異端の忍び、とても静かな男
アメリカ西海岸の郊外。
日中の照りつけるような日差しが嘘のように、深夜の住宅街はひんやりとした静寂に包まれていた。等間隔に並ぶ街灯のオレンジ色の光が、手入れの行き届いた芝生と立派な一軒家をぼんやりと照らし出している。
私は、対象の家から少し離れた街路樹の太い枝の上に身を潜め、暗視スコープ越しに玄関の様子をじっと監視していた。
ユカリさんが特定した、SNSにクナイの写真をアップロードした女性の自宅。
もしこの家に、かつて政府の束縛を嫌って海外へ逃れた「本物の忍び」が暮らしているのだとすれば、絶対に接触を果たさなければならない。サヤを取り戻すための手がかりが、是が非でも欲しい。
(……焦っちゃダメ。相手が本物の忍びなら、こちらの監視に気づく可能性もある)
私は冷たい夜風で高ぶる心を鎮めながら、五感を極限まで研ぎ澄ませた。
左手の分厚い鉄の手袋の中でギミックを確認する。だが、どれだけ強力な暗器を仕込もうとも、繊細な動きを封じられた今の自分が、かつてより強くなったとは思えなかった。
その喪失感が、ふとした瞬間に私の胸を暗く締め付けた。
――その時だった。
「泥棒か?」
突然、私の背後、首筋に息がかかるほどの至近距離から、呆れたような若い女性の声がした。
「……ッ!」
気配は全くなかった。風の揺らぎも、衣擦れの音も、殺気すらも。
私は心臓が跳ね上がるのを無視し、反射的に枝を蹴った。数メートル後方の別の枝へと音もなく飛び退き、空中で身を翻して声の主と対面する。
そこに立っていたのは、SNSの写真に写っていた女性――ユカリが『ジョアンナ』と特定した人物――ではなかった。
ラフなパーカーにデニムという出で立ちの、二十代前半と思われる女性だ。プラチナブロンドの髪を後ろで無造作に束ねた彼女は、街路樹の枝の上という不安定な足場に、まるで平地を歩くかのように自然体で立っていた。
「私と正面切って戦うつもりか? いい度胸だな?」
女性は余裕の笑みを浮かべて挑発してくる。月明かりに照らされた彼女の瞳には、一切の恐怖がない。むしろ、獲物を見つけた猛禽類のような鋭い闘志が宿っていた。
私は無言のまま、動かない左手を庇うように半身に構え、右手にクナイを握りしめた。重心を落とし、いつでも迎撃、あるいは逃走できる体勢に入る。
その瞬間――フッ……と、目の前にいたはずの女性の姿が、陽炎のようにかき消えた。
(消えた!?)
いや、違う。魔法少女のような理不尽な魔法ではない。私の瞬きのタイミングを完璧に読み切り、死角へと滑り込む純粋な体術。それは、私が血を吐く思いで習得した忍びの歩法『無影』そのものだった。
微かな風の巻き込みと、背後の威圧感。
敵が私の真後ろに回り込んだと判断した私は、振り向きざまに、全体重を乗せて右手のクナイを下段から振り抜き、敵の喉元を狙って斬り上げた。
だが。
ガギィンッ!
火花が散るような硬い金属音が鳴り響いた。
同時に、私が突き出したクナイの刃の側面に、信じられないほど重い「鉄の塊」がのしかかり、右腕全体がビリビリと痺れた。
「くっ……!」
「良い反応だが、このまま引き金を引けば終わりだ。投降しろ!」
背後に回り込んだ女性は、私のクナイの軌道を、手にした拳銃の重厚な銃身で完璧に押さえ込んでいた。
スターム・ルガーSP101。鈍く光るステンレスの銃口が、私の額を正確に捉えている。
筋力、体捌き、そして近代兵器の質量と忍術の歩法を融合させた未知の戦術。私の渾身の一撃は、銃の重みと絶妙な技術によって、いとも容易く制圧されてしまったのだ。
これが、海を渡り、この広大な異国の地で独自の進化を遂げた忍びの技なのか。
私の背筋に、冷たい汗が流れ落ちた。左手のギミックを作動させれば相打ちには持ち込めるかもしれないが、目的は殺し合いではない。
「そこまでにしなさい」
一触即発の空気を切り裂くように、街路樹の下――監視していた家の中から、深く、それでいて海のように落ち着いた声が響いた。
「チッ……」
銃を構えていた女性は、短く舌打ちをすると、躊躇うことなく銃を下ろしてセーフティをかけた。
「運が良かったな。親父の命令だ」
家の中から聞こえたその声には、有無を言わさぬ絶対的な覇気が宿っていた。
「お客人も入りなさい」
私はゆっくりとクナイを下げ、大きく深呼吸をした。
ここで抗戦しても勝ち目はないし、そもそも目的は情報収集だ。信用を得るため、私は敵意がないことを示すように両手を少し上げ、彼女の後に続いて街路樹を降り、家の中へと足を踏み入れた。
***
案内されたリビングは、アメリカの一般的な家庭の風景の中に、そこだけ切り取られたように和の空間が混ざっていた。フローリングの上に敷かれた畳のラグ、壁に掛けられた掛け軸。
「ナオフミだ」
和服姿で座椅子に腰掛け、静かに緑茶を啜っていたその中年の男は、短くそう名乗った。
先ほど私を圧倒した女性は「ナタリー」という名の彼の娘らしく、私を鋭く睨みつけた後、「私は部屋に戻る」と吐き捨てて奥の自室へと戻っていった。
