命の値段と、氷が溶ける温度
血と硝煙の匂いが染み付いた任務を終え、私とアカネさんは、鬱蒼としたジャングルの奥にあるノヴァの家へと戻ってきた。
夕闇が迫り、熱帯特有のまとわりつくような湿気が私たちの体力を奪っていく。
だが、それ以上に重くのしかかっていたのは、自分が先ほどまで行っていた「命を奪う」という行為に対して、禁忌感の麻痺だった。
私たちが帰ってきた足音を聞きつけると、立て付けの悪い木製の入り口の奥から、ノヴァが弾かれたように飛び出してきた。
「お姉さんたち!!」
彼女は満面の笑みだった。
泥と汗で汚れた顔に、純粋な喜びを弾けさせ、駆け寄ってくる。
そして、アカネさんの胸にギュッと抱きつこうと、小さな両手をいっぱいに広げた。
私たちのような日陰を歩く人間にとって、その無防備な好意はひどく眩しく、痛い。
だが。
ノヴァの広げられた手は、アカネさんの服——汚れを弾く特殊な素材でできているとはいえ、一見して高級で美しいと分かるその生地に触れる直前で、ピタリと止められた。
「あ……」
ノヴァは、自分の身体や手が、ひどい汗と泥にまみれていることに気づいたのだ。ハッとして、広げた腕を慌てて引っ込める。
私なんかが汚してはいけない。
それは、子供らしからぬ、あまりにも卑屈で悲しい遠慮だった。
彼女がこれまで、この集落でどのような扱いを受けてきたのかが、その一瞬の動作に痛いほど表れていた。
「……お姉さんたちが、無事でよかったよ!」
ノヴァは、空中で行き場を失った手を後ろ手に組み、儚く、寂しそうに微笑んだ。
自分を卑下することが当たり前になっている彼女にとって、その笑顔は精一杯の防衛本能なのだろう。
その笑顔を見て、アカネさんの瞳が微かに揺れたのが分かった。
感情を表に出さない彼女の、ほんの僅かな、しかし確かな動揺。
アカネさんもまた、かつて大人たちに利用され、孤独の中で心を凍らせていた過去がある。
ノヴァの姿に、自分を重ねているのかもしれない。
私たちは無言のまま家に入り、座って夕食の残りを口にした。
パサパサのキャッサバのパン。
だが、今の私にはどんなご馳走も喉を通らない気がした。
私は、自分のリュックから持ってきていた携帯食料のパックや、カロリー摂取用のチョコレートの束をすべて取り出し、ノヴァの前にドンと置いた。
「これ、全部あげる。……任務が終わったから、私たちは明日ここを出て行くね」
努めて感情を交えず、冷たくそう告げた。
ノヴァの瞳が少しだけ見開かれ、そして寂しそうに伏せられた。彼女の小さな手が、チョコレートの包み紙をそっと撫でる。
(これでいい)
私は自分に言い聞かせるように、奥歯を噛み締めた。
私たちが生きているのは、血と泥にまみれた影の世界だ。
これ以上、この子に深く干渉しても、お互いに辛いだけだ。
情を移せば、失う時の痛みが大きくなる。
両親を失い、サヤを奪われた私には、もうこれ以上何かを失う痛みに耐える自信がなかった。
私は逃げるように、土間に敷かれた粗末な敷物の上で横になった。
目を閉じても、頭に浮かぶのは、帰ると宣言した私に対して、ノヴァが眉尻を下げて「怪我しないで終わってくれて良かった」と呟いた顔だった。
自分が明日からまた孤独に捨てられることよりも、私たちの無事を喜ぶその姿。
(……どうもこの任務は、胸糞悪い)
それに、考えなければならないことは他にもある。ノヴァのあの能力だ。
私たちが集落の入り口で密猟者たちと対峙したあの瞬間、彼女はどう考えても私より先に状況全体を把握していた。
まるでその場で見てきたかのように、断言したのだ。
かつて戦ったミチルは感知系の魔法少女を謳っていたが、実際は壁越しに感情を視る能力だった。もしノヴァの力が『本物の空間感知』なのだとしたら――。
桐里ミチルのような理不尽な力を持つ者の恐ろしさは、私が一番よく知っている。
(どちらにしても……これ以上、私たちは責任を抱え込めない)
正直、今の私自身、サヤのことや田中への復讐のことでいっぱいいっぱいなのだ。
これ以上、他人の人生を背負う余裕なんてない。
重い思考を断ち切るように、私は深く息を吐き、そのまま浅い眠りについた。
* * *
ピピピピ……。
腕時計のアラーム音で、浅い眠りから目が覚めた。
薄暗い朝の冷気が、隙間だらけの家に入り込んでいる。
