ユキの我儘とアカネの我儘
ナオフミさんの自宅のリビングには、香ばしい肉の焼ける匂いと、甘辛いソースの香りが満ちていた。
リベリアでの過酷な任務を終え、ノヴァの滞在が正式に認められたこの日、ジョアンナさんの計らいでささやかな歓迎パーティーが開かれていたのだ。
「凄い! 凄いよこれ! 柔らかくて、甘くて……とっても美味しい!」
ノヴァは目を輝かせ、テーブルに並べられた大皿のバーベキューローストやグラタンを夢中で口に運ぶ。
亡き父から知識としては様々なことを教わっていた彼女だが、生まれてからずっと過酷なジャングルで暮らしてきたため、文明の利器や多彩な料理に直接触れるのはこれが初めてのことだった。
一つ一つの体験に幼い少女らしい素直な驚きを見せ、特にジョアンナ特製の特大ベイクド・パスタをすっかり気に入ったようだった。
「ふふ、たくさん食べなさい。アメリカにいる間に、美味しいものをいっぱい食べて大きくなるのよ」
ジョアンナさんが母親のような優しい眼差しでノヴァの頭を撫でる。
ノヴァは頬をソースで汚しながら、嬉しそうに頷いていた。
また、ノヴァが泊まる部屋については、アカネさんに懐いていることもあり、私たちと同室で過ごすことに決まった。
今は、アカネさんがまるで自分の家であるかのように、ノヴァにシャワーの温度調節やトイレの流し方、ドライヤーの使い方を丁寧に教えている最中だ。
「これが温水。回すと冷たくなる。間違えて熱くし過ぎたら私が氷を出す」
「……うん、分かった! アカネお姉ちゃん」
ノヴァはスカートの裾をきつく握りしめながら、必死に教えを覚えようと頷いている。
その微笑ましい光景を部屋の入口から見守っていた私の胸に、ふっと温かいものが去来した。
しかし、それと同時に、胸の奥底でドロドロとした暗い感情が鎌首を持ち上げる。
(こんな風に、普通に笑って、美味しいものを食べて……。でも、ノヴァの両親は……)
一度深呼吸をして心の乱れを鎮めた私は、今のうちにと思い切ってユカリさんに問いかけた。
「ユカリさん……お得意様って、切ることはできないかな?」
その声には、低く抑えられた静かな怒りが籠もっていた。
今回、リベリアへの潜入を依頼してきたお得意様である環境保護団体。
彼らは表向きこそ地球の自然を守る高潔な組織を謳っていたが、その実態は酷いものだった。
団体の末端メンバーであったノヴァの両親が現地で密猟者に殺されても、その遺児であるノヴァには一切の支援を行わず、ただ金を払って裏稼業の人間に密猟者の生け捕りを頼むだけ。
『裏取引のルートを押さえて、根こそぎ壊滅させたい』という依頼理由すら、今となっては怪しいものにしか思えなかった。
ユカリさんは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい眼差しに戻って答えてくれた。
「もう二度と依頼を回してもらえなくなるけれど……可能よ。ユキちゃんがそう望むなら。……現地で、何かあったの?」
私はリベリアで目撃した惨状と、ノヴァの両親が辿った哀しい末路を語った。
私は正義の味方などではない。
裏社会で生きる忍びであり、泥を被る存在だ。
だが、それでも——金のために他人の命を道具扱いし、悪人に尻尾を振るような真似は、かつて両親を切り捨てた田中が作り上げた歪んだ「魔法少女システム」に加担しているように思えて、吐き気がするほど嫌だった。
(分かっている……これは、私の子供じみた我儘だ。プロの忍びなら、感情を殺して割り切るべきなのに……)
罪悪感に押し潰されそうになりながら俯く私を、ユカリさんは黙って最後まで優しく受け止めてくれた。
そして、いつものように茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせる。
「いいわよ。依頼人なんて、私がいくらでも見つけてきてあげるから。ユキちゃんたちは、気持ち良く仕事をしなさいな」
「ユカリさん……ありがとう。我儘言って、ごめんなさい」
ユカリは話は終わりとばかりにポンと手を叩き、明日の予定へと話題を切り替えた。
「さあ! 明日はお仕事はお休みよ! リベリアでの疲れもあるでしょうけれど、ノヴァちゃんに必要な日用品や服をたくさん買いに行きましょうね!」
「買い物……! ええ、ノヴァもきっと喜ぶわ」
私とユカリさんは、明日のショッピングモールで見られるであろう、ノヴァの新鮮な反応を想像して、顔を見合わせて微笑み合った。
* * *
翌朝。明るい太陽の光が差し込むリビングで、五人が朝食のテーブルを囲んでいた。
ジョアンナさんは早朝から仕事に出ており、ナタリーも朝からのバイトのシフトが入っているため不在だ。
昨日遅くまでノヴァに付き合っていたアカネさんは、まだ眠気が残っているのか、ぼんやりとした目でシリアルを見つめている。
一方のノヴァは、満面の笑顔で牛乳をかけただけのシンプルなシリアルをサクサクと美味しそうに頬張っていた。
私は昨夜のうちにアカネさんとノヴァに軽く予定を伝えていたが、家主であるナオフミさんにも共有するため口を開いた。
「ナオフミさん、私たちはこれからショッピングに行って、ノヴァに必要な日用品や洋服を買ってきますね。夕方までには帰れると思いますので……ついでに夕食を、ナオフミさんたちの分も含めて買ってきても良いでしょうか?」
