氷の少女の不器用な歓喜と、騒がしきアジトの休日
桐里ミチルとの死闘から、数日が経過した。
横浜の裏路地の地下深くにある私たちのアジトは、かつてないほど奇妙で、そして……致命的に騒がしい空間と化していた。
「――ちょっと! そこでマグカップ両手で持ってボーッとしてる元魔法少女! そこは私が修行の後に扇風機の風を浴びるための特等席なんだけど! どきなさいよ!」
アジトの冷たいコンクリートの壁に、怒気を含んだ甲高い声が反響する。
声の主は、黒いトレーニングウェアの袖を捲り上げ、眉間にしわを寄せて仁王立ちしている妹のサヤだ。
その視線の先、パイプ椅子にちょこんと腰掛けているのは、一切の表情を顔面に浮かべない銀髪の少女――『氷の魔法少女』水島アカネだった。
あの夜、ミチルの『感情の支配』からユキを救い、自らの居場所を捨てて裏切り者となったアカネは、行く当てを失いこのアジトに居候することになった。
ミチルという絶対的な天敵を排除したとはいえ、真の黒幕である徳頭サトミチと公安の田中は健在だ。限界を超えて痛めつけられた私の体が回復するまで、私たちはこの地下で息を潜める必要があった。
「……扇風機、気持ちいい」
サヤの剣幕に対し、アカネはアイスブルーの瞳をパチパチと瞬かせ、ごく淡々と答えた。声のトーンには一切の抑揚がなく、まるで今日の天気を告げるかのように平然としている。
「気持ちいい……じゃないの! そこは私の場所! あとね……ついでに言うけど、私のチョコミントアイス、食べたのあなたでしょ!!」
サヤが般若のような顔で詰め寄る。
サヤにとって、アカネという存在は極めて複雑で、腹立たしいものだった。両親を殺した元凶のシステムである「魔法少女」という肩書。そして何より、あの決戦の場でミチルを圧倒的な力で制圧したことへの妙な敗北感。
そして、この銀髪の少女は当たり前のような顔でアジトに居座り、ユキにベッタリだ。
要するにサヤのテリトリーを侵食しているのだ。
「……食べた」
アカネは包み隠さず、こくりと首を縦に振った。
「開き直るなーーーっ!? なんで人のアイス勝手に食べてんのよ! あれは私が買ってきた数量限定のレアなんだよ!?」
サヤの血管が切れんばかりの怒号が響き渡る。
だが、そんな激昂するサヤの目の前で、水島アカネの無表情な仮面の下――その内面では、かつてないほどの『お花畑』が乱舞していた。
(ああっ、サヤちゃんがまた話しかけてくれた……! 今日で三回目。朝の「おはよう」と、お昼の「醤油取って」に続いて、こんなに熱量のある声で私を見てくれている!)
アカネの心臓は、歓喜でドクドクと早鐘を打っていた。
(魔法少女だった頃は、誰も私とこんな風に接してくれなかった。サヤちゃんは、こんな私の目を真っ直ぐに見て、本気で感情をぶつけてくれる。……嬉しい。凄く嬉しい。これは私の妹と言ってもいいのでは?)
極度のコミュニケーション不全に陥っているアカネにとって、サヤの怒りすらも極上のご褒美だったのだ。
(でも、どう返事をすればいいんだろう。素直に感想を言うべきだよね。人のものを食べたら、美味しさを共有するのが友達への第一歩ってネットの掲示板にも書いてあった。チョコミント、歯磨き粉みたいな味がして少しびっくりしたけど、サヤちゃんが好きなら、私も好きになりたい……! ちゃんと伝えないと!)
脳内で数千文字に及ぶ歓喜と葛藤を繰り広げた末に、アカネの口から出力された言葉は。
「……美味しかった。スースーした」
短く、そして相変わらず冷徹なほどに無機質な一言だった。
「感想を聞いてんじゃねぇぇぇ!!」
サヤの怒りゲージが限界を突破した。
(どうして!? 私、ちゃんと美味しいって伝えたのに!)と心の中でパニックになるアカネをよそに、サヤは腰のホルダーから訓練用の木製クナイを引き抜いた。
「もう許さない! 魔法少女だか何だか知らないけど、そのひん曲がった根性を叩き直してやる!」
「……勝負」
アカネはその単語を反芻した。
(わあ……! サヤちゃん、修行の相手をしてくれるなんて、これって完全に『仲間』として認められたってことだよね!? 手加減なんてしたら失礼にあたるし、私も全力を出して、もっとサヤちゃんに認めてもらわなきゃ!)