隣を見ると、アカネさんはまだ眠っていたが……彼女の腕の中には、ノヴァがすっぽりと収まり、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
泥で自分の服が汚れることなど一切気にせず、アカネさんはノヴァをしっかりと抱きしめて眠っていたのだ。
(……アカネさん)
その不器用な優しさに、私は少しだけ胸が締め付けられる思いだった。
私は二人を起こさないようにそっと立ち上がり、支給された衛星電話を持って外に出た。
朝露に濡れた草を踏みながら、クライアントに連絡を入れる。
「……予定より密猟者の人数が増えていたため、致死的な制圧を行いました。現在、生存しているのは最初の六名と追加の数名のみです」
事後報告となってしまったが、電話の向こうの担当者は、「問題ない」とだけ事務的に返答してきた。
人の命が奪われたというのに、その軽さに私は薄ら寒さを覚えた。
家に戻ると、二人も起きていた。
残りの携帯食料で、三人で最後の朝食を取る。
空気は鉛のように重かった。
ノヴァはずっと下を向いたままで、チョコレートを齧る音だけが小さく響いている。
アカネさんも無言で食事を咀嚼しているが、その視線は度々ノヴァへと向けられていた。
食事が終わり、出発の準備を整える。
私は、お礼になるかは分からないが、ポーチに入っていた手持ちの米ドル紙幣をすべて取り出し、ノヴァの小さな手に握らせた。
「ノヴァ、二日間ありがとう。私たちはこれで戻るから」
ノヴァの家の入り口でそう宣言し、私は冷たい自分を演じるように、後ろを振り返らずに歩き出した。
ザクッ、ザクッと、草を踏む私の足音に混じって、後ろからはアカネさんの足音だけが聞こえてくる。ノヴァがどんな顔をしているのか、アカネさんがどんな表情をしているのか、私は怖くて顔を見ることができなかった。
振り返れば、自分の決意が揺らいでしまいそうだったから。
集落の入り口に到着した。
ここでクライアントの手配した回収部隊を待たせてもらう事になっている。
ちょうど、私たちが丸太に縛り付けた密猟者たちを見張っていた族長もいたので、その旨を伝えた。
すると、族長はもみ手をしながら、遠慮がちに、だが下卑た笑いを隠しきれない様子で聞いてきた。
「お客人……我が集落の子を、連れていくつもりですかな?」
「はぁ?」
私は苛立ちを覚えながら、後ろを振り向いた。
そして、絶句した。
私の後ろを歩いていたアカネさんが、両手でしっかりとノヴァを抱っこしていたのだ。
ノヴァはアカネさんの首に腕を回し、驚いたように目を丸くしている。
アカネさんの服は、ノヴァの泥で軽く汚れていたが、彼女は全く気にする素振りも見せていなかった。
「お客人、その子は親無しの孤児でしてな。村の厄介者なのです。……三万米ドルでよいですが、いかがですかな?」
族長が、まるで家畜でも売り払うかのように、薄汚い笑顔で言った。
とてつもない怒りが沸点に達し、私は族長の顔面にクナイを突き立ててやろうかと本気で思った。
人の命に、たった三万ドルの値札をつけるこの腐りきった大人に。怒りで視界が真っ赤に染まりかける。
だが、怒りをぶつける前にアカネさんの顔を見た私は、振り上げた拳を下ろすしかなかった。
アカネさんは、絶対にこの手を離さないという、強烈で頑固な意志を込めた瞳で、私を真っ直ぐに見つめ返していたのだ。
かつて両親を亡くし、政府に利用され、孤独に震えていた自分自身を、ノヴァに重ね合わせているのだろう。
氷の魔法少女として感情を殺して生きてきた彼女が、初めて見せた「執着」だった。
(……はぁ。もう、どうにでもなれよ)
私は深い溜息をつき、もう一度衛星電話を取り出した。
クライアントに一部前払いの打診をしたところ、すげなく断られた。
だが、食い下がって「依頼料を半額に減らしても良いから、今すぐ三万ドル用意しろ」と交渉したところ、途端に色よい返事を貰えた。
動物の数も、命の値段も、依頼の報酬も、彼らにとってはただの数字遊びでしかないのだ。
族長に向き直り、「三万米ドルを、仲間の到着とともに支払う」と約束してやると、族長は小躍りしながら集落の奥へと戻っていった。
「ふぅ……」
私は頭を掻きむしりながら、アカネさんの腕の中にいるノヴァを見た。
