血塗られた舞踏と、哀しき懇願
「お姉ちゃん……やめてっ!!」
サヤの悲痛な叫びが、豪奢なスイートルームの空気を振動させる。
だが、その声がユキの心に届くことはなかった。
濁りきったユキの瞳には、ただ一つの純粋で強烈な命題しか存在していない。
――目の前の敵を殺さなければならない。
「ふふっ、いいわ! 素晴らしい殺意の色! まるで熟しきった毒林檎のような、濃密な赤黒さね!」
部屋の中央、真っ白な革張りソファに深く腰掛けたミチルが、ダージリンティーのカップをソーサーに置き、愉悦に肩を震わせる。
ユキは息を吸い込むと同時に、床の毛足を蹴り破るほどの踏み込みで迫ってきた。
忍びの歩法『縮地』。
骨折した肋骨や左腕の酷い火傷の痛みなど、狂信的な殺意で完全に麻痺しているのだろう。コンマ数秒でサヤの懐へ滑り込んだユキは、両手に握ったクナイを、容赦なくサヤの頸動脈と心臓へ向けて突き立ててきた。
「くっ……!?」
サヤは間一髪で上体を大きく反らし、刃をかわす。
刃先がサヤの装束を切り裂き、白い肌に赤い一文字の傷を刻んだ。
「お姉ちゃん、目を覚まして! 私だよ、サヤだよ! 一緒にお父さんとお母さんの仇を討つって誓ったじゃない!!」
涙を浮かべながら必死に訴えかけるサヤ。だが、今のユキにはその声がただ不快な雑音にしか聞こえていない。
「黙れ……。お前が、憎い。死ね、サヤ……っ!」
低く冷たい声と共に、ユキは手首を返してクナイを横一文字に薙ぎ払う。サヤは刀の鞘でそれを受け止めたが、衝撃で後ろへ吹き飛ばされ、背中から壁に強く激突した。
「がはっ……! はぁ、はぁっ……!」
サヤの口から鮮血がこぼれ落ちる。
反撃などできるはずもなかった。目の前にいるのは、自分を慈しみ、命懸けで守ってくれた唯一の肉親である「お姉ちゃん」なのだ。刀を抜いて斬りかかれば、ユキを傷つけてしまう。かといって防戦一方では、ユキの苛烈な暗殺術を前にじり貧になるのは目に見えていた。
(逃げなきゃ……! 一度距離を取って、お姉ちゃんを正気に戻す方法を考えないと……!)
サヤが背後の破壊されたガラス窓へと視線を走らせ、跳躍の予備動作に入った、その瞬間。
「あら、逃げるつもり?」
ミチルの甘ったるい、しかし狂気に満ちた声が部屋に響き渡った。
「言っておくけれど、妹ちゃん。もしあなたがこの部屋から一歩でも逃げ出したり、お姉ちゃんから遠く離れようとしたら……私はお姉ちゃんに命じるわ。『自らの喉元にクナイを突き立てて、自分で首を掻き切れ』ってね」
「――ッ!?」
サヤの脚が、ピタリと硬直した。
瞳孔が限界まで見開かれ、全身の血が引いていくのが目に見えて分かった。
「お姉ちゃんは今、私の完璧な奴隷なの。私の命令一つで、喜んで自分の腹を割いて死んでみせるわよ? ふふっ、どうする? 逃げてお姉ちゃんを自殺させる? それともここで、お姉ちゃんの手で殺されてあげる?」
ミチルは心底楽しそうに笑い、頬を染めて身体をくねらせた。
「そんな……そんなの、汚い……!!」
「なんとでも言いなさいな! 絶望に濡れたあなたの顔、本当に最高の色をしているわよ!」
逃走の選択肢すら完全に潰された。
サヤは、ユキの攻撃を間近で受け止め続けるしかないという、絶対の詰み(チェックメイト)に叩き落とされたのだ。
「死ね死ね死ね死ねっ……!!」
感情を奪われたユキが、獣のような咆哮と共に畳みかける。
上段からの振り下ろし、足元への低空払い、そして目潰しの掌打。父と母から叩き込まれた実戦的な殺戮の技術が、妹の命を奪うために過不足なく発揮される。
「く……あぐっ……!」
サヤは刀を抜くことすら許されず、鞘と腕だけでユキの刃を防ぎ続ける。
チク、チクと、鋭い刃先がサヤの頬を、肩を、太ももを削ぎ落としていく。黒装束のあちこちから赤い血が滲み出し、絨毯にポタポタと落ちていく。サヤの顔は苦痛と激しい過呼吸で歪み、膝が笑い始めていた。
(どうして……どうして……っ!)
