不安を隠しきれない少女
西海岸の空は、今日も雲一つない青色に澄み渡っていた。
日本へ帰国する前に一仕事を行うと決意した翌日、私は冷たい水で顔を洗い、鏡をじっと見つめた。
そこに映るのは、不安な顔をした少女だ。
今日も笑顔を張り付けるところから始めた。
昨日、環境を守るクリーンな活動と謳いながらも、裏で悪逆非道を尽くす環境保護団体という名の巨悪を潰すと決めた。
その決意に迷いはなかった。
まずは、ナオフミさんとジョアンナさんに、帰国すること、そして最後に環境保護団体を相手にすることを伝えなければならない。
朝食を終えた後、私はナオフミさんの書斎へと足を運んだ。
これ以上、平穏な暮らしを望む彼らに迷惑をかけるわけにはいかない。
お世話になったお礼と、家を出る旨を伝えるつもりだった。
「……そうか。決めたのだな」
私の話を聞き終えたナオフミさんは、手元の湯呑みを静かに置き、短く息を吐いた。
そして、私を真っ直ぐに見据えて力強く告げた。
「帰国するまでは、この家に居なさい。迷惑なんて考えなくていい」
その言葉には、かつての冷たい拒絶はなく、深い情と覚悟が滲んでいた。
彼もまた、過去に国を見限り、この異国の地へ逃れてきた忍びの一人。
私たちの無謀な戦いを止めることはできないと悟りながらも、せめて飛び立つまでの羽休めの場所を提供しようとしてくれているのだ。
「……ありがとうございます」
ここで強がるのは、逆に失礼だろう。
幼いノヴァの身の安全を考えても、拠点があるのはこれ以上ないほど助かる。
私は深く頭を下げ、最後にもう一度だけ、この温かい家族の厚意に甘えさせていただくことにした。
* * *
寝室に戻ると、ユカリさんがモニターを見ながら、高速でキーボードを叩いていた。
環境保護団体のメンバーや拠点、行動パターンを洗い出しているのだ。
「お帰りなさい、ユキちゃん。 ナオフミさん、なんて言ってた?」
「帰国するまで居ていいって言ってくれたわ。 ……本当に、頭が上がらない」
「そう。 よかったわね」
ユカリさんはホッと安堵の息を漏らした。
作戦会議を始めようと部屋を見回すが、いつもなら横で静かに鍛錬をしているアカネさんの姿が見当たらない。ノヴァの声もしなかった。
「アカネさんとノヴァは?」
私が首を傾げると、ユカリさんはくすっと笑いながら教えてくれた。
「二人ならお出かけ中よ。 ここ最近、アカネちゃんは少しオーバートレーニング気味だったからね」
確かに、アカネさんは自分にできることを増やそうと必死だった。
慣れない肉弾戦の基礎訓練に加え、体力強化に魔法の精密操作の特訓。
焦りが空回りして、夜中にうなされていることもあった。
「それでね、私が気分転換を勧めたら、ノヴァちゃんが『アカネお姉ちゃんのことは任せて!』って、胸を張って連れ出したのよ。新しくできたパンケーキのお店に行くんだって」
「ふふっ、そうなんだ」
私は、カフェの席で幼いノヴァにリードされ、タジタジになっているアカネさんの姿を思い浮かべた。
普段は無表情でクールな氷の魔法少女が、パンケーキの誘惑に小さく頬を緩ませる。
(ふふふっ、最近のノヴァは変な風に気合が入っちゃっているから、アカネさんも大変ね)
二人がリフレッシュして帰ってくるのを待ってから、具体的な作戦を詰めよう。
そう思い、ユカリさんと簡単な情報整理を始めた矢先だった。
ブブッ、と机の上のスマートフォンが短く振動した。
画面を見たユカリさんが少し怪訝な顔をする。
「ナタリーよ。『少し、ユキを借りたい』ってメッセージが入ってる」
その言葉に、私は思わず眉をひそめた。
ナタリー。ナオフミさんの娘であり、強い正義感を持つ元軍人。
彼女は、裏社会で泥水をすする私たちのような存在を激しく嫌悪している。
食事の席でも露骨に舌打ちをされ、会話すらまともに交わしたことがない。
