決戦⑦――手繰り寄せた祈り、代償と鋼糸の蜘蛛の巣
ポタ、ポタ、ポタ……。
深夜の冷え切ったビルの屋上に、ひどく場違いな、生々しい水音が響いていた。
それは、私自身の体内から流れ出た温かい血が、無機質なコンクリートの床に叩きつけられ、赤黒い染みを広げていく音だった。
「っ……あ……!」
脳の奥底で、警鐘のように危険信号が鳴り響いている。
視線を落とせば、私の左手のひらには、ぽっかりと恐ろしい穴が空いていた。
そこから止めどなく、粘り気のある赤い液体が溢れ出している。
ダガーの鋭利な刃が肉を裂き、手のひらの細い骨を砕き、神経を無惨に断ち切ったのだ。
呼吸をするたびに、患部から全身へと爆発的な激痛が走り抜け、視界の端が白く明滅する。
だが、その嘔吐を催すほどの激痛こそが、私が今この瞬間に「生きている」という何よりの証明でもあった。
先ほどの私の無謀な攻撃。
私は、目の前に立つ化け物――徳頭サトミチの放った凶刃の軌道を、完璧に見抜いていた。
徳頭も忍びなら、こちらのフェイントを必ず避けて、最も確実かつ最短の距離で、私の心臓を正確に狙い澄ますだろうと信じたのだ。
だからこそ、あえて心臓への軌道上に左手を差し出し、左手を犠牲にすることで、この『最後の仕掛け』を完成させることを優先した。
私は忍びだ。理不尽な超常現象を起こす魔法少女とは違う。
父と母から血反吐を吐くような修行を強いられ、肉体と精神の限界を超える技術を叩き込まれてきた、日陰を生きる者。
左手を犠牲にするという狂気の決断。
限界を超えた忍びの冷徹な思考回路と、一瞬の躊躇も許さない覚悟だけが成し得た、生存のための絶対的な代償だった。
「無駄なことを……」
私の左手から乱暴にダガーを引き抜き、徳頭の口から、苛立ちと侮蔑に満ちた低い声が漏れた。
彼は、ダガーから滴る私の血を忌々しそうに振り払い、怒りで血管が浮き出た充血した目で私を強く睨みつけた。
「忍びのよしみとして、これ以上苦しませずに家族の元へ送ってやろうとしたのに……。 お前たちは相変わらず、俺の心が分からんのか!」
徳頭が、夜の闇に向かって怒号を上げた。
「俺は、俺は国を救うために……! これが、これが正義なのだ!」
その声には、自分自身の行動に対する絶対的な「正当性」への疑いのなさが満ち満ちていた。
彼は、自分が国という巨大な船を動かすことにより、消えた忍びの里――いや、家族が報われると本気で信じている。
だが、巨額の予算を動かし、魔法少女という偽りの英雄をプロデュースし、操り、最後は平然と操り人形にして使えなくなったら切り捨てる。
彼の中に「正義」など既に無く、あるのは歪んだ「復讐心」だけなのだと、私は確信した。
(……あなたの心なんて、分かりたくもない)
私は、激痛に震える顎を必死に噛み締め、荒い呼吸を整えながら徳頭を見据えた。
自分は安全な場所にいて、他人の人生をチェスの駒のようにすり潰す。
……お父さんも、お母さんも、あなたのその身勝手な狂気によって殺された。
その歪んだ正義感が、私の胸の奥でくすぶっていた冷たい復讐の炎に、油を注ぐように静かに火を点けた。
ふっと、徳頭の顔から先ほどまでの激昂がスッと波が引くように消え去った。
その顔は、能面のように感情の一切を排した、冷徹な殺人者のそれへと変貌していた。
感情を乱すのは無意味だと悟り、ただ目の前の障害物を処理する作業へと意識を切り替えたのだ。
「……おわかれだ」
死刑宣告のように冷たい呟きと共に、彼は逆手に持ったダガーを再び高く振りかぶった。
今度こそ、間違いなく私の息の根を止めるための、絶対的な殺意を込めた一撃の体勢。
左手を潰され、大量の血を流して膝をつく私に、もはや回避する体力も防御する手立ても残されていないと、彼は完璧に確信していた。
だが。
その絶望的な状況下で、私の口元には、自然と微かな弧が描かれていた。
(――そう、おわかれよ!)