サヤの心の中で、惨酷な葛藤が渦巻く。
(感情を……消さなきゃ……! ミチルの『感情の可視化』を破るには、前みたいに自分の心を殺して『無』になるしかない……!)
もし、恐怖も怒りも殺意もすべて遮断し、感情のスイッチをゼロにすれば、ミチルの能力の死角を突いて彼女の首を獲ることができるかもしれない。
だが――今のサヤには、それがどうしても出来なかった。
今の状況で感情を消し、完全に冷酷な「殺戮マシーン」へと変貌してしまえば、目の前で刃を振るってくるユキの攻撃を回避した際、反射的に急所を叩き割り、大好きな姉を自分の手で殺してしまう。
「お姉ちゃんを絶対に傷つけたくない」「死なせたくない」という、胸を引き裂くような強い愛着があるからこそ、サヤは心を『無』にすることができないのだ。
感情を消せないからミチルの支配を破れず、ユキを殺せないから反撃もできない。
サヤは自らの優しさと絆によって、完璧に両手両足を縛られていた。
「無駄なことを。足掻けば足掻くほど、醜い傷が増えていくだけなのに」
ミチルはまるで上質な劇でも観賞するかのように、優雅にダージリンティーを口に含み、軽蔑の混じった眼差しで二人を観察している。
(……この女……っ! こいつさえ……こいつさえ倒せば……!!)
サヤの瞳に、極限の焦燥と怒りが宿る。
ユキの放った鋭い突きを、間一髪で身を捻ってかわしたそのコンマ数秒の隙。サヤは腰のポーチから一振りのクナイを抜き取ると、視線すら合わせずに、ソファに座るミチルの眉間へ向けて渾身の力で投擲した。
音すら置き去りにする、必殺の投擲。
ミチルの護衛も居ない今、この一撃がミチルの頭部を貫けば、支配の魔法は解けるはずだった。
しかし。
「させない……っ!!」
ミチルが驚く素振りすら見せる前に、ユキの体が勝手に動いた。
思考ではなく、ミチルを護れという強制された本能。ユキは一切の躊躇なく、ミチルの正面へと自らの身体を躍り出させ、肉盾となったのだ。
ドスッ……!!
「あ……がっ……!?」
鈍い肉衝音が部屋に響き渡る。
サヤの放ったクナイは、ユキの右太ももの深い位置へ、根元まで深く突き刺さっていた。
「お、お姉ちゃん……!?」
サヤの顔から血の気が完全に引いた。自分の放った刃が、愛する姉の肉を深く抉ったのだ。
「はっ……はぁっ……!」
ユキの太ももから激痛が走り、ドクドクと鮮赤の血が溢れ出す。
前回までのレイカ戦で負った全身の火傷、ミチルのボディガードに痛めつけられた肋骨の亀裂、そして今、実の妹のクナイによって破壊された太ももの筋肉。
ユキの肉体は、すでに死体と変わらないほどボロボロだった。太ももから流れる血が足を伝い、床に赤黒い水たまりを作っていく。
だが、ユキの瞳には、生気も痛みに対する恐怖も存在しなかった。
「あは……あははっ……!」
口から血の泡を吹きながら、ユキは濁った瞳でサヤを見つめ、壊れた人形のように笑った。刺さったクナイを抜くことすらせず、肉が軋む音を立てながら、血の尾を引いてサヤへと一歩踏み出す。
「嫌……嫌だ……! 来ないで、お姉ちゃん……っ!」
サヤの精神が、ついに限界を迎えて弾け飛んだ。
血みどろになりながら自分を殺しに来る姉の姿。自分がつけてしまった深い傷。逃げることも、戦うことも許されない絶対の絶望。
サヤの膝がガクガクと折れ、ついにその場に崩れ落ちた。忍者刀が手から滑り落ち、硬い床に虚しい音を立てる。
「……てください」
サヤの口から、小さく弱々しい掠れ声が漏れた。
「……ん? 何か言ったかしらぁ?」
ミチルは眉をピクリと動かしたが、口元を醜く歪めると、わざと聞こえないフリをしてティーカップを弄んだ。「声が小さくて聞こえないわ〜? 雑音かしら?」
サヤは涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、床に両手をつき、床に頭を擦り付けた。
かつて決して人に屈せず、どんな敵にも刃を突き立ててきた凄腕の忍びが、冷たい床に額を押し当て、土下座をして叫んだ。
「お願いします……! お願いしますッ!! 私がなんでもします……何でも差し出しますから……っ! お姉ちゃんを……お姉ちゃんを元に戻してくださいッ……!!」
