精密なる力と、千里眼の魔法少女
鼻腔を突くのは、乾いた土の匂いと、自分自身の汗の匂い。
じっとりと額に滲んだ汗が睫毛を伝い、視界を僅かにぼやけさせる。
「――そこだ」
低く、けれど絶対的な威圧感を持った声が響いた直後。
私の放った右の突きは、空気を切る虚しい音だけを残して空を切っていた。
視界から完全に消え去ったナオフミさんが、私の右腕の死角へ、滑るように潜り込んでいる。
「くっ……!」
咄嗟に体勢を立て直そうと左足を踏み込もうとした、その刹那だった。
ナオフミさんの二本の手指が、私の左足の付け根、正確には大腿四頭筋の隙間にある『大腿神経』の束を、ピンポイントで「トンッ」と軽く叩いた。
「あっ……!?」
ただ軽く、触れるように叩かれただけ。
それなのに、私の左足は一瞬にして感覚を失った。
配線を切断された機械のように、太ももの筋肉から完全に『力』が抜け落ちたのだ。
踏ん張りを失った私の体は、自分の体重すら支えきれなくなり、無様にバランスを崩して乾いた土の床へと転がっていく。
「……今日はここまでにしておこう。 まあまあ、だった」
そう言ったナオフミさんの顔には、相変わらず厳しい皺が刻まれているが、かつてのような嫌々ながらという色は薄れている。
『まあまあ』
それが、この頑固で無口な凄腕の元忍びから引き出せる、現時点での最大級の賛辞だった。
「はぁっ……はぁっ……。ありがとうございました」
私はビリビリと痺れの残る左足をさすりながら、ゆっくりと立ち上がって深く頭を下げた。
ノヴァを保護してから、あっという間に二ヶ月の月日が流れていた。
あれから私は、サヤを取り戻すための力を得るべく、ナオフミさんの教えに文字通り食らいついてきた。
彼が教えてくれるのは、極限まで研ぎ澄まされた、人間の身体構造に対する冷徹な理解と、物理法則に則った技術だ。
特にナオフミさんが得意とする体術と、相手の攻撃を誘ってからその力を利用して制圧する『後の先』の技術は、私にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。
先ほどのように、人間の体のどの部位を、どの順番で、どの程度の力で圧迫すれば、相手を完全に無力化できるのか。
クナイを刺すにしても、ただ闇雲に急所を狙うのではなく、相手の反撃の芽を摘むための『正しい順番』がある。
(……それにしても、軽く脚の付け根を叩かれただけで、一歩も動けなくなるなんて。本当に人間の身体って、精密な機械みたい)
魔法少女の力は、その精密な機械を理不尽なエネルギーで強引に破壊する。
対して私たちの忍びの技は、機械の構造を完全に理解し、最も効率的に配線をショートさせる技術なのだ。
私は自分の足の感覚が徐々に戻ってくるのを確かめながら、静かに拳を握りしめた。
* * *
「あっ! ユキちゃん、腕見せて! 最終調整が終わったわよ!」
シャワーを浴びてリビングへ戻ると、ユカリさんが興奮気味に駆け寄ってきた。
彼女の手には、私の左手を覆うための、鈍い光を放つ鋼鉄製の手袋が握られていた。
ガチャン、と重い音を立てて、私はその手袋を装着する。
動かない掌をすっぽりと覆い隠し、手首のロックがカチリと噛み合う。
「前の試作品、毒針を飛ばすギミックも悪くなかったんだけどね。それだと弾切れしたら終わりだし、直線的な攻撃しかできなくて納得いかなかったのよ」
ユカリさんは、目の下に酷いクマを作りながらも、誇らしげに胸を張った。
「今回は自信作よ。……左手の、まだ動かせる指だけで操作してみて」
私は言われた通り、庭に向けて、僅かに感覚の残っている左手の薬指と小指に力を込め、手袋の内部にあるトリガーを引いた。
シュガァッ!
