悲しみが連続する世界
「私の名前はノヴァ。……困ってるみたいだったから。私の家、すごく狭いし汚いけど、外で寝るよりはマシだと思う」
少女の、突然の申し出。この過酷な環境で体力を温存できる屋根があるというのは、今の私たちにとって何よりもありがたいことだった。
「……ありがとう、ノヴァ。助かるわ」
私たちは二つ返事で彼女の誘いに乗り、お礼を言って家まで案内してもらうことになった。
案内されたノヴァの家は、村の端の、さらに奥まった場所にあった。
他の家々からは火の明かりや夕食を作る匂いが漂っているというのに、彼女の家だけは真っ暗で、何の生活音もしない。
茅葺き屋根は所々が崩れかけ、壁の泥も剥がれ落ちている。他の家よりもひと際狭く、そしてとても年季が入っていた。
「今、火をつけるから」
ノヴァは慣れた手つきで火をおこし、部屋の中央にある小さな囲炉裏のような場所に火を灯した。
炎の明かりに照らされた室内には、粗末な寝床と、最低限の生活道具しかない。人が生活しているような気配が、全く感じられなかった。
「ノヴァ、お父さんとお母さんはお出かけしているの?」
家主への挨拶をしなければと思い、私は尋ねた。
だが、その質問が、少女の心に触れてはいけない傷跡であることを、私はすぐに思い知ることになった。
ノヴァは、火の粉を見つめたまま、とても静かな声で答えた。
「……去年、二人とも死んじゃったの。象を守ろうとして、密猟者の人たちに、銃で撃たれて」
その言葉が、熱帯の夜の空気に、重く、冷たく落ちた。
「……!」
私は息を呑み、言葉を失った。
密猟者に、両親を殺された。
その事実が、三年前に両親を理不尽な陰謀で奪われた自分たちの姿と、痛いほどに重なってしまったからだ。
「……ごめんなさい。辛いことを、聞いてしまって」
私が絞り出すように謝罪すると、ノヴァは力なく首を振った。
「ううん、いいの。もう慣れたから」
どんよりとした重い空気を引きずりながら、私たちはノヴァの家の中へと足を踏み入れた。
土の床に座り込むと、一日の疲労がどっと押し寄せてきた。
だが、それ以上に、目の前で無理に笑顔を作っているこの小さな少女の孤独が、私の胸を締め付けていた。
沈黙を破ったのは、アカネだった。
彼女は、囲炉裏の火を見つめるノヴァに向かって、淡々とした声で話しかけた。
「ノヴァ……英語、すごく上手。誰に習ったの?」
アカネの言葉に、ノヴァは少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「お父さんが教えてくれたの。お父さん、昔は町の学校で勉強してて……『いつか、ノヴァが都会に出た時のために、英語だけは話せるようにしておけ』って。毎日、夜になると二人で練習したんだ」
昔を思い出すように語るノヴァの横顔は、とても穏やかだった。
だが、その『いつか』を共に喜んでくれるはずの父親は、もうこの世界にはいない。
「……そう。優しいお父さん、だね」
アカネは、感情を込めるのが苦手な彼女なりの精一杯の優しさで、短く相槌を打った。
ふと、アカネが小さく咳き込んだ。
長時間のジャングル行軍で、彼女の唇は乾燥してひび割れていた。
「喉、渇いた……?」
ノヴァが気遣うように尋ねると、アカネはコクリと頷いた。
「水筒の水、もう無くなっちゃったの。どこかで水を分けてもらえるかしら?」
私が尋ねると、ノヴァは「ちょっと待ってて!」と言って立ち上がり、壁に立てかけられていた使い古されたナタを掴んで外へと駆け出していった。
数分後。
「お待たせ!」
ノヴァが両手に抱えて戻ってきたのは、人間の腕ほどの太さがある、奇妙な形をした緑色の『蔓』だった。
「川の水は、夜は動物たちが集まるから危ないの。それに、慣れてない人が飲むとお腹を壊すから」
ノヴァがナタで蔓の両端をスパンッと切り落とすと、その切り口から、透明な液体がトロトロと漏れ出してきた。
「この蔓の中には、森が蓄えた綺麗な水がいっぱい入ってるの。こうやって、口に咥えて吸い取るんだよ」
ノヴァが手本を見せるように、蔓の端を軽く吸ってみせる。
「……ありがとう」
アカネは少し困惑したような顔をしながらも、蔓を受け取り、言われた通りに口に咥えてチューッと音を立てて吸い出した。
「……! 甘い。少しトロトロしてるけど……冷たくて、美味しい」
アカネのアイスブルーの瞳が、驚きと喜びでわずかに見開かれた。
「よかった! 森の恵みは、いつでも私たちを助けてくれるんだよって、お母さんがよく言ってたの」
ノヴァは、自分のことのように嬉しそうに笑った。
その日は、ノヴァからジャングルの様々なことを教えてもらった。
危険な虫の見分け方、食べられる木の実、密猟者たちが森につける不自然な足跡の特徴。
彼女は十四歳でありながら、この過酷な森を生き抜くための知恵を一人で身につけていた。
だが、話を聞けば聞くほど、彼女の孤独な現実が浮き彫りになっていった。
両親を失ったノヴァは、この村で完全に孤立しているのだという。
村の大人たちは自分の家族を養うことで精一杯であり、孤児の彼女を助ける余裕はない。
ノヴァが普段食べている物は、大人たちの農作業を手伝った対価として、たまに恵んでもらえるキャッサバのパンと、森で見つけたわずかな果物だけだ。
基本的に、毎日自分一人で食料を探し、自分一人で火を起こし、自分一人で眠りにつく。
それが、密猟者に親を奪われた彼女の、日常だった。
夜が深まり、私たちは眠りにつく準備をした。
ノヴァは「お客さんだから」と言って、なけなしのキャッサバのパンを私たちに分け与えてくれた。
パサパサとして味の薄いパンだったが、彼女の優しさが込められたその一口は、どんな料理よりも私たちの体に染み渡った。
「ありがとう、ノヴァ。おやすみなさい」
「おやすみ、お姉ちゃんたち。明日、密猟者の人たちに気をつけてね」
土間に敷かれた薄い毛布の上で、私はノヴァの小さな背中を見つめながら、横になった。
囲炉裏の火がパチパチと爆ぜる音が、静かな小屋の中に響いている。
(こんな小さな子が、親を殺され、たった一人でこの過酷な世界を生きているなんて……)
私の胸の奥で、激しい怒りと悲しみが入り混じった感情が渦巻いていた。
悪いのは密猟者だ。だが、それを取り締まれない国や、力のない者を放置するこの世界の理不尽さが、ノヴァのような悲劇を生み出している。
もし、私たちが彼女を連れてアメリカに帰れば、ユカリさんの力で彼女に普通の生活を与えられるかもしれない。保護施設に入れることもできるだろう。
私は、彼女の孤独な境遇に、自分たちの過去を重ね合わせ、辛い現実に震えた。
――だが。
私はギュッと目を閉じ、自分の心の中に湧き上がった『同情』という甘い感情を、冷たい刃で切り捨てるように押し殺した。
(ダメだ。……これ以上、彼女に干渉してはいけない)
私たちには、果たすべき絶対の目的がある。
サヤを必ず奪還し、日本でふんぞり返る田中の首を落とすという、血みどろの復讐。
私たちは、すでに泥と血に塗れた修羅の道を歩んでいる。
そんな私たちが、この純粋な少女の人生を背負い込むことなどできるはずがない。
中途半端な優しさは、かえって彼女を危険な裏社会に巻き込み、さらなる絶望に突き落とすだけだ。
私たちも自分のことで、精一杯なのだ。
私は、隣で静かな寝息を立てるアカネと、丸くなって眠るノヴァの背中を見つめながら、己の心の弱さを戒めた。
明日から始まる、見えざる敵とのジャングルでの死闘。
そこには、同情も感傷も必要ない。ただ冷徹に、与えられた任務を完遂し、力をつけることだけが、私たちがサヤの元へ辿り着くための唯一の道なのだ。
私は、左手の手袋を胸元で固く握りしめ、暗闇の中で静かに眠りへと落ちていった。




