ。
昼間のうちに、清掃員に変装してなんとか警備室の裏手まで潜り込み、監視の目を掻い潜り、点検口からこの天井裏へと這い上がることには成功していた。
問題は、そこからの時間だ。
吊り天井の脆い構造を補うため、持ち込んでいた折りたたみ式の高強度カーボンボードを骨組みの上に敷き詰め、自らの体重を分散させて天井が抜けないように足場を作っている。
その硬く冷たいボードの上に這いつくばったまま、私は深夜の警備が手薄な時間帯になるまで、かれこれ十時間以上も身動き一つせずに待機し続けている。
(ふう……いくら任務とはいっても、この暗闇と埃のなかで一切動かずに長時間待機するのは、さすがに骨が折れるわね)
じわじわと全身の筋肉が軋み、関節が悲鳴を上げ始めている。
特に、鉄製の手袋で覆われている左手が、鈍い重さを主張していた。
それでも、弱音を吐くわけにはいかない。
私たちが狙うのは、このビルの心臓部――最深部にあるサーバールームへ入室するためのアクセスカードだ。
彼らの裏帳簿と悪事の全記録を根こそぎ奪い取り、社会的に完全に抹殺する。
それが、日本へ帰国してサヤを奪還し、巨大な国家権力と戦う前に、私たちがこの異国の地に叩きつける、最高にタチの悪い『八つ当たり』の総仕上げなのだ。
(下調べを含めれば、この任務にすでに十日を費やしている。 三度の潜入で、大体の警備ルートと人の動きは完全に把握した。 ……今日こそ、絶対にデータを手に入れてやるわ)
耳をすませ、真下を通る警備員の足音が完全にフロアの奥へと消えたのを確認する。
私は音もなく身を翻し、点検口の縁に指をかけた。
指先の感覚だけでロックを外し、僅かな隙間から下方の安全を視認した。
監視カメラの死角となっている壁際。 誰もいない。
スッ……と点検口を持ち上げ、壁際の背の高い書棚を伝って、蜘蛛のように滑らかに地面へと降り立った。
着地の音はゼロだ。 忍びの歩法が、高級な絨毯に沈み込む衝撃を完全に吸収している。
足早に向かったのは、警備室の奥にあるキーボックスだ。
サーバールームへのアクセスカードが格納されているこのラックには、昨日の潜入にて微細な細工を施しておいた。
見た目は頑丈な電子ロックで施錠されているように見えるが、特定の角度から強い力を加えて引っ張ると、内部のラッチが外れて物理的に開く仕組みにしておいたのだ。
グッ、と力を込めて蓋を開ける。
中には数枚のセキュリティカードが並んでいた。
私は腰のポーチから小型のスキミング端末を取り出し、一番権限の高いカードに端末を重ね合わせた。
ピピッ、という極小の電子音と共に、カード内のICデータが瞬時に端末へと吸い出される。
念のため、他のカードのデータも一通りコピーし、すべてのカードをミリ単位の狂いもなく元の位置へ戻した。
箱を閉め、仕掛けておいた開錠用の細工を素早く撤去し、証拠を完全に隠滅する。
(よし。 これで痕跡は完璧に消した。 侵入されたことには絶対に気づかれない筈よ)
私は再び壁際の書棚を駆け上がり、点検口の縁に手をかけた。
腕と背筋の力だけでグッと身体を天井裏へと引き上げ、蓋を静かに、そして完全に閉め直す。
直後、廊下の奥から再び警備員の足音が近づいてくるのが聞こえた。
間一髪のタイミング。 私は暗闇の中で小さく息を吐き、次の行動へと思考を切り替えた。
* * *
ここからが本番だ。
先ほどの警備員が、サーバールーム周辺の見回りに向かった。
その数秒の隙を突き、私は再び点検口からスルスルと脱出し、気配を完全に殺して警備員の背後へと張り付く。
監視カメラの配置は、下調べによって完全に頭に入っている。
カメラの死角が存在しない一本道の廊下は、一度天井裏へ上がってからカメラの視界をやり過ごし、再び前方で降りるという立体的な機動で突破した。
天井裏に敷き詰めていたカーボンボードは、あえてそのまま置いてきた。