鋭い金属音と共に、手袋の各指の先端から、パチンコ玉ほどの大きさの鉛玉が勢いよく噴出した。
鉛玉の根本には、髪の毛よりも細く、しかし決して切れない強靭な『鋼糸』が繋がっている。
私が指先の向きを微調整すると、空中に射出された鉛玉と鋼糸は、生き物のように空中で軌道を変え、庭の木の太い枝にグルグルと巻き付いてガッチリと固定された。
「……すごい」
私は思わず息を呑んだ。
ただの義手ではない。私の動かない左手が、完璧な射出装置へと生まれ変わっていたのだ。
これなら、事前に罠を張る時間がない乱戦の中でも、一瞬にして鋼糸の陣を構築できる。相手の四肢を絡め取ることも、逃走用のワイヤーとして使うこともできる。
用途は、私の想像力次第で無限に広がる。
「ありがとう、ユカリさん。 これなら……やれるわ」
「ふふん、私を誰だと思ってるの? さ、次はアカネちゃんの様子でも見てこようかしら」
ユカリさんと共に、ナオフミさんに借りている大き目の空き部屋へと向かった。
そこは、まるで真冬の冷凍庫の中のように、肌を刺すような冷気で満たされていた。
白い息を吐きながら中を覗くと、黒いトレーニングウェアを着たアカネさんが、滝のような汗を流しながら、肩で激しく息をしていた。
彼女は、忍びの隠密技術や体術を身につけることは早々に諦めていた。
元々がインドアな魔法少女であり、短期で見に付く技術ではないと理解できたからだ。
だが、その代わりに彼女は、過酷な逃亡生活や戦場でも絶対に私たちの足を引っ張らないよう、毎日地獄のような基礎体力トレーニングを積んでいた。
その上で、彼女が全精力を注いでいたのが『魔法の精密操作』だった。
「……ふぅっ」
アカネさんが、目を閉じて小さく息を吐き出す。
次の瞬間、彼女の周囲の空間で空中の水分がキラキラと凍りつき始めた。
今までのアカネさんの戦い方は、巨大な氷の壁を出して身を守るか、無数の氷槍を相手にぶつけるという、暴力的なまでの『大雑把な制圧』だった。
だが今は違う。
チリン、チリン……。
微かな氷の鳴る音と共に、空間に出現したのは、手のひらサイズの美しい『氷の蝶』だった。
それも一匹ではない。
十、二十と無数に生み出された氷の蝶たちが、アカネさんの手から遠く離れた空中を、まるで本物の意志を持っているかのように自由自在に羽ばたき、旋回し始めたのだ。
「……綺麗……」
ユカリさんが感嘆の声を漏らす。
私も、その美しさと、背後にある恐ろしいまでの精密な魔力制御に戦慄を覚えた。
自分の手から離れた物質を、あれほど複雑に、しかも複数同時に操る。
それは、ただ力任せに冷気を放つことの何百倍もの集中力を要するはずだ。
あれがもし、蝶ではなく鋭い刃を持った氷の暗器であり、相手の死角から自在に襲いかかってくるとしたら……。
(本当に、努力家なのよね)
ふと、訓練の休憩中にアカネさんがボソッとこぼしていた言葉を思い出す。
『ノヴァに、綺麗なものを見せてあげたいから』
復讐のためだけでなく、誰かを喜ばせるために、血の滲むような努力で自身の限界を超えていく。
相変わらず表情は乏しいけれど、彼女の心は、確かな熱を宿した人間へと成長していた。
* * *
そして、リベリアで保護した褐色の少女――ノヴァについてだ。
彼女はやはり、私たちの予想通り『魔法少女』だった。
この二ヶ月の間、生活費と訓練を兼ねて、私たちは裏社会の依頼を三回ほどこなした。
その中で、彼女の力は決定的な働きを見せた。
あれは、人身売買に関わるマフィアの幹部を捕らえる依頼の時だった。
ユカリさんが情報筋を探し、幹部が潜伏していると思われるアジトを完璧に特定した。
私とアカネさんが強襲の準備を整えていた時、モニターを見ていたノヴァが、突然首を横に振ったのだ。
「そこには、居ないよ?」
「え? でも、情報の裏付けは完璧に取れてるわよ?」
ユカリさんが首を傾げると、ノヴァは「ちょっと待って!」と言い、ユカリさんのパソコンに映るいくつか候補の場所を記した全体地図をじっと見つめた。
あの出会った夜と同じように、彼女の瞳からスッと焦点が消え、ボーッとした状態になる。
数十秒の静寂。
やがてノヴァはハッと息を吹き返し、地図の一点を指差した。
「今、ここにいる。……女の人と一緒に、ワインを飲んでるよ」
指定されたのは、ターゲットのアジトから数キロ離れた場所。
半信半疑のまま私たちがその場所に直行すると……驚くべきことに、そこには愛人の家に身を隠し、優雅にグラスを傾けている幹部の姿が本当にあったのだ。
不意を突かれた幹部を、私たちはいとも簡単に捕縛することに成功した。
家に戻ってから、私たちはノヴァを囲んで詳しく話を聞いた。
「すごいわ、ノヴァ! あれ、どうやったの!?」
「ええっと……」
ノヴァは少し照れくさそうに、しかしどこか悲しげに俯きながら教えてくれた。
環境保護団体の末端だった両親が、密猟者の手によって森で命を落とした後。
『もし自分が、事前に森の危険度や、敵の居場所を知ることができていれば』
その強烈な後悔と祈りが、彼女の中に魔法少女としての力を目覚めさせたのだと言う。
具体的には、自分の意識だけを身体から切り離し、イメージした好きな場所に一瞬で移動して、好きなところを自由に見て回れる力。
「凄い! これならどんなターゲットでも一瞬で見つけられるじゃない!」
私たちが手放しで褒め称えると、ノヴァは寂しそうに頭を横に振ったのを、今でもはっきりと覚えている。
「見るだけで、触れないから……直接は何も力になれないよ。それに、長時間は無理だし」
落ち込むノヴァだが、私たちはその有効性がどれほど貴重で、どれほど恐ろしいものなのか理解している。
私たちから両親を奪う計画を立てた聖女・桐里ミチル。
彼女は世間から『感知の魔法少女』と呼ばれていたが、その実態は、目に見える視界の範囲限定で、壁を透過して「他人の感情の色」を見る『感情の魔法少女』だった。
本人が世間に隠していた通り、本当の意味での感知ではなかったのだ。
だが、ノヴァは違う。
彼女こそが、本物の『感知』を司る魔法少女と言っても過言ではない。
部屋に居ながらにして、何処でも好きな場所を自由に探れる。
物理的な潜入も、ハッキングによるカメラの掌握すら必要としない。
もはやチートと言っても良いだろう。
私にもこんな理不尽な力があればと、醜くも嫉妬したことを覚えている。




