絶対零度の介入と、反転する天秤
――キィィィィィンッ……!!!!
甲高く澄み切った金属音が、豪華絢爛なスイートルームの天井に鋭くこだました。
殺意に狂ったユキが、無防備なサヤの心臓を目掛けて全力で振り下ろした忍刀。その必殺の一撃は、サヤの胸元まであと数ミリという絶妙な位置で、突如として空間に現れた透明な氷の結晶の壁に完璧に遮られていた。
激しい反動がユキの手に伝わり、手から刀が弾け飛ぶ。
強烈な冷気が、一瞬にして部屋全体を包み込んだ。
シャンデリアの優雅な光が、空中に舞い散るダイヤモンドダストに反射して怪しく煌めく。スイートルームの防音ガラスに白く細やかな霜の結晶が急速に広がり、室温が急降下していく。
舞い散る冷気の向こう側から、静かに、足音すら立てずに歩みを進めてくる影があった。
漆黒の戦闘服に身を包み、アイスブルーの瞳を冷ややかに光らせた銀髪の少女――『氷の魔法少女』水島アカネだ。
「……なっ!?」
ソファから立ち上がり、高みの見物を決め込んでいた桐里ミチルの顔から、余裕の笑みが一瞬にして消え去った。ミチルは金切声を上げて、突如現れた自らの護衛を睨みつける。
「アカネ!? あなた、何をしているの! なぜ私の命令なしに前に出ているの……ううん、それ以前に何のためにその魔法を使ったのよ! なぜそのネズミ(サヤ)を護るの!?」
ミチルの激昂が部屋に響き渡る。
しかし、アカネは表情一つ変えない。眉一つ動かさず、静かなアイスブルーの瞳でミチルを見つめ返した。
ミチルの詰問に対し、アカネは暫くの間、まるで次の言葉を慎重に選ぶかのように無言で沈黙を守っていた。
そして、ぽつりと、平然とした口調で呟いた。
「……女子会の、先約があるから」
「は……? 女子会……? 何を馬鹿なことを言っているの!?」
ミチルが意味が分からないと言わんばかりに困惑し、叫んだその一瞬の隙。
サヤの目覚ましい集中力が炸裂した。
絶望の淵から引き戻されたサヤは、即座に状況を把握する。操られたユキの足元へ滑り込むように低い姿勢をとり、床に落ちていたユキのクナイを強烈なローキックで鋭く蹴り飛ばした。刃はカラカラと音を立てて部屋の隅へと転がっていく。
そのままサヤはバネのように躍り上がり、ユキの間合いから脱出してアカネの隣へと合流した。
「ハぁっ……ハぁっ……!」
全身傷だらけで、肩を激しく上下させながら涙と血に濡れた顔を上げるサヤ。彼女は必死の形相でアカネの側面にすがりつき、悲痛な声を上げた。
「アカネちゃん……! お願い、お姉ちゃんは……お姉ちゃんはあの女に操られているだけなの! お願いだから、お姉ちゃんを……お姉ちゃんを絶対に傷つけないで……っ!」
妹の哀痛な懇願。
アカネはチラリとサヤに視線を送った。そして、ミチルと未だ殺意の毒に侵されて佇むユキを鋭く見据えたまま、空いている右手をゆっくりと持ち上げた。
そのまま――カチコチに緊張した様子で、ぎこちなく指を二本立ててみせた。
それは、人付き合いが極端に不器用な氷姫が、これから一緒に『女子会』をする友達を安心させるために作った、彼女なりの精一杯のVサインだった。
「……任せなさい」
その短く、どこまでも温度の低い一言と、お世辞にも様になっているとは言えない不器用なポーズには、不思議と絶対的な安心感が宿っていた。
「チッ……使えない雇われの分際で、生意気なマネを……!」
ミチルは苛立ちを隠そうともせず、舌打ちを響かせた。
「いいわ。あなたも私に平伏しなさい! 私の奴隷となって、私のためにその氷を振るいなさい!」
ミチルが鋭い眼光でアカネの目を真っ直ぐに見据える。
ミチルの瞳孔の奥で、万華鏡のような奇妙な光が激しく蠢き始めた。視認した相手の脳の扁桃体に直接割り込み、その感情を強制的に書き換える『感情の支配』。
