引き裂かれた勝利、明かされる真実、そして別れ(後編)
「心優しい私は、残り少ない時間を自由にさせてあげるさ。妹たちと別れの挨拶をする時間くらいはあるだろう?」
壁の向こう側から、田中が狂ったように笑いながら言い放った。
水かさは容赦なく増していき、すでに水位は膝の高さまで到達していた。
私は田中の気持ち悪い笑い声を聞きながら、必死にサヤの体を揺すった。
気絶したアカネが溺れないよう、なんとか身体を引き起こして鉄の壁に寄りかからせる。
「サヤ! サヤ! 起きてッ!!」
何度も揺すられ、冷たい水に浸かったことで、サヤが薄く目を開けた。
「聞こえてる、ってば……」
弱々しい声だったが、確かに私の声に応じた。
「ゴメン! サヤ、ごめんなさいッ!!」
私はボロボロと涙を流し、泣き叫んだ。
「私が復讐なんて言って巻き込んだから! 私が未熟だったから! ゴメン、ゴメンッ! ゴメンッ!!」
私は最後の力を振り絞り、重い右腕を回して、サヤの体をきつく、きつく抱きしめた。
両親が守りたかった平穏な未来を、私の身勝手な執念が奪ってしまった。
こんな冷たい水の中で、妹を死なせてしまう。
姉としての不甲斐なさに、心が完全に壊れそうだった。
「……泣かないでよ、お姉ちゃん」
サヤは、水の中で血に染まった手を伸ばし、私の背中を優しく撫でた。
「お姉ちゃんがやらなかったら、私一人でやってたよ。……私たちは、一緒に戦ったんだから」
水位はすでに腰まで迫っている。冷たい水が体温を奪い、感覚が麻痺していく。
「……それより、本当に時間がもう無さそう。お姉ちゃん、なんとか……やっぱ、ならないよね」
サヤの言葉に、私はどうしようもないと伝えるように、ただ強くサヤを抱きしめることしかできなかった。
水面を見ながらサヤが呟く。
「……あっちで、お父さん達が……私たちの代わりに、あの日のクリスマスの準備をして、待っててくれてるかな?」
サヤは、凍える唇で無理して微笑んだ。
その顔は、三年前のあの日、ケーキを楽しみにしていた無邪気な妹の顔と同じだった。
私はボロボロと涙をこぼし、水と血に塗れた顔で笑い返した。
「そうだね! 私たちが一番大きなケーキを買ってくるのを、待っているよ!」
私の言葉を聞いて、サヤは腕を回し、私の背中に強くしがみ付いた。
そして、彼女の目から大粒の涙が溢れ出し、水面に波紋を作った。
「お姉ちゃん……私、やっぱり悔しいよ」
サヤは、痛いくらいに私の腕をギュッと掴んだ。その力は、死への恐怖と、どうしようもない無念さに満ちていた。
「それに、私、お姉ちゃんに死んでほしくない! どうしても、お姉ちゃんには生きて、幸せになって欲しいッ!!」
サヤの魂からの絶叫が、水牢の中に響き渡った。
その時だった。
――奇跡が、起きた。
「え……?」
サヤが私を掴んでいた腕を中心にして、突如として私の身体の輪郭が、霧のように薄く透け始めたのだ。
水牢の冷たい水の感覚が消え、まるで私自身が物理法則を無視した『幽霊』になっていくかのように。
「戻れッ!」
サヤが慌てて叫ぶと、薄れかけていた私の身体が、再び現実の重さと実体を取り戻した。
私とサヤは、驚愕して視線を合わせた。
対象を一時的に『水蒸気化』させる超常の力。
(嘘でしょ……まさか!)