痛烈な悲鳴が部屋に響き渡る。
プライドも、両親の仇への憎しみも、何もかもを投げ捨てた、ただ一人の少女としての涙の命乞い。
その姿を見たミチルの口元が、三日月の形に釣り上がった。
「ふふ……ふははっ、あーはははははっ!!」
ミチルは腹を抱えて大爆発したように笑い転げた。
「素晴らしい! 素晴らしいわ妹ちゃん! 仇に膝を折り、涙を流して命乞いをする気分はどう!? ああ、なんて惨めで、美しく濁った絶望の色なのかしら!」
ミチルは満足そうに息を吐くと、パチンと指を鳴らした。
「ユキ、止まりなさい」
ピタリ、とユキの動きが止まる。
サヤの喉元まで数センチのところで、クナイが静止した。その太ももからは、相変わらずポタポタと血が滴り落ちている。
ミチルはピンヒールを鳴らしながらゆっくりと歩み寄り、俯くサヤの頭を見下ろした。
「ねえ、妹ちゃん。本気で言っているの?『なんでもする』って」
「……はい」
サヤは拳を床に叩きつけ、歯が折れるほど噛み締めながら答えた。
「あなたがお姉ちゃんの代わりに、私の忠実な『駒』になるっていうの? 私のために人を殺し、私に靴を舐めろと言われたら舐める、惨めな犬になるっていうの?」
悔しさと怒りと無力感で、サヤの気が狂いそうだった。
両親を死に追いやった仇の足元で、その奴隷になると誓わなければならない屈辱。脳味噌が焼けるような屈辱に耐えながら、サヤは血の混じった唾を飲み込み、震える声で答えた。
「……はい。おねがい、します。……お姉ちゃんを……助けて……」
「あはっ! いい返事ね!」
ミチルは満足そうに微笑むと、サヤの顎を足先でクイッと蹴り上げた。
「じゃあ、手に持っている予備の武器も全部捨てて。そして、その停止しているお姉ちゃんの真ん前に無防備な姿で立ちなさい。逃げたらお姉ちゃんを殺すわよ?」
サヤは言われた通り、腰の隠しナイフや毒針をすべて床に放り投げた。
そして、血塗られた膝をガクガクと震わせながら立ち上がり、操られて微動だにしない姉の目と鼻の先へと歩み寄った。
「お姉ちゃん……ごめんね。私、弱くて……」
サヤが涙をボロボロと流しながら、ユキの顔を見つめる。
だが、ユキの瞳は濁りきっており、目の前に立つサヤの姿など映していなかった。
それを見たミチルは、心底楽しそうに手を叩いた。
「ふふふ……最高の決断だわ、妹ちゃん。……でもね」
ミチルの声から、一瞬で温もりが消え去り、底知れぬ邪悪な冷酷さが満ち溢れた。
「結論から言うとね。……どっちも、要らないわ」
サヤの瞳が凍りつく。
「あははっ! 騙される方がバカなのよ! 絶望した顔が見たかっただけ!」
ミチルはクスクスと笑いながら、さらなる絶望を突きつけた。
「冥途の土産として教えてあげるわ。あなたたちの両親を嵌めたのは『徳頭サトミチ』。現官房長官であり、次期総理よ。知りすぎた忍びが邪魔だったみたいね」
真の黒幕の名前。その残酷な事実にサヤが息を呑む間も与えず、ミチルは無慈悲な死の号令を下した。
「ユキ、おやりなさい! そいつの心臓を刺し貫いて殺しなさい!!」
ユキは両手でクナイを固く握り直し、全身の筋力を限界まで跳ね上げた。
「おねぇ……ちゃん……」
サヤは逃げなかった。逃げればユキが死ぬ。もう、受け入れるしかなかった。大好きな姉の手で命を散らすことが、自分に与えられた最後の結末なのだと、涙を流しながら静かに目を閉じた。
「死ねぇぇぇぇぇっ!!」
ユキは冷酷な咆哮と共に、サヤの無防備な胸元、その心臓の真上を目掛けて、全力の力でクナイを振り下ろした。
殺意の籠もった最速の一撃。鋭利な刃が、サヤの皮膚を切り裂くコンマ一秒前――。
――キィィィィィンッ……!!!!
空間を切り裂くような、甲高く澄み渡った金属音がスイートルーム全体に響き渡った。
「……え?」
ミチルの叫びが途切れる。
振り下ろされたユキのクナイは、サヤの胸元に届く直前で、目に見えないほど強固で透明な「何か」に完璧に阻まれ、強烈な反動と共に弾き返されていた。
ユキの痺れた手からクナイが滑り落ち、硬い床に転がる。
部屋の温度が、一瞬にして氷点下へと叩き落とされた。




