ダージリンの香りと、孤立した聖女
――ズキリ、と。
息を吸い込むたびに、ひびの入った肋骨が肺の裏側をヤスリで削るような鈍い痛みを主張してくる。
左腕に巻かれた分厚い包帯の奥では、レイカの炎で焼かれた皮膚が熱を持ち、まるで別の人間の肉が張り付いているかのように重く、ジンジンと脈打っていた。
数日前の敗北で負った傷は、まだ全く癒えていない。立っているだけで視界の端が白く明滅するほどの疲労が、私の全身に鉛のようにのしかかっていた。
「お姉ちゃん、大丈夫? 無理しないで……私が先に行くから」
薄暗い非常階段の踊り場で、サヤが心配そうに私の顔を覗き込んだ。黒装束に身を包んだその体からは、いつもの天真爛漫さとは裏腹に、ヒリヒリとするような鋭い殺気が立ち上っていた。
ミチルへの恐怖を、より強烈な「憎悪」で塗りつぶすことで、サヤはかろうじて己の心を保っていた。彼女の瞳は、今度こそあの偽りの聖女を絶対に殺すと、暗く冷たい炎を燃やしている。
「……平気よ。痛み止めが効いてる」
私は額に滲んだ冷や汗を拭い、アカネから受け取った『護衛の配置計画書』の図面を頭の中に思い描いた。
『ユキちゃん、サヤちゃん。聞こえる?』
インカムから、ユカリさんの押し殺した声が響く。
『アカネの残した配置図と、ホテルの監視カメラの映像が完全に一致したわ。……信じられないことに、ミチルのいる最上階の部屋の周辺から、ボディガードたちが外されているの』
「つまり……ミチルの部屋は今、完全に孤立しているのね?」
『ええ。部屋の中に最後まで居たボディガードはアカネだけ。そのアカネも居ない今、ミチルの周りには、文字通り誰もいないと考えていいわ。……でも、罠の可能性が大きいわよ』
私はサヤと小さく頷き合った。
アカネがボディガードを外された時点で、ミチルは自らの手で最強の盾を遠ざけていたのだ。
盤外の協力者――氷の魔法少女がもたらしたこの一瞬の隙。これを逃せば、二度とあいつの懐に潜り込むことはできない。
私たちは音もなく階段を駆け上がり、最上階の廊下へと足を踏み入れた。
足裏の感触だけで絨毯の毛並みを読み取り、足音を完全に殺す。
「サヤ、あなたはいつものように天井裏へ張り付いて。私は正面から行くわ」
「了解。……今度こそ、絶対に首を獲る」
サヤは音もなく壁を駆け上り、天井に張り付いた後は闇と同化した。
私は一人、重厚な扉の前に立つ。
大きく深呼吸をして、自分に喝を入れる。両手に愛用のクナイをしっかりと握りしめ、私は蹴り破るほどの勢いで扉を押し開けた。
「……そこまでよ、桐里ミチル!」
バァンッ! と大きな音を立てて開け放たれた室内。
横浜の美しい夜景を背にした広大なスイートルームには、高級なダージリンティーの甘く芳醇な香りが漂っていた。
「あら」
部屋の中央。真っ白な革張りのソファに深く腰掛けていた桐里ミチルは、突然の侵入者にも全く動じることなく、優雅にティーカップをソーサーに置いた。
「ずいぶんと乱暴なお客様ね。フロントを通さないなんて、マナー違反よ?」
純白のドレス。一切の穢れを知らないような、美しい微笑み。
先日、私たちを虫けらのように踏みにじった時と全く同じ、見下すような余裕の態度だ。
「護衛のいないあんたなんか、もう敵じゃない。……大人しく両手を上げて、すべてを自供しなさい」
私はクナイの切っ先をミチルに向け、じりじりと間合いを詰める。
しかし、ミチルは立ち上がることすらせず、ふふっ、と鈴を転がすように笑った。
「敵じゃない、か。……それはどうかしら?」
ミチルの澄み切った瞳が、私からスッと外れ、部屋の『天井』へと向けられた。
「そこにいるんでしょ、妹ちゃん。埃が落ちるから、さっさと降りてきなさいな」
(……やっぱり、感知されている!)