「座りなさい。遠路はるばる、苦労しただろう」
私が同郷の忍びであると察したのか、ナオフミは座布団を勧め、もう一つの湯呑みに温かい緑茶を注いでくれた。
「……いただきます」
勧められるままに緑茶を一口飲む。深く、懐かしい香りが、張り詰めていた私の神経を少しだけ解きほぐした。アメリカに来てから、こんなに落ち着く味に触れたのは初めてだった。
私は意を決し、懐から愛用のクナイを取り出すと、コトリとテーブルの上に置いた。
「これ、私の家に伝わるクナイです。SNSで同じ型の写真を見つけて、お話を伺いに来ました」
ナオフミは緑茶の湯呑みを置き、黙って私の目を見つめてきた。
まるで奥底まで見透かされるような、深淵な目だった。微細な筋肉の動き、呼吸の乱れ、瞳孔の収縮――相手のあらゆる物を観察されている気がする。嘘など決して通用しないと、本能が警鐘を鳴らしていた。
私は姿勢を正し、要点を掻い摘んで、これまでの経緯を正直に打ち明けた。
両親が政府の裏仕事をこなす一流の忍びであったこと。巨大な陰謀に巻き込まれ、無惨に殺されたこと。復讐を誓い、魔法少女という国のシステムに挑んだこと。
そして――返り討ちに遭い、愛する妹が敵の手に落ちてしまったこと。
「どうか、妹を助けるために力を貸してください。海外に渡った忍びのネットワークがあるなら、どんな情報でもいいんです」
私はテーブルに額をこすりつけるようにして、深く頭を下げた。
すべてを聞き終わったナオフミは、静かに目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「……お前の両親や妹のことは、残念だったと思う」
彼はテーブルの上のクナイを一瞥し、言葉を続けた。
「だが、直接助けるのは無理だ」
その言葉に、私の心が冷たく沈みかける。
「私には、守るべき家族がいる。無謀な復讐の片棒を担いで、この平穏を捨てるわけにはいかない。日本の政府と真っ向から喧嘩をするなど、自殺行為だ」
正論だった。彼らは政府から逃れ、この地で普通に暮らす平穏を手に入れたのだ。見ず知らずの娘の復讐のために、それを投げ捨てる義理などない。
「……ですが」
私が顔を上げようとしたとき、ナオフミは静かに言った。
「行くところが無いなら、この家に居なさい。ここは安全だ。隠れ家くらいにはなる」
同情からの庇護。それは彼なりの最大限の温情だった。
だが、私が求めているのは安全な場所ではない。戦うための力だ。
「……お心遣い、感謝します。ですが、私一人では決められません。仲間に相談して、また明日伺います」
私は深く頭を下げ、冷めた緑茶を飲み干すと、ナオフミの家を後にした。
***
監視を終えて戻った、深夜のアパート。
リビングのモニター前で、私はユカリさんとアカネに事の顛末を報告した。
「……本当に信用できるの? 匿ってくれるふりをして、政府に売り飛ばす巧妙な罠かもしれないわよ」
ユカリさんが爪を噛みながら、モニターに映るナオフミとジョアンナの経歴データを睨みつける。
「ジョアンナのSNSの投稿も、私たちを誘い出すための餌だったとしたら……」
アカネはココアの入ったマグカップを両手で持ちながら、相変わらず感情の読めないアイスブルーの瞳を私に向けた。
「……ユキが、決めるなら従う。もし罠なら、私が全部凍らせる」
物騒なことを淡々と言うアカネだが、その言葉には私への絶対的な信頼が込められていた。
「罠じゃないと思う。あの人の目は、嘘をつくような目じゃなかった」
私は自身の動かない左手――鉄鋼で覆われた手袋を見つめた。
「それに、私は、あの家に拠点を移したい」
ユカリさんが驚いたように顔を上げる。
「私は今日、ナタリーという娘と手合わせしたの。ほんの一瞬の交戦だったけど……そこには、私が全く知らない技術が詰まっていた……」
私は左手の手袋をギュッと握りしめた。
「私の左手はもう、繊細な技術は使えない。クナイの重心を測ることもできない。今のままじゃ、田中には絶対に勝てない。サヤを取り戻すためには、私はもっと強くなる必要があるの。あの人たちから、新しい技術を学びたい」
妹を失った悔しさと、自身の無力さに対する焦り。私が必死に訴えかけると、ユカリさんは追い詰められた目をした。
重いため息をつき、やがて呆れたように笑った。
「……分かったわ。ユキちゃんがそこまで言うなら、信じてみる。でも、少しでも怪しい素振りを見せたら、すぐに撤退するわよ」
「最悪のケースになったら、アカネちゃんに暴れてもらうわ」
「……任せて。一瞬で、氷漬け」
アカネが小さく頷いた。
私たちは夜明けと共に荷物をまとめ、証拠を残さずにアパートを引き払った。
朝日が照らす中、三人でナオフミの家の前へと立つ。
これからの生活がどうなるかは分からない。
だが、サヤを取り戻すための、新しい技術と力を手に入れるためなら、私はどんな泥でもすする覚悟だった。
「行くよ」
私は二人に頷きかけ、決意を込めて、ナオフミの家の玄関の扉を力強く叩いた。