「ユカリさん、用件は予想つく?」
「ううん。最近、少しは仲良くなったつもりだったんだけど、これだけじゃ全然予想できないわ」
一方的に嫌われている相手と顔を合わせるのは気が進まない。
しかし、お世話になっているナオフミさんの娘である。
「……分かったわ。 行ってくる」
逃げ隠れする理由もない。
私は上着を羽織り、念のために腰のポーチへクナイを忍ばせると、指定された場所へと向かった。
* * *
指定された場所は、西海岸の郊外からやや中央北よりに位置する、廃工場や倉庫が立ち並ぶ地域だった。
一帯は地元でも治安が悪いと言われているエリアで、昼間だというのに人影は少ない。
待ち合わせ場所に到着すると、開けた空き地が広がっていたが、あちこちに産業廃棄物やゴミが散乱している。
錆びた鉄の匂いが鼻を突き、心なしか空気全体が重く淀んでいるように感じられた。
その空き地の中央に、プラチナブロンドの髪を束ねた女性が立っていた。
腕を組み、鋭い眼光でこちらを真っ直ぐに睨みつけている。
――ナタリーだ。
「……逃げずに来たか」
私が数メートル手前で立ち止まると、ナタリーは挑発的な目つきで口を開いた。
「断片だが、親父と話していた内容を聞いていた。……依頼も受けていないのに、団体に喧嘩を売るつもりってな」
どうやら、今朝ナオフミさんの書斎で話した内容に聞き耳を立てられていたらしい。
「家にこれ以上迷惑をかけないためだって? 随分と立派な心がけじゃないか」
ナタリーは腕を組み直し、腰のホルスターに収められた愛銃のグリップを軽く叩いた。
「……最初に出会った時から成長しているか確認してやる。 お前も忍びを名乗るなら、いかなる時でも準備は怠っていないだろ?」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
――フッ……。
ナタリーの姿が、陽炎のようにかき消えた。
瞬きのタイミングを完璧に読み切り、一瞬で死角に滑り込む忍びの歩法『無影』だ。
(私が返事をする前に一方的に襲い掛かってくるなんて!)
だが、私は決して慌てなかった。
私はナオフミさんから『後の先』の極意を学んできたのだ。
今の私の目には、彼女が消える直前の、ほんの僅かな重心の偏りが見えていた。
足の踏み込みの深さと、肩の傾き。
間違いなく、私の『左側』から襲い掛かってくる。
焦ることなく、私は右手で腰のポーチから漆黒のクナイを引き抜きながら、左手を下から振り上げた。
――チィンッ!!!
空き地に、鋭く硬い金属音が響き渡った。
私の左側に回り込んでいたナタリーが、いつの間にか抜いていた愛銃――スターム・ルガー SP101の銃身を、棍棒のように私の側頭部へと振り下ろしていたのだ。
私はそれを、左手にはめた鋼鉄製の装具の分厚い部分で完璧にガードし、ぶつかった瞬間に滑るように外側へと衝撃をずらした。
強烈な銃の重みが空を切り、ナタリーの体勢がわずかに前のめりになる。
それと同時に、私は右手に持ったクナイの刃先を、彼女の白く細い首元へピタリと突きつけようとした。
――当然のように、そんな簡単には終わらない。
ナタリーは、自分が放った振り下ろしの衝撃が逃がされたと判断したその瞬間、逸らされた力へ乗るように身体全体を沈み込ませ、私のクナイの刃先からスルリと首を抜いた。
それと同時に、私の完全な死角である足元から強烈な蹴りを浴びせてきた。
(速い……! でも、軌道は読めている!)
軸足の位置と、腰の回転のタメ。狙いは私の後頭部だ。
私はクナイを突き出した右腕を振り切る勢いをそのまま利用し、独楽のようにその場で鋭く旋回した。
遠心力で身体を回転させながら、放たれた彼女の蹴り足の軌道へ向けて、装具に覆われた左手の裏拳で強引に叩き落とす。
ドガッ!!