アカネはパイプ椅子からスッと立ち上がると、マグカップをテーブルに置き、小さく頷いた。
「……分かった。手加減は、しない」
「上等よ! 叩き潰してやる!」
サヤが床を力強く蹴った。忍びの歩法『無影』。足音を完全に消し、相手の死角へと滑り込む神速の移動。
シュッ! と鋭い風切り音と共に放たれた木製クナイ。
それに対し、アカネは数センチ前に『氷の膜』を出現させた。
カチンッ、と乾いた音を立ててクナイが弾かれる。
「ちっ……! ま、魔法少女って相変わらず卑怯よ!」
「……サヤの攻撃、速い。すごい」
アカネは本心からサヤの体術を称賛した。だが、例によって表情はピクリとも動かず、声のトーンも平坦なままである。
サヤの目には、それが余裕綽々のアピールに見えてしまった。
「この……お高くとまったカチコチ女ぁぁぁっ!!」
激昂したサヤが、狭いアジトのリビングで体術のラッシュを叩き込み始める。
右からのローキック、左からの掌打、跳躍しての膝蹴り。軽やかで無駄のない暗殺体術。それに対し、アカネはサヤの足元にうっすらと氷の膜を張ったり、拳が届く前に小さな氷を作って衝撃を受け止めたりして防ぎ続ける。
(凄い、サヤちゃんの蹴り、すごく綺麗……! 私、今、友達と一緒に汗を流してる……! これが青春……!)
表面上は氷のように冷たい顔をしながら、アカネの内心は感動の涙で溢れかえっていた。
* * *
「あ、また始まった……」
リビングの奥。簡易ベッドの上で横になっていた私は、傷だらけの身体をおして深々とため息をついた。
私の体はまだ悲鳴を上げている。
ユカリさんの的確な応急処置と、闇医者の手当のおかげで傷口の悪化こそ防げているが、まだ激しい運動など到底不可能な状態だ。
(サヤ……ミチルを倒してから、ずっと気持ちが張り詰めてるんだよね。両親の本当の仇が『徳頭サトミチ』だって分かって、早く動きたいのに私が怪我してるから、もどかしいのもあるし……)
私はベッドの縁に手をつき、痛む足を引きずりゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと二人とも、落ち着いて……。サヤ、アイスなら私がまた買ってあげるから。アジトの中で暴れないの」
痛みをこらえながら二人の間に入ろうとする私。しかし、怪我人の弱々しい制止など、白熱する(サヤにとっては怒り、アカネにとっては楽しい遊びの)二人の前には暖簾に腕押しだった。
「お姉ちゃんは寝てて! これは私とこいつの、忍びと魔法少女の尊厳を賭けた戦いなの!」
「ユキ!」
アカネがサヤの蹴りを氷の盾で防ぎながら、珍しく焦ったような顔で私の方を見た。
その瞬間、アカネの手から冷気がスッと消え、展開されていた氷がサラサラと粉雪になって消滅した。
(ああっ、ユキが起きてきちゃった! あんなに重傷なのに、私たちが騒いだせいで……! 怪我に響いたら大変!)
アカネはサヤの追撃を無視して、タタタッと小走りで私のもとへ駆け寄ってきた。
「ユキ、大丈夫? 傷、開いた? 痛む?」
相変わらず表情は無機質だが、そのアイスブルーの瞳には、はっきりとした心配の色が浮かんでいる。アカネは私の腕をそっと支え、ベッドへ戻そうとしてくれた。
「あ、ありがとう、アカネさん。平気よ、痛み止めが効いてるから」
私が苦笑いしながら答えると、取り残されたサヤが「あーっ!」と地団駄を踏んだ。
「もーー! お姉ちゃんからも言ってやってよ!」
アカネは少しだけシュンと肩を落とし、申し訳なさそうに呟いた。
「……ごめんなさい。私、またダメだった?」
この惨状を、デスクのモニター前からユカリさんが眺めていた。
「あらあら……今日も元気ねぇ」
ユカリさんは温かいコーヒーを一口すすり、パチパチとキーボードを叩きながら、遠目で繰り広げられる「忍びvs魔法少女のキャットファイト」を観察していた。
元引きこもりとはいえ、よい大人であるユカリは、アカネが言葉足らずなことを察していた。
(あの子、口ではあんなに冷たいこと言ってるし顔にも全く出てないけど……『楽しくて仕方がない』ってとこかしら)
ユカリさんはふっと口元をゆるめ、モニタへ顔を向けた。
(サヤちゃんは魔法少女全般への不信感でカリカリしてるから気づけないのよね。……難儀なものだわ)
ユカリさんは「やれやれ」と小さくため息を吐くと、呆れ半分、微笑ましさ半分で仕事に戻った。
ユキとサヤが両親を失ってからの三年、このアジトには常に死の匂いと復讐の重苦しい空気しか存在しなかった。こうしてくだらない理由で怒鳴り合い、ドタバタと暴れ回るような「普通の日常」は、奇妙な形であれ、姉妹の張り詰めた心を少しずつ癒やしているのかもしれなかった。
「もう! 何その反省してなさそうな顔! 本当に腹立つ!!」
サヤがプクッと頬を膨らませてそっぽを向く。
私は、そんな不器用な二人の間に立ち、小さく笑った。
「サヤ、もうやめなよ。アカネさんも、サヤと喧嘩したくてアイスを食べたわけじゃないと思うよ」
先日の死闘の最中、アカネが見せたあの孤独な瞳を思い出しながら、優しく問いかけた。
「アカネさん。……アイス、食べたかったの?」
私がそう聞くと、アカネはぴくっと肩を揺らし、視線を泳ぎ合わせた後、ゆっくりと小さく頷いた。
「……うん。サヤが、美味しそうに食べてたから」
アカネは、ギュッと自分の黒いスカートの裾を握りしめた。
相変わらず表情は硬く、声もボソボソとしている。
だが、その言葉には偽りのない、切実な本音が混ざっていた。
「……私、同じ境遇の友達欲しかった。だから、ずっと一人だった。会話の仕方も、よく分からない。……サヤが、話しかけてくれるのが……怒ってても、嬉しかった。……同じもの、食べたら……仲良くなれると思った」
その言葉が、地下アジトの静寂にぽつりと落ちた。
「……は?」
サヤの動きがピタリと止まった。見開かれた瞳が、信じられないものを見るようにアカネを凝視する。
「……ごめんなさい。アイス、勝手に食べて。サヤのこと、怒らせたかったわけじゃないの。」
アカネは、深々と頭を下げた。
「…………」
アジトの中に、気まずいほどの沈黙が流れた。
サヤの顔が、怒りとは全く別の理由で急速に真っ赤になっていく。
(な……なにそれ……! なによそれぇぇぇぇっ!?)