脳内で静かに宣告し、私は残された右手で、持っていた最後のクナイを振りかぶった。
そして、眼の前に迫る徳頭の急所を狙うのではなく――まったく見当違いの方向、私の頭上斜め後方に向かって、渾身の力でクナイを投げつけたのだ。
「なにを……」
ダガーを振り下ろそうとしていた徳頭の瞳に、明らかな疑念と困惑が浮かんだ。
「発狂したか……!? どこへ投げている!」
極限状態での判断ミスか。
あるいは激痛と絶望のあまり狂ったか。
彼には私がただ無意味な方向に武器を投げ捨てたようにしか見えなかっただろう。
もしこれが、空間に炎を発生させる赤園レイカや、周囲を絶対零度で凍りつかせる水島アカネのような『魔法少女』との戦いであったなら、何もない虚空から理不尽な反撃が飛んでくることもあり得ただろう。
だが、私にはそんな超常の力はない。
魔法少女の力が「科学を超えた理不尽」であるなら、私たち忍びの技は「限界を超えた努力と、理にかなった物理の極致」だ。
戦場におけるすべての行動には意味があり、無駄な動きなど一つとして存在しない。
私が投げたクナイが、暗闇の中に消えた瞬間、まるで目に見えない巨大な歯車が噛み合ったかのように、屋上の空間全体が意思を持って動き出した。
「――っ!?」
徳頭が訝しんだ直後、私の真後ろの暗がり――先ほどまで私がいた鉄柵の影から、一本のクナイが勢いよく徳頭へ向けて飛翔してきた。
それは私が投げたものではない。
まるで空間そのものが刃を吐き出したかのような、不自然かつ鋭い軌道。
だが、さすがは忍びの極意を知っている男だ。
徳頭は驚愕に目を見開きながらも、常人離れした反射神経で咄嗟にダガーを振るい、正面から迫るクナイをガキンッ!と的確に弾き飛ばした。
「小細工を……!」
彼は忌々しそうに吐き捨てた。
忍び特有のトラップの類だと直感したのだろう。
しかし、徳頭の本当の驚愕はそこからだった。
彼が弾き飛ばしたはずの漆黒のクナイは、地面に落ちて金属音を響かせることはなかった。
弾かれた直後、クナイは糸の凄まじい張力によって空中で強引に軌道を変えられ、鞭のようにしなって、再び徳頭へと向かって牙を剥いたのだ。
「なっ!」
徳頭の顔に、初めて明確な狼狽の色が浮かんだ。
「魔法か……!? いや、あり得ない! 貴様はただの忍びのはずだ!」
魔法少女のような念動力か? と一瞬疑ったかもしれない。
だが、これは魔法などというチャチなものではない。
極限まで計算し尽くされた物理法則の応用だ。
もう一度、徳頭がダガーでそのクナイを弾こうと体勢を崩した、その刹那。
ドスッ! ドスッ! ドスッ!
徳頭の背中から、乾燥した肉を分厚い刃物で突き刺すような、生々しく無慈悲な音が、連続して夜の闇に響き渡った。
「――あ、が……っ!?」
徳頭の口から、くぐもった悲鳴が漏れる。
「なぜ……なぜだ、なぜこんな所から……!」
不規則に動くクナイに気を取られ、対応しようとしたその隙を突き、全く別の方向――彼の完全な死角から飛来した三本のクナイが、徳頭の背中から腰にかけて、深々と突き刺さったのだ。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
私は、左手の激痛も、失血による視界の明滅もすべてを気力でねじ伏せ、残された最後の力を限界まで振り絞った。
地面を強く蹴り、無防備になった徳頭に向かって、己の全体重を乗せた捨て身の体当たりを敢行する。
ドンッ!! という鈍く重い衝撃。
背中にクナイを受け、完全にバランスを崩していた徳頭は、私の渾身の体当たりをまともに食らい、仰向けに派手に転倒した。
「ぐはぁっ……!!」
コンクリートの床に背中から叩きつけられた瞬間、徳頭の口からドロリとした鮮血の塊が勢いよく吐き出された。
仰向けに倒れたことによる自身の体重の重圧が、背中に突き刺さっていたクナイを、容赦なく肉の奥深くまで押し込んだのだ。
冷たい刃は強靭な筋肉を裂き、肋骨の隙間をすり抜け、彼の大事な臓器を致命的に破壊した。
ゴホッ、ゴボッ……と、徳頭の口から溢れ出した血の泡が、彼の高価なスーツの襟元を汚していく。
彼の体はビクンビクンと痙攣し、ダガーを握っていた手からは完全に力が抜け落ち、武器が乾いた音を立てて転がった。
私は油断することなく、先ほど宙を舞い、今は床に転がっているクナイを素早く拾い上げた。
そして、床に倒れ伏し、目を見開いて驚愕と苦痛に悶える徳頭の震える喉元にピタリと差し込んだ。