相手がどれほど強大な魔法を持っていようと、意志を持った人間である以上、「心」が存在する限りこの能力から逃れることはできない。
しかし。
一秒。二秒。
アカネの歩みは、一切止まらない。
それどころか、アカネの表情には微かな波風すら立たなかった。
「え……? なんで……? なぜ書き換えられないの……!?」
ミチルの額に、ダラリと冷や汗が伝う。
ミチルの能力は、キャンバスに塗られた「敵意」や「殺意」、「愛着」といった感情の色を捉え、それを上書きするものだ。
だが、ミチルの視界に映るアカネには、そもそも上書きするための「色」が何一つ存在しなかった。
怒りもない。恐怖もない。ミチルに対する敵意すら存在しない。
ただそこにあるのは、この息苦しい世界と魔法少女というシステムに対する、極限の「無関心」と「虚無」。
能力を流し込もうにも、引っかかる拠り所(感情)が一切存在しないのだ。
「おかしいわ! あなたは私を裏切ってここに来たのよ!? なぜ私に対して何の感情も抱いていないのよ!?」
必死にアカネの瞳の中に利用できる感情を探そうと、目を血走らせるミチル。
アカネはただ無機質な声で短く言い放った。
「……無駄。私には、あなたに与える感情なんて一つもない」
「くっ……この異常者め……!!」
ミチルは金切声を上げて怒り狂うと、アカネの支配を諦め、瞳の焦点を未だ傀儡と化しているユキへと合わせた。
「ユキ! おやりなさい! 二人ともまとめて殺すのよ!!」
ユキの脳内に、ミチルの絶対的な殺害命令が直接叩き込まれる。
ユキは感情の抜け落ちた瞳で応じ、丸腰のまま恐ろしい踏み込みでアカネとサヤへ躍りかかろうとした。
同時に、ミチルは身を翻し、壁際の高級デスクの上に設置された緊急通報用の赤いスイッチへと手を伸ばした。
(この異常者どもめ……! 外部のボディガードと公安を全機突入させて、全員蜂の巣にしてやるわ!)
ミチルの指先が、スイッチに触れようとしたそのコンマ一秒前。
「……させない」
アカネの氷のように冷ややかな声が落ちた。
次の瞬間、アカネが右手を一閃させる。
ドォンッ!! と目に見えない冷気の衝撃波が部屋を駆け抜けた。
「ひっ……!?」
ミチルの絶叫が途切れる。
スイッチへ伸びていたミチルの腕を含め、彼女の首から下の全身が、一瞬にして分厚く透明な永久凍土の氷柱の中に完全封印されたのだ。指一本動かすことすら許されない、絶対の物理拘束。
さらにアカネは間髪入れずに左手を床へと向けた。
サヤへ向かって飛び出そうとしたユキの足元から、ザザザッ! と凄まじい速度で氷の結晶が這い上がり、ユキの両足を膝上まで地面ごとガッチリと凍りつかせた。
「ガあぁっ……!?」
強力な力で強引に固定され、ユキの動きが完全に停止する。足の感覚が麻痺し、体術の軸を失ったユキは、その場から一歩も動くことができなくなった。
「これで、終わり」
アカネは静かに手を下ろし、息一つ乱さずに言い放った。
* * *
厚さ数十センチの氷の塊の中に閉じ込められたミチルは、パニックに陥っていた。
(冷たっ……! 何これ……体が、全く動かない……!?)
首から下を完全に固められ、指先一つ、皮膚一枚すら動かすことができない。分厚い氷が胸部を圧迫し、息を吸おうにも肺を膨らませることができなかった。
肺に残された僅かな酸素を貪りながら、ミチルの脳内は激しい焦燥で狂いそうになっていた。
(嘘でしょ……私が、この私がこんな場所で負けるの……!? 私は桐里ミチルよ!? 完璧な聖女で、誰よりも愛される魔法少女なのよ!!)
氷の中で、徐々に薄れゆく意識を必死にフル回転させ、ミチルは逆転に繋がる起死回生の手を思考しようとした。
(落ち着きなさい……思考を止めるな……! 外部の警備が異常に気づいて踏み込んでくれば……! いや、ハッキングされているなら来ない……!? ならば私の魔法で……だめ、あの銀髪の女には能力が効かない……っ!)
どんなに思考を巡らせても、詰み(チェックメイト)の現実しか浮かんでこない。
体温が急速に奪われ、脳への酸素供給が絶たれていく中で、ミチルの思考は次第に脈絡を失い、支離滅裂に逸れ始めていった。
(嫌……嫌よ……! 私の計画が……私が魔法少女の中で一番になって、全てを手に入れる計画が……! 今後は私の『感情支配』の魔法を使って、あの政界の狸……徳頭すらも裏から洗脳して、この国全てを裏から掌握するはずだったのに……!!)
視界が急速に白く明滅し始める。
極度の低体温症と酸欠により、ミチルの脳細胞が急速に活動を停止していく。
(なんで……どうして私ばかりが……こんな……)
ミチルの瞳から光が消え、彼女の意識は深い、深い闇の底へと落ちていった。
* * *
深い闇の中。
ミチルは、失っていたはずの古い『夢』を見ていた。
そこは、冷たく静まり返った巨大な屋敷だった。
豪奢な調度品が並ぶ広い部屋で、幼いミチルは一人、ポツンと佇んでいた。
年に一度、会えるかどうかの両親。
日本有数の大財閥を率いる父と母は、幼いミチルに一度たりとも温かい笑顔や抱擁を与えてはくれなかった。
テストで満点を取っても、厳しい英才教育の課題をこなしても、帰ってくるのは冷ややかな一言だけ。
『桐里の家に生まれた以上、できて当たり前だ』
『期待通りの結果が出せなければ、我が家にあなたは必要ない』
次の日から、叱咤と共に与えられる勉強と訓練のメニューは倍の量へと増やされた。
少しでも弱音を吐けば、部屋に閉じ込められ、見捨てられる恐怖に怯える日々。
両親が求めていたのは「娘」ではなく、完璧な「桐里家の作品」でしかなかった。
(ああ……そうだったわ)
夢の中で、ミチルは思い出す。
自分が魔法少女の力に覚醒し、他人の感情を自由に書き換えられるようになった時、どれほど歓喜したか。
他者を支配し、恐怖させ、自分を崇拝させることでしか、自らの存在価値を証明できなかった。他人の絶望の色を見下すことでしか、幼い頃に傷つけられた心を埋めることができなかったのだ。
(私が……私が世界で一番輝いて、全員を支配すれば……誰も私を捨てない。私に優しい世界を作れるはずだったのに……)
その悲しい執着の夢も、冷たい闇の中に溶けて消えていった。
* * *
パシッ……ペチッ。
頬に伝わる、小さくも不快な打撃の痛みで、ミチルはハッと目を覚ました。
「う……ん……」
意識が戻る。しかし、周囲は完璧な暗闇に包まれていた。
目を開けようとしても開かない。目に布のようなものが強く巻きつけられている――目隠しだ。
口には猿ぐつわが噛まされ、喉の奥から声を出そうとしても「んー! んー!」と情けない漏れ声にしかならない。
さらに、身動きを取ろうとするが、両手は背後にまわされ、頑丈な結束バンドと鎖で椅子に固く縛り上げられていた。あの絶対零度の氷からは解放されたようだったが、代わりに完全に自由を奪われた拘束状態にあった。
冷気が肌を刺す。
ミチルが恐怖に全身をガクガクと震わせた、その瞬間。
ピタリ。
首元の皮膚に、凍りつくように冷たく、鋭利な「刃」の感触が押し当てられた。
皮膚が薄く切れ、一筋の血がツッと伝う感覚。
「ひっ……!? んぐぅぅっ……!!」
ミチルの喉が引きつり、極限の恐怖で身体が激しく跳ね上がる。
目隠しの暗闇の向こうから。
先ほどまで自分が完璧に支配し、傀儡として操っていたはずの少女の――正気に戻った、冷徹で深遠な声が耳元に届いた。
「……形勢逆転よ、桐里ミチル」
正気を取り戻したユキの刃が、偽りの聖女の喉元に、深く鋭く突き立てられていた。