ノヴァがシリアルの入ったボウルをひっくり返さないかハラハラと見守りながら、ナオフミさんは私の提案に「ああ、ありがたい。助かるよ」と静かに答えてくれた。
(いつもこの家に置いてもらって、お世話になりっぱなしだから……少しでもお返しをしないと)
久しぶりのショッピングに、年相応に心が躍るのを感じる。
——ここに、もしサヤがいれば。
ふと脳裏をよぎった妹の幻影に、胸の奥がキリリと痛むのを隠しながら、私は努めて明るく立ち上がった。
朝食を終えると、全員でユカリさんが長期契約で借りている大型のレンタカーに乗り込んだ。
「最初はノヴァちゃんのお洋服を買いに行くわよ〜!」
普段の命懸けの裏仕事とは違い、危険要素が一切ない「普通のお出かけ」。
ユカリさんは実に楽しそうに車を発進させた。
郊外の巨大なアウトレットモールに到着し、色鮮やかなショップが立ち並ぶエリアを皆で歩く。
掘り出し物の服を品定めしていた私の服の裾を、ノヴァがちょんちょんと引っ張った。
「ねえ、お姉さん。みんなが私にこんなに良くしてくれているけれど……私は、何をやればいいの?」
与えられる物には、必ず相応の対価や代償が発生する。過酷なジャングルでそれを学んだノヴァの小さな瞳は、自分に返せるものがない不安で揺れていた。
(『何もしなくていいんだよ』と言っても、この子は信じてくれないだろうな……)
返答に困り、なんて言葉をかければ彼女を安心させられるか悩んでいた、その時だった。
少し離れたところで服を手に取っていたアカネが、すっとノヴァの前に歩み出る。
「ノヴァは、私の願いを叶えるのがお仕事」
ノヴァはアカネさんが何を言っているのか分からず、ポカンと口を開けたまま続きの言葉を待った。
大丈夫、私だって分かっていない。
「……私、クレープ屋に行きたかった。パンケーキも食べたかった。エビフライも、苺のショートケーキも。私が行きたいところに、ノヴァを連れていくこと……それが、私の魔法の力になる……はず」
「……?」
「今は分からなくてもいい。でも、私のためになる。だから、欲しい物は欲しいと言うこと。嫌な物は嫌と言うこと。約束」
相変わらず独特すぎる理屈だったが、それはアカネなりの不器用で最大の慈愛だった。
ノヴァはどんな対価になるのか完全には理解できないままだったが、アカネの真剣な表情を見て、スカートの裾をぎゅっと強く掴む。
「アカネお姉ちゃんの魔法を強くするお手伝い……ということは分かったよ! ……じゃあ、一つだけ。抱っこは、恥ずかしいからヤダ」
ガーン、と文字通りの擬音が聞こえてきそうなほど、アカネが目に見えてショックを受け、固まった。
隣でそのやり取りの一部始終を見ていた私は、堪えきれずに吹き出してしまう。
「あはははっ! アカネさん、抱っこは禁止だってさ! さ、ノヴァの洋服は私も選ばせてね?」
私は笑いながら二人の背中を押し、ノヴァに着せる洋服を吟味しているユカリさんの元へと連れて行った。
その後はお昼になるまで、心ゆくまで買い物を楽しんだ。
最初は遠慮がちだったノヴァも、この姉たち相手に遠慮しても無駄だと悟ったのか、あるいはこの温かい空気に慣れてきたのか、途中からは終始弾けるような笑顔を見せていた。
お昼時になり、モール内にあるファミリーレストランへ入る。席についた途端、アカネがテーブルに突っ伏して沈没した。
「お子様ランチ……一緒に食べたかった……」
アメリカのファミレスには、目的のメニューが存在しなかったのだ。
机に突っ伏して落ち込むアカネさんを慰めるように、ノヴァが優しく声をかける。
「アカネお姉ちゃん、マカロニ&チーズも美味しそうだよ? これを一緒に食べよ?」
「……うん」
ノヴァの言葉に、アカネはのそりと顔を上げた。
私とユカリさんは適当なメニューを選んで注文したが、なんだかんだで本当の姉妹のように仲良くメニューを突く二人の姿を見ているだけで、胸が温かくなった。
その後、ノヴァ用の日用品を揃え、ナオフミさんたちへのお土産としてBBQプレートやグルメバーガー&フライを購入して帰路につく。
ノヴァはパスタをいたく気に入ったようで、テイクアウトでベイクド・パスタとかなりの大きさの焼きたてピザも買って帰ることに決まった。
ナオフミさんの家に帰り着くと、新しく買ってもらった可愛らしい服でおめかししたノヴァを見たジョアンナさんが「ファンタスティック!」と歓声をあげる。
ジョアンナは即座にカメラを取り出し、アカネさんと並んだ写真を何枚も撮ってくれた。
撮れたばかりの画像を見ると、ノヴァは頬を染めて照れくさそうな顔をしていたが、隣のアカネはとても満足気な表情を浮かべており、私はまたしても笑ってしまった。
「ジョアンナさん、これ、お土産です。今日の夕食に、みんなで食べませんか?」
私が両手いっぱいに抱えたテイクアウトの料理の数々を見せると、ジョアンナさんは「まあ! 今夜もパーティーね!」と飛び跳ねて喜んでくれた。
居間に広がる、温かく賑やかな笑い声。
美味しい料理の匂いと、優しい人々の温もり。
(……ああ、楽しいな)
心からそう思った。
けれど——その楽しいという感情が胸を満たせば満たすほど、何をされているか分からない妹、サヤの姿が頭によぎる。
罪悪感が、毒のように私の心を蝕んでいく。自分だけがこんな温かい場所で笑っていていいはずがないのに。
それでも私は、周りの誰もにその葛藤を悟らせないよう、仮面のような完璧な笑顔を崩さずに、賑やかな夕食の輪の中へと混ざっていくのだった。