ミチルの『空間把握』は、孤立しようとも健在だった。
「チッ……バレてるなら、しょうがないね!」
ミチルの言葉と同時に、天井からサヤが音もなく着地した。その手にはすでに抜身の忍者刀が握られ、切っ先はミチルの細い首元へ真っ直ぐに向けられている。
前方に私。背後にサヤ。
護衛のいない密室で、忍びに完全に前後の死角を塞がれた状態。常人であれば恐怖で泣き叫ぶか、命乞いをするしかない絶体絶命の状況だ。
だが、ミチルの顔からは、相変わらずあの薄気味悪い微笑みが消えなかった。
「余裕ぶってるのも今のうちだよ。……その綺麗な首、真っ赤に染めてあげるから」
サヤの低く唸るような声が、部屋の空気をピリッと凍りつかせる。サヤから立ち上る凄まじい殺意と憎悪が、私の肌をチリチリと焼くように感じられた。
「サヤ、待って。まだ殺しちゃダメよ」
私は妹を制止しながら、ミチルを鋭く睨みつけた。
「三年前の事件の全貌。知っていることをすべて吐いてもらうわ」
「ふふっ……あははははっ!」
ミチルは突如として、腹を抱えて大声で笑い出した。
「あー、おかしい! ネズミが二匹、得意げに罠を張ったつもりになっているなんて! あなたたち、本当に何も分かっていないのね」
ミチルは笑い涙を指で拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「教えてあげるわ。魔法少女の強さって、何だと思う?」
まるで学校の教師が、出来の悪い生徒に教え諭すような、講義めいた口調だった。
「それはね、『イメージ』よ。あの頭の悪い炎のお猿さん(レイカ)や、無愛想な氷のお人形さん(アカネ)は、ただ『熱』や『冷気』という、一つの単純なイメージを物理的に現実に引き出しているだけ。だから、あなたたちのような小賢しいネズミでも、物理的な罠を使えばどうにか対処できてしまう」
ミチルはコツ、コツとピンヒールの音を鳴らしながら、私の方へと一歩近づいてきた。
「でも、私は特別なのよ」
その瞳が、真っ直ぐに私の目を射抜く。
ミチルの瞳孔の奥で、万華鏡のように奇妙な光が揺らめいた。
「お姉ちゃん! 何聞いてんの、早く制圧しないと護衛が戻ってくるよ!!」
背後で、サヤがしびれを切らして叫んだ。
その声を聞いた瞬間だった。
――ドクンッ。
私の心臓が、ありえないほどの早鐘を打った。
(……え?)
視界が、ぐにゃりと歪む。
先ほどまで甘く香っていたはずのダージリンティーの匂いが、突如として腐った泥のような悪臭に変わった。
研ぎ澄ましていたはずの忍びの五感が、強制的に別の何かへ上書きされていく。
『お姉ちゃん、早く!!』
(ああ……うるさい)
耳に届いたサヤの声。その響きを聞いた瞬間、私の胸の奥底から、真っ黒で、煮えたぎるような『憎悪』が爆発的に湧き上がってきた。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。
私の人生をめちゃくちゃにし、すべてを奪ったのは、他でもない。背後で間抜けな声を出している、この『サヤ』という存在ではないか。
頭の中が、恐ろしいほどにクリアに冴え渡っていく。
気がつけば、私はミチルに向けていたはずのクナイを滑らかに握り直し、腰の捻りを利用した全力の踏み込みで、背後にいるサヤの心臓めがけて、鋭く刃を振り抜いていた。
「っ……!!」
ギリギリのところでサヤが上体を反らし、私の放ったクナイがサヤの頬を薄く切り裂いた。
ツツ……と、サヤの白い頬から一筋の赤い血が流れる。
「お姉ちゃん!? 何して……どうしたの!?」
大きく飛び退いたサヤが、悲痛な声を上げる。
だが、今の私には、その声すらも不快でたまらなかった。
「黙れ。……お前が、憎い。ここで殺してやる」
私の口からこぼれ落ちたその言葉には、一滴の嘘も、ためらいもなかった。親の仇を見るような『極限の敵意』だけで、私は真っ直ぐにサヤを見据えていた。
「あはははははっ! すごい、すごいわ!」
ミチルが手を叩いて歓喜の声を上げる。
「種明かしをしてあげるわ、哀れな妹ちゃん!」
ミチルは嬉々として、自分のドレスの裾を摘んで、絶望するサヤに向けて優雅にお辞儀をした。
「私は『感知の魔法少女』なんて呼ばれているけれど……それ、半分は嘘なの。私の本当の魔法は、感情を可視化することと……視認した感情を『動かせる(支配する)』ことよ!」
『感情の支配』。
物理的な防御も、忍びの技術も一切通用しない。人の心そのものを書き換え、狂信的な駒へと変えてしまう悪魔の魔法。
だからこそミチルは、護衛が不要なほど余裕だったのだ。ユキがサヤを殺すための『狂信的なボディガード』に書き換わることを知っていたから。
ミチルの残酷な声が、凍りつくサヤに叩きつけられる。
「あなたが私に向けていた、その熱くて醜い『絶対的な殺意』。……私、その感情の色がとっても気に入っちゃったから。お姉ちゃんの心の中に、そっくりそのまま上書きしてあげたの。もちろん、憎悪の矛先は……目の前にいる、愛しい妹ちゃんに向けてね!」
「そんな……お姉ちゃん、嘘でしょ……っ!」
絶望に顔を歪めるサヤ。
だが、ミチルの言葉すら、今の私の耳には意味を持たない雑音でしかなかった。私の世界にはもう、目の前の敵を排除するという、純粋な殺意しか存在していない。
「さあ! 観客は私一人だけ。特別席よ!」
ミチルが指揮者のように両手を高く掲げる。
「姉妹なかよく、どちらかの息の根が止まるまで……血塗られた舞踏会を踊りなさい!!」
「死ねっ、サヤ!!」
私は感情の抜け落ちた冷たい声で言い放ち、サヤの首を刎ねるべく、再び全力で床を蹴った。
「お姉ちゃん……やめてっ!!」
涙を流しながら忍者刀を構える妹と、純粋な殺意のみで刃を振るう姉。
誰も想像できなかった、強固な絆で結ばれた姉妹による、絶望的で残酷な死闘の幕が、今、無情にも切って落とされた。