靴と鋼鉄が激しくぶつかる鈍い音。
強烈な衝撃が両者の間に走り、一瞬の交錯の後、二人の影は弾き飛ぶように後方へと距離を置いた。
ザザザッ、と靴底が砂利を擦る音を立てて着地する。
見つめ合ったまま、互いに次の動きを読み合う。
数秒の静寂の後、ナタリーはゆっくりと銃の銃口を下げた。
確認は、もう良いらしい。
銃を仕舞った彼女の顔には、先ほどまでの好戦的な笑みは消え去っていた。
代わりに浮かんでいたのは、煮え切らないような、あるいは悲しみを帯びているかのような表情だった。
ナタリーは俯いたまま大きく息を吐き出すと、顔を上げて私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「なぁ。忍びの家に生まれたから……ただ、それだけで裏の仕事をやるのは止めにしないか?」
予想外の言葉だった。私を軽蔑しているのだと思っていた。
だが、彼女の瞳にあるのは怒りではなく、純粋な同情と心配だったのだ。
「ご両親が亡くなったことは聞いた。 だが、後を継ぐよりも幸せに生きて欲しいと望んでいる。 そう思わないか?」
事情を知らないナタリーは、まだ話を続ける。
「お前たちは、まだ学校に通う年齢だろ。 こんな汚れ仕事は大人に任せて、今を楽しむべきなんだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かがプツンと切れる音がした。
「……大人が!! その大人たちが、私たちの両親を奪ったんだ!」
つい、私は感情に任せて大きな声で言い返してしまった。
一度溢れ出した感情は、もう止めることができなかった。
「大人が作った国が、大人が作った『魔法少女』というシステムが、お父さんとお母さんをゴミみたいに殺したのよ!」
私はクナイを持つ右手を震わせながら、ナタリーに向かって一歩踏み出した。
「それに……私の妹は拉致されて、きっと今も助けを待っているの。 独りぼっちで、あいつらに酷いことをされているかもしれない。 だから、私が強くなって助けてあげなくちゃ絶対に駄目なの!!」
顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫ぶ私を見て、ナタリーは目を丸くし、言葉を失って驚いていた。
* * *
それから、私は空き地に積まれた錆びたドラム缶の上に座り込み、ナタリーに対して私たちの事情をすべて話してしまった。
ナオフミさんがナタリーに伝えていなかった、重く苦しい真実。
三年前のクリスマスイブに、魔法少女に両親を奪われたこと。
妹と二人でケリをつけようと足掻いたこと。
ユカリさんの力を借りて、一時は上手くいっていたこと。
左手や体中の傷と引き換えに、実行犯の魔法少女とそれを命じた忍びを始末したこと。
そして――その魔法少女も政府のシステムに組み込まれただけの被害者であったこと。
最後に、私を逃がすために妹が犠牲になり、敵に連れ去られたこと。
「サヤは……妹は、魔法少女の力に目覚めてしまったの。 心を完全に壊されて、ただの殺戮兵器にされる前に、助け出さなきゃいけない。 ……私には、もう時間が残されていないの」
最後までナタリーは黙って聞いてくれた。
国を守る軍人として正義を信じていた彼女にとって、国家そのものが少女たちを兵器として使い潰しているという事実は、受け入れがたいほどの衝撃だったのだろう。
「……そうか」
ナタリーは、ただそれだけを短く呟いた。
彼女はふらふらとしたおぼつかない足取りで、私に背を向けて歩き出し、そのまま空き地から居なくなった。
私は一人残された空き地で、冷たくなった涙の跡を手の甲で乱暴に拭い、大きく深呼吸をした。
(……あんなに感情を露わにしてしまうなんて情けない)
もっと頑張らないと。 そう強い決意を抱いて、私はナオフミさんの家へとたどり着いた。
* * *
部屋に戻ると、中ではユカリさんがハラハラした顔で行ったり来たりしていた。
「あ、ユキちゃん! おかえり!」
私を見るなり、ユカリさんは駆け寄ってきて、怪我していないか私の身体をペタペタと触り始めた。
何の用事だったのかと聞きたそうな視線を送ってくる彼女に対し、私はナタリーの複雑な心情を慮って短く答えた。
「訓練を手伝ってもらっただけよ」
「……訓練? ナタリーが?」
全くしっくりきていなさそうな顔で首を傾げるユカリさんだったが、私がそれ以上語らないことを察してくれたのか、深く追求することはなかった。
「そう……。 まあ、無事ならいいわ。 少し体が冷えてるみたいだから、温かいものを淹れるわね」
ユカリさんは私のために温かいココアを淹れてくれた。
マグカップを受け取り、一口飲む。甘くて濃厚なカカオの香りが、疲れた身体の隅々にまで染み渡っていく。
……本当にとても暖かい。
「それでね、さっきの環境保護団体の襲撃作戦なんだけど……」
ココアを飲み終えた私が、出かける前に中断していた作戦を詰めようと身を乗り出すと、ユカリさんはふわりと微笑んで私の肩を優しく押し留めた。
「ユキちゃんは、今日はもうゆっくり休んでなさい。私がいくつか案を作るからそれまで待っていて」
「えっ、でも……」
「いいから。 これは私の仕事よ」
私を気遣ってくれるユカリさんのやんわりとした断りに、私は素直に甘えることにした。
「……ありがとう、ユカリさん」
私はマグカップを置き、部屋の窓を開けた。
西海岸の爽やかな風が、カーテンをふわりと揺らした。
窓の外に広がる、青く澄んだ空。
この空は、海を越えて、はるか遠い日本の空へと繋がっている。
私は、左手の鋼鉄の装具を右の手のひらで優しく包み込むように握りしめ、窓の向こうの遠い空を見つめた。
(サヤ、もう少しだけ待っていて。これが最後の寄り道だから)