サヤの心の中で、猛烈な葛藤が渦巻いた。
これでは、まるで自分が一方的にいじめをしていた悪者みたいではないか。
「ッ……知らん! 私は知らんっ!!」
サヤは叫ぶと、顔を真っ赤にしてプイッと横を向いた。
「……でも、代わりのアイスを買ってくるなら許す」
アカネは弾かれたように立ち上がると、アジトの出口へと小走りで向かおうとした。
「ちょっと待ちなさいよ! あんた顔が割れてんだから、一人で外出たら追手に見つかるでしょ! 私がついていくわよ!!」
サヤはガバッと立ち上がると、乱れたトレーニングウェアを整え、吐き捨てるように言った。
「勘違いしないでよね! あんたが捕まったら私たちの目的が達成できないから行くんだからね!」
「……うん。サヤとお買い物、嬉しい」
「あぁ~!……やりにくいわ!!」
二人はギャーギャーと(主にサヤが一方的に)騒ぎながら、変装用の帽子とサングラスを掴んで、隠し扉の向こうへと消えて行った。
パタン、と扉が閉まり、アジトにようやく平和な静寂が戻ってきた。
「……嵐みたいな二人だね」
私は脱力してベッドに座り直し、ほっと胸を撫で下ろした。
デスクの方から、キャスターのガラガラという音と共にユカリさんが近づいてきた。手には温かい紅茶の入った二つのカップが握られている。
「あらあら。でも、いい傾向じゃない?」
ユカリさんはクスッと微笑み、私の隣に腰掛けて紅茶を差し出した。
「アカネさんも、素直に『仲良くなりたい』って言えれば楽なのにねぇ。構ってもらえて嬉しくてたまらないなんて、本当に不器用な子。……ユキちゃんも、少し肩の荷が下りたんじゃない?」
ユカリさんの優しい言葉に、私は自分の両手を見つめた。
三年前、両親を殺され、復讐のために修羅の道を歩み始めた。妹のサヤの心が壊れていくのを止めたくて、自分が泥を被る覚悟を決めた。
けれど今、目の前には私たちを理不尽から救ってくれた新しい「仲間」がいて、サヤが年相応に怒ったり照れたりしている。
「……はい。少しだけ、救われた気がします」
私は小さく微笑み、紅茶の温もりを胸に染み込ませた。
「そういえば、あの二人」
ユカリさんがふと思い出したように言った。
「深夜で近くにコンビニが無いのにどうやってアイスを買うのかしら」
「えっ……じゃあ、二人はどうするんですか?」
「さあ? 隣町まで行くんじゃないかしら。忍びと魔法少女が、アイスを求めて全力疾走。……傑作ね」
私たちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
黒幕・徳頭サトミチとの最終決戦は、すぐそこに迫っている。公安の田中、そして政府の巨大な権力。これから待ち受ける戦いは、これまでの比ではないほど壮絶なものになるだろう。
それでも、この泥と血に塗れた影の世界で、私たちは確実に「一人ではない」という絆を手に入れていた。
数十分後。
「だからこっちの道の方が早いって言ったでしょ!」「……サヤの速度。追いつけない」「うっさい!」
大量のアイスが詰まった袋を抱えたアカネと、その後ろを怒りながらついてくるサヤが戻ってきた。
アジトの冷たいコンクリートの部屋。
私とサヤ、ユカリさん、そしてアカネの四人で車座になり、あの夜に私が約束した『女子会』が、ささやかなチョコミントアイスと共に始まった。
「……美味しい」
アカネが、初めてほんの少しだけ口角を上げて笑った。
その束の間の甘い時間は、これから訪れる苛烈な嵐の前の、かけがえのない、温かな休日だった。