仮にあのボードの存在に気づかれるとしたら、それは明日以降、ガサ入れが行われるタイミングだ。
その頃には、私たちはすでにこの国を立ち去っているし、証拠も残していない。
遠回りをしながら複雑なルートを抜け、いよいよ目的のサーバールームの前に到着した。
ちょうど、見回りを終えた警備員が分厚い防音扉から出てきて、別のフロアへと歩き去っていくところだった。
サーバールームの入り口と、その内部に設置された監視カメラだけは、物理的な死角が存在しない。
ここばかりは、外部からの手助けが必要不可欠になる。
「……ユカリさん。 サーバールームの前に到着したわ。 監視カメラの映像を、ループ映像に切り替えて」
インカムのスイッチを押し、極小の声で囁く。
ノイズの向こう側から、頼もしい声が聞こえてきた。
『分かったわ。 少し待って……よし、切り替わったわよ。 OK、そのまま行って!』
警備員が廊下の角を曲がり、完全に視界から消えたタイミングを見計らい、私は無音のダッシュで重厚な扉へと肉薄した。
スキミング端末から発振させた偽装ICデータをカードリーダーに読み込ませる。
カチャリ……。
鈍い電子音と共に、分厚い扉のロックが解除された。
私はその隙間を縫うようにして、サーバールーム内へと滑り込んだ。
「……ッ」
入った瞬間、肌を刺すような冷気が全身を包み込む。
精密機器を熱暴走から守るため、室温は十度前後にまで下げられている。
巨大な空調設備と、無数に立ち並ぶサーバーラックから発せられる冷却ファンの爆音が、鼓膜を激しく揺さぶっていた。
(まずは、外部のネットワークから完全に切り離された、裏帳簿の入った機密サーバーからアクセスね。 ……それにしても、ここは寒いわね)
私は身震いを一つすると、昨日までにユカリさんが読み解いてくれていたサーバールームの構成図を頭に描き出し、迷うことなく部屋の最奥に鎮座する黒いラックへと直行した。
周囲を警戒しながら、腰から引き抜いた特殊なUSBメモリを、目的のサーバーの物理ポートへと慎重に差し込む。
USBに繋がった装置に『物理コピー開始』の緑色のインジケータが点灯したのを確認する。
このサーバー内のデータを丸ごと抜き取るのが、私の第一の任務だ。
その間に、部屋の隅に設置されている管理用パソコンへと移動した。
そこへ、持参したドングル付きのワイヤレス装置を差し込み、ユカリさんのパソコンとネットワークを強制的に繋ぎ合わせる。
「ユカリさん、ドングルの接続と物理コピーの準備は完了したわ。 ……情報の転送と、ランサムウェアの仕込みに何分かかりそう?」
極寒の部屋の中で、私はインカムに向かって囁いた。
通信の向こうで、ユカリさんが軽く舌を打つ音が聞こえた。
『ちょっと……データ量が想定よりずっと多いわね。裏取引の顧客リストだけじゃなくて、政治家への賄賂の記録までご丁寧に残してあるみたい。これを痕跡を残さないように吸い上げて、かつランサムウェアを仕込み終わるまで……最低でも十五分はかかるわ』
(最低十五分も……!)
私は奥歯を噛み締めた。
警備員の巡回ルートから計算すると、次にこの部屋に人が来るまで、猶予はせいぜい二十分強だ。
もし不測の事態が発生して作業が遅延すれば、完全なバッティングを起こしてしまう。
私は一度管理用パソコンから離れ、サーバーに差したUSBのインジケータから、物理コピーの進捗率を確認する。
(まだ八パーセント……こっちも思ったよりデータ量が多いわね)
膨大な情報の海の中から、目的のデータだけを正確に引き抜き、同時にシステムを暗号化しアクセス不可にする『時限爆弾』をセットする。
ユカリさんは今頃、アジトで極限の集中力を発揮してキーボードを叩いている筈だ。
私が焦らせてミスを誘発するわけにはいかない。
空調の爆音が鳴り響く極寒の密室で、私はひたすら固唾を呑んで、コピー進捗率の赤い数値がじりじりと上昇していくのを眺め続けるしかなかった。