「ノヴァ。アカネさんが勝手なことをしてゴメンね? でも……両親が眠る故郷を離れたくなければ、今からでも反故にすることはできるわよ?」
私の問いかけに対し、ノヴァはアカネさんの胸に顔を埋めたまま、小さく首を横に振った。
「ううん……多分、私一人だと、もって数年の命だったから、いいの」
そして、ノヴァは虚無を見つめるような瞳で、私に問いかけてきた。
「お姉さんたちが、私の命を使ってくれるの?」
――ドクン。
心臓を、太い針で貫かれたような衝撃だった。
大人のために働き、暴力を受け、挙句の果てに三万ドルで売られた子供。
彼女にとって、生きるということは「誰かに命を使われる」ことと同義だったのだ。自分の意志で生きる権利など、最初から与えられていなかった。
気が付いたら、私はノヴァの小さな体を、アカネさんごと強く、強く抱きしめていた。
「絶対に……絶対にそんな事はしないからっ!」
私の目から、ポロポロと抑えきれない涙が流れ落ちていた。
泥の匂いと、小さな命の温もり。
「あなたは道具じゃない! 最低でも、信用できる人の元に預けて、普通の生活を送らせてあげるから……っ!」
私が号泣しながら抱きしめていることに対し、ノヴァはどうしたらいいのか全く分かっていないようで、空中で手をモジモジと泳がせていた。愛情というものを忘れている彼女は、この温もりの受け止め方すら分からないのだ。
私は涙を拭い、アカネさんをキッと睨みつけた。
「アカネさん! 私もこの子の責任を一緒に持つよ。……でも、私の最優先はサヤを取り戻すことだから。それだけは忘れないで?」
私の厳しい言葉に対し、アカネさんはいつものように無表情でコクリとは頷かなかった。
彼女は、まるで分厚い氷が溶けた後のような、静かで熱い意志を持った瞳で私を見つめ返した。
「……ユキ。ノヴァは、私の妹だから。ユキは気にしなくていい」
アカネさんはノヴァの背中を優しく撫でながら、言葉を続けた。
「それと……、ノヴァのあの力……気になる事がある」
それだけで、お互いの考えは完全に理解し合えた。
アカネさんもノヴァの異常な感知能力に気づいており、それが今後の私たちの戦い――サヤを取り戻すための何らかの鍵になるかもしれないと、直感しているのだ。
ただの情だけではない。
私たちは修羅の道を歩む者として、あらゆる可能性を拾い上げなければならないのだ。
* * *
数時間後。帰りの飛行機の薄暗い機内で、私は目を閉じて事の顛末を思い返していた。
ノヴァを集落から切り離す事には、何の問題もなかった。
夕方に到着した環境保護団体――私たちのクライアント――は、三万米ドルの現金を気前よく持ってきてくれたので、そのまま族長に叩きつけてやった。
だが、問題はその後のクライアントの行動だった。
環境保護団体を名乗る彼らは、捕らえられていた密猟者たちのうち、必要な情報を持っているであろうリーダー格、もしくはその立場に近い五名だけを残し……残りの八名は、裏へ連れて行き、何のためらいもなく銃殺したのだ。
環境保護をうたっている団体は数多くあるが、私たちのお得意様はどうも裏社会に寄りすぎている。
今更ながら「闇ルートを潰すため」という依頼の名目も、ひどく嘘くさいものに感じられた。
彼らもまた、別の闇ルートを独占するためのマフィアか何かなのだろう。
正義の仮面を被った悪。
それは、私たちが憎むべき国家の姿と何ら変わりはない。
(……でも、今はもういい。ひとまず終わったんだ)
機内のブランケットを引き寄せながら、私は小さく息を吐いた。
隣の席では、アカネさんが不器用な手つきでノヴァにシートベルトを締め直し、ノヴァは安心しきった顔で眠りに落ちている。
泥だらけだった二人は、今は簡単な着替えを済ませ、少しだけ人間らしい温かさを取り戻していた。
私は、いついかなる襲撃があってもすぐに目が覚めるよう、半分覚醒した状態の浅い睡眠へと意識を落としていった。
これから向かう先には、さらなる泥沼が待っている。
サヤを救い出し、田中を討つための道は、まだ始まったばかりだ。
それでも、私たちは進むしかないのだと、胸の奥で静かに誓いながら、私は暗い機内のノイズに意識を委ねた。
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