「……なっ……なぜぇ……。なぜ、だ……」
血を吐き出しながら、息も絶え絶えになった徳頭が、私を見上げて掠れた声を絞り出した。
彼の充血した瞳には、自分がなぜ敗北したのか全く理解できないという、絶対的な混乱と恐怖が渦巻いていた。
「俺が……俺が、こんな小娘に……」
私は、無言のまま、穴の空いた自らの左手の手首を彼の眼前にさらした。
血に染まった包帯と布の奥。
そこには、特殊な金属でできた『鉄のリング』がしっかりと固定されていた。
そして、そのリングの穴を通して、闇夜にキラリと銀色に反射する「極細の糸」が、複雑に絡み合いながら伸びているのが見えた。
「……魔法じゃないわよ。魔法なんかじゃない」
私は、冷たい眼差しで徳頭を見下ろし、静かに種明かしを始めた。
「給水タンクの下。 非常階段の入り口にあるコンクリートの出っ張り。 非常階段とは逆にある鉄柵。 そして、私たちの後ろにある鉄柵。 ……私は逃げ回りながらクナイを設置し、すべてに頑丈な特殊合金の『鋼糸』を結びつけておいたの。 もちろん、少し前にあなたに投げつけたクナイにもね」
「糸……だと……?」
徳頭の目が、驚愕に見開かれた。
「それらの糸は、すべて複雑な滑車のようにこの手首のリングを通して繋がっているのよ。 ……私が最後に、見当違いの方向に投げたクナイ。 あれがすべての張力を一気に引き上げる『トリガー』だった」
最後のクナイを投げた瞬間、リングを通して繋がっていたすべての糸が一気に引っ張られ、各所に仕掛けられていたクナイが、一斉に徳頭の死角へ向けて発射されたのだ。
そして、徳頭が一度弾いたクナイが軌道を変えたのも、私が手首のリングを強引に操作し、糸のテンションを操ったからに他ならない。
逃げ回る軌道は、すべてこの巨大な「蜘蛛の巣」の中に彼を誘い込み、確実に仕留めるための冷徹な計算だったのだ。
『ユキは丁寧なんだから、比べちゃダメよ』
不意に、優しかった母の声が脳裏に蘇った。
そうだ。私には、魔法少女たちのように生まれ持った才能だけで振るうような、華やかな力はない。
妹のサヤのような、圧倒的な戦闘センスもない。
けれど、泥水をすすり、己の限界を削りながら命懸けで習得したこの技術がある。
死の恐怖に急き立てられながらも、一寸の狂いもなく鋼糸を張り巡らせた、私だけの『丁寧な』殺意の結晶。
それが、この理不尽な化け物を絡め取ったのだ。
(とはいえ、糸を引っ張るたびに、穴が開いた左手が千切れそうに痛かったけれどね……。痛くて、痛くて、叫びそうだったわ……)
私は内心で激痛に耐えながら、自分と両親の人生を狂わせた巨悪の顔を、網膜に焼き付けるように深く見つめた。
「いくつ刺さるかは、正直なところ賭けだったけど……丁寧に仕掛けた罠に、お父さんとお母さんへの祈りが通じたみたいね」
「あ……が……っ、俺は、俺はまだ……」
徳頭は何かを言い返そうと口を動かしたが、そこから出てくるのは赤い血の塊だけだった。
もはや、彼に国を語る資格も、他者の命を弄ぶ権力も残されていない。
ここにあるのは、自らの傲慢さによって泥に引きずり下ろされた、一人の哀れな男の末路だけだ。
「……おわかれよ! 徳頭サトミチ!」
私は、徳頭の絶望に染まった最後の顔を見て、一切の躊躇なく言い切った。
そして、手に持ったクナイを、彼の喉笛の奥深くへと、静かに、だが確かな力で突き立てた。
ゴクリ、と。
徳頭の喉が最後に何かを飲み込むような音を立て、その身体から完全に力が抜け落ちた。
充血した瞳から光が消え、絶対的な権力を誇り、魔法少女という偽りの英雄を裏から操っていた男の命は、冷たいコンクリートの上であっけなく散った。
終わった。
三年間、胸の奥で煮えたぎり続けていた黒い復讐の炎が、ゆっくりと鎮火していくのを感じる。
残されたのは、吹き抜ける夜風の冷たさと、左手の焼け付くような激痛、そして、拭いようのない虚無感だけだった。
私は血に塗れた自らの手を見つめ、小さく息を吐き出すと、妹のサヤや仲間たちが待つ場所へと帰るため、重い足を引きずりながらゆっくりと立ち上がった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
深く感謝申し上げます。
毎日投稿を続けられたのも、誰か楽しみにしてくれる人が居るかもと思い、完結までは頑張ろうと考えた次第です。
次が最終章ですが、折角なのでカクヨムの毎日1話更新と合わせて同じ日に公開されるように投稿予約済みです。