私はその力の正体に気づき、愕然とした。
皮肉なことに、それは私たち忍びの姉妹があれほど憎み続けてきた『魔法少女の力』そのものだった。
極限の絶望と、姉を生かしたいという強烈な自己犠牲の祈りが引き金となり、サヤの内に眠っていた魔法少女の資質を強制的に覚醒させたのだ。
サヤは、自分の手に宿ったその力の意味を、一瞬で悟ったのだろう。
彼女の顔から恐怖が消え、精一杯の、本当に美しい笑顔を作った。
「お姉ちゃん……ずっと私と一緒に居てくれて、ありがとう。大好き」
サヤは、私の顔にそっと手を伸ばした。
「……先にお父さんたちの元に行くね」
「サヤッ!! やめ――!!」
私が叫んだ時には、既に遅かった。
サヤの力により、私と、隣で気絶していたアカネさんの身体は完全に輪郭を失い、空中に漂う『水蒸気のような何か』に変わっていた。
水牢の中の冷たい水は私の体をすり抜け、私は水中で呼吸をすることも、壁を殴ることもできなくなった。
サヤを抱きしめようと腕を伸ばしても、私の手は虚しく彼女の体をすり抜けるだけ。
自分では何も動けず、現実の世界に一切の干渉ができない状態。
続けてサヤは、私に微笑みかけたまま、自ら冷たい水の中へと沈んでいった。
『サヤ! サヤぁぁぁぁっ!!』
私は声にならない絶叫を上げたが、水蒸気と化した私の声は空気を震わせることなく、誰の耳にも届かない。
* * *
その後の事も、私はよく覚えている。
水牢の中から私たちの苦しむ声が全くしなくなったことを訝しんだ田中が、魔女に命じて鉄の檻を解除させたのだ。
ザーッ! と大量の水が屋上に溢れ出し、そこには、すでに意識を失い、ぐったりとしたサヤが一人だけ倒れていた。
「……なんだと? 後の二匹はどうした!?」
田中が驚愕の声を上げる。
私の姿は田中には見えていない。
私は透明な状態のままサヤの傍に寄り添い、彼女を助け起こそうと何度も手を伸ばしたが、やはり私の手は虚しく空を切るだけだった。
「もしかして魔法に目覚めたか? ……これはいい、目的は達した上に実験体が手に入った。こいつを運べ!」
田中の命令で、魔女の一人がサヤの体を無造作に担ぎ上げた。
そしてそのまま、ヘリコプターへと乗り込んでいく。
『やめて! サヤを返してッ! 行かないでサヤぁっ!!』
私は透明な状態のまま、飛び立つヘリコプターに向かって必死に手を伸ばした。だが、ヘリは爆音を立てて夜空へと舞い上がり、あっという間に闇の中へと消えていった。
私とアカネが、再び現実に干渉できる実体を取り戻したころには、すでにサヤが攫われてから十分以上の時間が経っていた。
生温かい夜風が吹き抜ける、無人の屋上。
そこには、冷たい水たまりだけが残されていた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
私の絶叫が、夜空に響き渡った。
涙が滝のように溢れ出し、私はコンクリートの床を、拳の皮が破れるまで何度も何度も殴りつけた。
「悔しぃ! くやしぃ!! くそぉっ!!!」
自分だけが生き残ってしまった罪悪感。妹を守れなかった己の弱さ。
そして、私たちを徹底的に弄び、サヤを奪い去った田中ヒトシへの、底知れぬ憎悪。
「たなかぁぁぁぁっ! 絶対に……絶対に殺してやる!!!」
感情の臨界点。極限の怒りと悲しみ、そして真っ黒な殺意が、夜の闇の中で爆発した。
* * *
――アメリカ某所。
ネオンの光が泥水に反射する、薄暗く湿った路地裏。
私は音もなく標的の背後に滑り込み、鋼糸を使って一瞬のうちにその太い首の骨をへし折った。
「……任務完了」
私は標的が完全に動かなくなったことを確認し、黒いマスク越しに短く呟いた。
死体をゴミ箱の裏に隠しながら、私はふと、あの夜の出来事を思い出す。
あの日、サヤが奇跡を起こし、自己犠牲の魔法によって私は生き残った。
『手に触れたものを一時的に水蒸気化する力』――サヤが最後に残してくれたあの魔法は、私を死の淵から救い出した代償に、サヤ自身を田中の元へと置き去りにしてしまった。
それ以降、サヤの生死は不明だ。
田中がサヤをすぐに殺したとは考えにくい。
『魔女』として洗脳し、新たな手駒にするつもりなのかもしれない。
「……ユキ。報告の時間が近い。ユカリが心配する」
路地裏の入り口から、黒いコートに身を包んだ銀髪の少女――アカネが静かに声をかけてきた。
彼女の目は、かつての無機質な氷ではなく、共に地獄を生き抜くバディとしての確かな熱を帯びている。
「ええ、すぐに行くわ」
私は左手の手袋を触って、夜空を見上げた。
(もう少し余力を残す事ができたなら……いや、最初からあの罠に乗らなければ)
何度あの日の事を思い出し、後悔したか分からない。
夢の中でサヤが沈んでいく姿を見るたびに、私は自分の無力さに発狂しそうになった。
私とアカネは、ユカリさんの手引きで日本を脱出し、ここアメリカの裏社会で『フリーの暗殺者』として力を付ける道を選んだ。
徳頭に成り代わった田中が支配する今の日本では、息をすることすら命がけだ。
私たちが生存している事が万が一にもバレてしまえば、体制を整えた田中に今度こそ消され、『復讐』が永遠に達成できなくなるからだ。
(サヤ……待っててね)
私は腰のポーチにクナイを収め、暗闇の中で瞳を鋭く細めた。
お父さんとお母さんの元に持っていくのは、特大のクリスマスケーキじゃない。
私たちのすべてを奪った、田中ヒトシの首だ。
そして、その時には必ず――サヤを取り戻す。
私は、遠く海を隔てた日本の空に向かって、どうにかサヤに生きていて欲しいと祈りながら、冷たいアメリカの夜の闇へと歩き出した。
(エピソード1 完)
ここまでお読みいただきありがとうございました。
深く感謝申し上げます。
今後の予定につきましては、活動報告に記載させていただきます。
本当にありがとうございました。




