熱帯の檻と、孤独な少女
むせ返るような熱気と、肺にへばりつくような濃密な湿気が、飛行機のタラップを降りた瞬間に全身を包み込んだ。
「……暑い」
隣を歩くアカネが、コートの襟元をわずかに緩めながら呟いた。普段は涼しげな顔をしている彼女でさえ、このアフリカ特有の暴力的な気候には辟易しているようだった。
目的地、リベリア共和国の南東部。
私たち用に手配された小型チャーター機は、赤茶けた土が剥き出しになっただけの粗末な滑走路に私たちを下ろすと、パイロットが窓越しに陽気なサムズアップを残し、瞬く間に飛び去っていった。
巻き上げられた土埃が晴れると、そこには文明の気配など微塵もない、圧倒的な大自然だけが広がっていた。
私は空高く消えていく機影を見つめながら、大きく息を吐き出した。
ここから先は、完全に私たちだけの戦いになる。
ユカリさんが事前に用意してくれたメモによれば、このジャングルの奥深くに住む現地の部族が、今回の私たちの協力者だという。
だが、協力者と言っても、彼らが自ら武器を取って戦ってくれるわけではない。
密猟者たちが狙う獲物――象や希少動物が多く集まる場所を教えてくれる程度の、あくまで情報提供者に過ぎない。
手元に残された支給品は、心許ないほど少なかった。
方位磁針と、大まかな地形しか書かれていない簡易的な紙の地図。ターゲットを捕縛するための頑丈な手錠が数個。そして、分厚いプラスチックのケースに収められた衛星電話機が一つだけ。
この電話は、何かあった場合……いえ、ミッションコンプリート時に、ターゲットを引き渡す連絡の時のみに使えと渡された物だ。
つまり、私たちに何かあっても助けは期待できないということだ。
「……ユカリさんがいないと、やっぱり少し不安ね」
私は苦笑交じりに呟いた。
これまで、どんな裏仕事でもユカリさんの完璧なバックアップがあった。
逃走ルートの確保、監視カメラの無力化、敵の通信の傍受。
彼女の目と耳があったからこそ、私たちは暗闇の中でも迷うことなく刃を振るうことができた。
だが、この広大なジャングルでは、その全てが封じられた。
(でも、これは必要なことだ)
私は自身に動かない左手をギュッと握りしめた。
田中ヒトシを殺し、サヤを取り戻すためには、どんな過酷な環境でも戦い抜けるだけの純粋な『個の力』が必要だ。
ユカリさんのサポートに依存しきったままでは、いざという時の対応力が鈍る。
これは、私自身が忍びとしての本能と五感を研ぎ澄ますために、絶対に必要な訓練なのだと心に割り切った。
「アカネさん、行くわよ」
私が声をかけると、ジャングルの入り口付近でしゃがみ込んでいたアカネが、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の視線の先では、エメラルドグリーンと赤の斑模様を持つ奇妙なトカゲが、カサカサと乾いた音を立ててシダの葉の裏へと逃げ込んでいくところだった。
「……トカゲ、色が綺麗だった。凍らせて持って帰りたかった」
「そんなことをしたらユカリさんが悲鳴を上げちゃうよ。さあ、まずは協力者の部族に会いに行こう」
名残惜しそうにシダの葉を見つめるアカネを促し、私たちはジャングルの中へと足を踏み入れた。
* * *
見渡す限りの、広大なジャングル。
木々がどこで途切れるのか、全く見当もつかない。
密集した太い枝と巨大な葉が太陽の光を遮り、真昼だというのに内部は薄暗く、不気味な静寂と、名も知らぬ虫や鳥たちの甲高い鳴き声だけが支配していた。
足元はぬかるみ、張り巡らされた木の根や蔓が、まるで意志を持った罠のように私たちの足を絡め取ろうとする。
整地されていない密林を歩くということが、これほどまでに体力を奪うものだとは想像以上だった。
ジャングルの道なき道を歩き続けて、すでに数時間が経過していた。
「はぁっ……はぁっ……」
私の額からは滝のように汗が流れ落ちて目にしみた。基礎体力が高い私でさえ、この暴力的な湿気と熱気には息が上がる。
ましてや、基礎体力が一般の少女と変わらないアカネの疲労は、計り知れないものだった。
「アカネさん、大丈夫? 少し休む?」
私が振り返ると、アカネは無表情のまま、荒い息を吐きながら小さく首を横に振った。
「……平気。まだ、歩ける」
自前で用意した装備は、水筒と二日分の携帯食料のみ。
アカネが腰に下げている水筒を振ってみると、チャプ、と微かな音が鳴るだけだった。すでに中身は空に近い。
「氷の魔法を使って、身体を冷やしたり、水を作ったりしないの?」
私が尋ねると、アカネは額の汗を手の甲で拭いながら答えた。
「……ダメ。いつ敵が出るか分からないから温存する。それに、体力をつけるってナオフミと約束したから。魔法に頼らない」
その言葉に、私は目を見張った。
以前のアカネなら、少しでも不快なことがあれば、すぐに魔法の冷気で周囲を凍らせて自分だけの快適な空間を作っていただろう。
だが今の彼女は、自分の弱点である体力を補うため、そしてサヤを救出する戦いに備えるため、あえて過酷な環境に身を置き、歯を食いしばって耐えているのだ。
その静かな、しかし確かな成長に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「そうね。二人で強くなろう」
私はアカネの背中を軽く叩き、再び前を向いて歩き出した。
それからさらに数時間、計半日かけて歩いたところ、鬱蒼とした木々の隙間から、不意に視界が開け、煙の匂いが漂ってきた。
「……あそこ」
アカネが指差した先には、太い丸太と茅葺き屋根で作られた質素な家屋が、ぽつぽつと点在する集落が見えてきた。
集落の入り口には、木の棒に括り付けられた布が風に揺れている。
その布には、ユカリさんが事前情報で教えてくれた、この部族特有の幾何学模様が描かれていた。
間違いない、目的の協力者の部族だ。
私たちが集落に近づくと、周囲で農作業や水汲みをしていた村人たちが、一斉にこちらへ警戒の目を向けてきた。
彼らの手には、鋭いナタや槍が握られている。
東洋の少女二人が、武装もせずに密林から突然現れたのだ。不審に思われるのは当然だった。
私は敵意がないことを示すために両手を軽く上げながら、ゆっくりと村の広場へと進んだ。
ユカリさんが作ってくれた、現地の言葉と英語の対訳が書かれた手作りの単語帳をポーチから取り出す。
「ええと……『私たちは、依頼受けた。密猟者を捕らえる。族長に会いたい』……」
私がたどたどしい発音で現地の言葉を口にすると、村人たちは顔を見合わせ、やがて一人の筋骨隆々な青年が歩み出て、私たちを村の奥へと案内してくれた。
案内されたのは、集落の中心にあるひと際大きな茅葺きの小屋だった。
中に入ると、顔に独特のペイントを施した初老の男が、土間に敷かれた絨毯の上で胡座をかいていた。彼がこの村の族長らしい。
「よく来られた」
族長の口から発せられたのは、訛りの強い、しかしはっきりとした英語だった。
私は少し驚いたが、すぐに納得した。
この国の公用語は英語であるため、集落にも外部の人間と接触する役目を持つ者は、ある程度喋れるのだろう。
私たちも、アメリカに渡ってから毎日ユカリさんに英語を教え込まれているため、日常会話程度ならなんとか意思疎通ができるはずだ。
「あなたが族長ですね。環境保護団体からの依頼で来ました。ターゲットは、この森を荒らす密猟者の武装グループです」
私が真っ直ぐに族長の目を見て言うと、族長は鋭い眼光で私たちを値踏みするように見つめ返した。
細身の東洋の少女二人。武器らしい武器も見当たらない。こんな子供に、重火器を持った密猟者が狩れるのかと、明らかに疑念の目を向けている。
「……お前たちのような娘が、捕まえられるとは思えん。が、まあいい、情報だけなら提供しよう」
族長は不愛想にそう言うと、傍らにあった粗末な地図を広げた。
「奴らが狙っているのは、主に象牙だ。この村から北西へ半日ほど歩いた水場付近で、象の群れがよく目撃されている。後はこことここだ」
族長は、地図の数箇所を指さしたので、私は慌てて支給された紙の地図に印をつけた。
「情報提供、感謝します。必ず奴らを捕縛して見せます」
私は地図を受け取り、深く頭を下げた。
しかし、地図に記されたポイントを見て、私は内心で舌打ちをした。
(……遠い。ここから半日もジャングルを進むなんて。しかも、奴らがいつ現れるか分からない以上、数日間は現地で張り込みをする必要があるわ)
私は、なかなか帰れないかもしれないと腹を括った。
今日はすでに日が暮れかかっており、夜のジャングルを行軍するのは、地の利がない私たちにとって自殺行為だ。
「族長。今日はもう日が暮れます。明日の朝に出発したいのですが、この村で休める場所はありませんか?」
私が尋ねると、族長はフンと鼻を鳴らした。
「森の掟だ。好きなところで寝ていい。だが、よそ者を家に入れて泊めてくれる者がいるかどうかは、ワシの知ったことではない。食べ物も、自分たちで交渉して手に入れろ」
見事なまでの放任主義、あるいはよそ者への冷遇だった。
小屋を出た私たちは、単語帳を片手に村の中を回り、泊めてくれる家を探した。
しかし、村人たちの反応は冷たかった。彼らにとって、私たちは自分たちの生活を脅かすかもしれない異物でしかない。
単語帳に書かれた片言の言葉では、私たちの誠意を伝えるには不十分であり、難しい言い回しや交渉の言葉も載っていなかった。
「ダメみたいね……。どの家も、首を横に振るばかりだわ」
私が肩を落とすと、アカネも力なくコクリと頷いた。
「……仕方ない。野宿する。火を起こせば、虫は寄ってこない」
途方に暮れた私たちは、村のはずれにある大きな木の下で、諦めて野宿の準備を始めようとした。
「お姉ちゃんたち、私の家でもいいならおいでよ」
不意に、背後から流暢な英語で声がかけられた。
驚いて振り返ると、そこには、先ほどから遠巻きに私たちをじっと見つめていた、一人の黒人の少女が立っていた。
擦り切れた粗末なワンピースを着て、裸足のまま土の上に立つ彼女は、年の頃は十四歳くらいだろうか。大きな瞳には、私たちに対する好奇心と、どこか大人びたような寂寥感が混ざっていた。
「英語が話せるの?」
私が驚いて尋ねると、少女は小さく頷いた。




