それぞれの事情
西海岸のカラリと晴れ渡った空とは裏腹に、ナオフミの自宅のリビングには、穏やかでどこか浮世離れした時間が流れていた。
ユカリは、目の前に置かれた湯呑みから立ち上る緑茶の湯気を眺めながら、ほっと小さく息を吐く。
同い年ということもあり、ここ数日で急速に打ち解けたナタリーと、クッションに腰を下ろして楽しそうに目を細めていた。
「へー。ナオフミさんとジョアンナさんって、大学からの付き合いなのね」
ユカリが興味津々に尋ねると、ナタリーは呆れ半分、親愛半分といった風に肩をすくめた。
「そうだ。トラブルメーカーのママを、親父が助けた際に運命を感じたそうだ」
「運命ねえ……。ちょっと憧れちゃうわ」
胸の前で両手を組み、乙女心を全開にしてうっとりと目を輝かせるユカリを見て、ナタリーは堪らず吹き出した。
「ママからすれば運命の一言で済むけど、親父からすればたまったもんじゃないだろうな。ママが起こしたトラブルを、毎回火消しして頭を下げまわったり。街の不良にママが捕まった時は、物理で助ける羽目になったらしいし」
「なにそれ! 不良に捕まったところを助けてくれるなんて、ヒーローじゃない! 私でも惚れちゃうわ」
ユカリが身を乗り出すと、ナタリーはニヤリと笑ってオチを口にした。
「不良に喧嘩を売ったのはママからだし、捕まったと言っても、自分から不良の集団に乗り込んだらしいからな。いい加減親父もキレて、ママを叱り飛ばしたらしい」
「……ジョアンナさん、いったい何してるのよ」
思わず呆れた声が漏れてしまうユカリ。ナタリーは膝を叩いて笑い続けた。
「まあ、助ける際に親父一人で全員をのしたからさ。それでママに忍びだってバレて、親父に付きまとい、結婚まで漕ぎ着けたんだってさ」
仕事に出かけて不在の両親をネタにして、二人は顔を見合わせて笑い合う。
かつて歴戦の忍びであった男が、押しに負けて家庭を築いたという事実は、どこか微笑ましくもあり、殺伐とした裏社会を生きてきたユカリの心を温めさせた。
ふと、ユカリの脳裏に疑問が浮かんだ。
「そう言えば、ナタリーって元軍人なのよね? ……辞めた理由、聞いていいのかしら?」
一瞬、ナタリーの笑顔が陰り、その瞳に深い失望の色が差した。
彼女は手に持っていた湯呑みをゆっくりとテーブルに置く。
「ああ……もう済んだ話さ。上官が賄賂を受け取り、物流業者を決めていたから摘発したんだ。……結果として、更に上から私が依願退職するように促されたのさ」
母譲りの曲げられない正義感。
国を守り、正義のために尽くすと夢見て軍に入隊したナタリーにとって、軍の対応は耐え難い裏切りだった。
腐敗した組織に幻滅して制服を脱いでからは、やりたいことも見つからず、今はしがないウェイトレスのバイトで日銭を稼いでいるという。
ついでとばかりに、ナタリーが忍びの技を使える経緯について尋ねると、彼女は苦笑いを浮かべた。
「ママの強いご所望でね。親父から徹底的に叩き込まれたんだ。忍びの訓練は地獄だったよ」
お茶を飲みながらそんな雑談に花を咲かせていた時、ユカリのスマートフォンが小さく震えた。
画面に表示された通知を確認した瞬間、ユカリの顔がパッと華やぐ。
「あっ……ユキちゃんたち、今日帰って来れるんだって!」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、ナタリーの表情が露骨に曇った。
嫌な話を聞いたとばかりに顔をしかめ、腕を組む。
「あいつらか……。まだ子供のくせに忍びの技を使って、裏の仕事をしてるんだろ? それで政府に追われるなんて、忍びとして未熟過ぎる。ユカリも保護者だか何だか知らないが、ちゃんと分別が付くように教育するべきだと思うね」
(ナタリー……そう思うのも無理はないよね)
ユカリは胸を突かれた思いで俯いた。
軍人として規律と正義を重んじてきたナタリーから見れば、サヤやユキの選択はあまりにも危険で、愚かに映るのだろう。
だが、彼女たちが国に見捨てられ、両親を惨殺されたという残酷な背景を、ナオフミが伝えていない以上、自分が勝手に話すわけにはいかない。
「あははは……依頼は私が厳選しているから、できるだけ危険な仕事は受けていないわ……。それに、事情もあるのよ」
言葉を濁し、弁解するように呟くのが精一杯だった。
重苦しい雰囲気が漂い、それ以上話が盛り上がることもなく、約束の時間が近づいてきた。
ユカリは気まずさを隠すように立ち上がり、二人を迎えに行くために家を出た。
* * *
行きと同じくメキシコ湾経由で着陸したジェット機から、小型のプロペラ機に乗り換え、ようやく西海岸の風を感じる場所まで到着した。
環境保護団体がカモフラージュとして保有しているプライベートの飛行場。
滑走路の脇には、すでにユカリさんが車を停めて待っていた。
「おかえりなさい! ユキちゃん、アカネちゃん。……それで、その子は?」
タラップを降りてきた私と、幼い少女――ノヴァを抱っこしているアカネさんを交互に見ながら、ユカリさんが首を傾げる。
事前の連絡で説明しきれる自信がなかった私は、対面で要点を掻い摘んで、リベリアでの激闘と、ノヴァという存在の特殊な経緯を説明した。
「んー……アメリカ国籍を用意できないか、ねぇ……。今の状況じゃ一筋縄ではいかないわね。今の私たちには、正規の手続きは無理よ。とにかく一度、ナオフミさんの家に連れていきましょう」
ユカリさんの言葉に、アカネさんが珍しく強い意志を込めた瞳で、釘を刺すように言った。
「私はノヴァと一緒に住む。ナオフミの家に断られたら、代わりの拠点を探して」
妹を慈しむようなアカネさんの強い態度に、ユカリさんは目をパチクリとさせた後、「分かったわ」と優しく微笑んだ。
かつて自分の気持ちを口に出せなかったアカネさんが、誰かを守るために必死になっている姿が、どこか誇らしくもあったからだ。
* * *
ナオフミさんの自宅に戻ると、仕事から帰宅していたナオフミさんとジョアンナさんが出迎えてくれた。
ユカリさんからノヴァの事情と、アメリカでの身置き場についての説明がなされる。
ナオフミさんは「正規のパスポートが無い子を何人も家に置くのはリスキーだ」と難色を示しかけた、その時だった。
「いいじゃない! 置いてあげましょうよ!」
ジョアンナさんの鶴の一声が部屋に響き渡る。
「ジョアンナ、しかしだな……」
「いいの! こんな小さな子が、大人の都合で居場所を奪われるなんて間違ってるわ! 私たちが守ってあげなくてどうするのよ!」
元・トラブルメーカーであり、誰よりも情に厚いジョアンナさんの猛反対に、ナオフミさんは深くため息をつき、「……分かった」と頷いた。
(やっぱり、ジョアンナさんは凄いや……)
私は胸の奥が温かくなるのを感じながら、心の中で固く誓った。
これからも何か難しいお願いをする時は、まず最初にジョアンナさんに言おう、と。
こうして、居場所を失った小さき逃亡者ノヴァの、アメリカでの新たな滞在が認められたのだった。




