水蒸気の檻と、見えざる刃
キンッ、と。
空気が凍りつく、甲高く耳障りな音が地下スパ施設に鳴り響いた。
「……鬱陶しい」
水島アカネの口から漏れた言葉には、相変わらず一切の感情がこもっていなかった。だが、その能力の出力は確実に上がっていた。
彼女が細く白い腕を軽く振るうたび、空間の水分が強制的に凝固し、空気を切り裂くような鋭い氷の槍が数十本単位で生成される。それはもはや魔法というより、無慈悲な殺戮の機関銃だった。
「おっと……! 危ない危ない!」
サヤは持ち前の身体能力でアクロバティックに氷の槍を躱していたが、徐々にプールの縁ギリギリへと後退させられていた。
だが、その動きは決してただ「逃げている」わけではない。
(魔法少女の力は理不尽だ。でも……私たちだって、この三年間、ただ指をくわえて泣いていたわけじゃない!)
私は激しく痛む左腕の火傷を庇いながら、闇に溶けるような歩法でプールサイドの円柱を蹴り上がった。ポーチから引き出したのは、髪の毛よりも細く、それでいて強靭な特殊合金の『鋼糸』。
「はぁっ!」
私は両手首のスナップを利かせ、四方八方の鉄骨や柱に向けて数本のクナイを放つ。クナイの尻には鋼糸が結びつけられており、一瞬にしてアカネの頭上に、目に見えない蜘蛛の巣のような『鋼糸の陣』が張り巡らされた。
ガキンッ! ギギィィッ!
アカネが放った氷の槍の何本かが、空中に張られた極細の糸に触れ、軌道を僅かに逸らされて壁や床へと突き刺さる。
「……糸?」
アカネのアイスブルーの瞳が、僅かに見開かれた。
力任せに空間を制圧する彼女の魔法に対し、私は徹底した『技術』でその威力を削ぎ落とす。
「サヤ、右から三本抜ける!」
「了解っ!」
私の声に呼応し、サヤの姿がブレた。
古より伝わる忍びの歩法『無影』。緩急を極限までコントロールし、相手の視覚に意図的な残像を焼き付ける技だ。
サヤは迫り来る氷の槍を最小限の動きで躱し、避けきれないものは愛用の忍者刀を絶妙な角度で滑らせて、氷の軌道を受け流す。三年間の血を吐くような修行が、魔法という絶対的な暴力を前にしても彼女を一歩も退かせない。
(サヤ、もう少し粘って!……あと五分、いや三分でいいから……!)
私は壁を蹴り、鋼糸を操りながら、時折、特殊な発熱弾を放ってサヤの足元を凍結から守る。
時間を稼ぐために回避と防御に徹するサヤと、見えない陣で戦場を支配しようとする私。しかし、アカネの非常識なほどの氷の質量と、肌を刺すような絶対零度の冷気は、確実に私たちの体力を奪い、逃げ場を無くしていく。
息を吸うたびに、肺の奥が凍りつくように痛む。睫毛には霜が降り、指先の感覚はとうに失われていた。
(……なぜ?)
一方、圧倒的な優位に立っているはずのアカネの心の中には、奇妙な戸惑いが生まれていた。
これまでの相手なら、自分の冷気を前にすれば一瞬で戦意を喪失し、凍りついて終わりだった。だが、目の前の黒装束の姉妹は違う。圧倒的な力の差を見せているにもかかわらず、その瞳には微塵も絶望の色がないのだ。
泥水をすすり、這いつくばってでも自分を殺そうとする、その黒く燃えるような執念。
何も感じないはずの自分の胸の奥が、何故かざわざわと波立つのを感じた。
「……もう、終わらせる」
得体の知れない焦燥感を振り払うように、アカネは両手を大きく広げた。
周囲の気温がさらに急降下し、タイルの床から凄まじい質量の氷の津波が隆起し始める。
(時間だわ!)
私は耳元のインカムから聞こえたユカリさんの「準備完了」の合図を聞き届け、叫んだ。
「サヤ! 今よ! プールの上へ跳べ!!」
私の指示に、サヤは一瞬だけ目を丸くした。空中へ逃げれば、回避運動は取れなくなる。完全な「的」だ。
だが、妹は私を疑わなかった。
「了解!」とニヤリと不敵に笑うと、サヤはためらうことなく、水を湛えた巨大なプールの中央に向かって大ジャンプを敢行した。
「……馬鹿なの?」
アカネの冷徹な瞳が、空中に無防備な体を投げ出したサヤを捉える。
彼女は両手を前に突き出し、最大出力の冷気をサヤに向けて、そしてサヤの真下にある広大なプールそのものに向けて一気に放射した。
「――凍りなさい」
ゴォォォォォォォォッ!!!
極低温の暴風が、空気を白く凍らせながらプールの水面を直撃した。
サヤは空中で体を錐揉み回転させ、ギリギリで直撃を避けてプールの対岸へと着水する。
だが、アカネの放った絶対零度の冷気は、数万リットルの水を湛えたプールの中心部を、一瞬にして分厚い氷塊へと変貌させた。
勝負は決した。アカネはそう確信した。
「……え?」
だがその直後、アカネの口から初めて、明確な戸惑いの声が漏れた。
凍りついたはずのプールから、異様な地鳴りのような音が響き始めたのだ。
アカネは知らなかった。
この地下プールの温水の温度は、戦闘開始からずっと、アジトにいるユカリさんのシステムハッキングによって安全装置を解除され、ボイラーの限界を突破して『熱湯』に近い温度まで上昇し続けていたことを。
極限まで高められたプールの温水(熱)と、アカネの放った極低温(冷気)。相反する極端な温度差を持つ二つの物質が、大規模に、かつ暴力的に衝突したのだ。
シュウゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!
鼓膜を破るような凄まじい爆発音と共に、凍りついた水面の周囲から、一気に大量の温水が沸騰・気化し始めた。
熱力学的な急激な相変化。行き場を失った莫大な熱量が、一瞬にして爆発的な『水蒸気』となって空間全体へと膨張した。
「な……これ、は……!?」
わずか数秒。
地下スパ施設の空間は、文字通り『視界ゼロ』の、濃密で真っ白な水蒸気の霧に完全に飲み込まれた。
照明の光は乱反射して真っ白な壁を作り出し、自分の手のひらさえ見えないほどの濃霧。
さらに、急激に発生した水蒸気の熱気と、アカネの足元の冷気が激しく混ざり合い、息苦しいほどの湿気と不快な温度差が、アカネの平衡感覚を強烈に狂わせた。
「……視界が、塞がれた……?」
アカネは咄嗟に氷の壁を周囲に展開しようとした。
だが、氷の魔法少女の最大の弱点。それは『対象を視認できなければ、正確な狙いを定められない』ということだ。
無差別に全方位を凍らせることはできても、それでは体力の消耗が激しすぎる上、この濃霧の中では、自分がどこを攻撃しているのかすら把握できない。
ピチョン……。
濃霧の奥から、水滴が落ちる音がした。
「……そこ!?」
アカネが音のした方向へ氷の槍を放つ。だが、それは空気を切る音を立てただけで、何の確かな手応えも返ってこない。焦ったアカネの呼吸が、微かに乱れる。
『……魔法少女の力は、確かに理不尽なほど強大よ』
四方八方から、反響して出所が分からない私の声が、濃霧の中に響き渡る。
『でも、あなたたちはその力に頼りすぎている。五感の一つを奪われただけで、自分の立ち位置すら見失い、ただ怯えるだけの迷子になる』
「どこ……どこにいるの……っ!」
常に冷静沈着で、何事にも無関心だったアカネの声に、初めて人間らしい「焦り」と「恐怖」の色が混じった。
サワッ……。
不意に、アカネの右側の霧が揺れた。
反射的に冷気を放つが、そこにいたのは、天井から鋼糸で吊るされた、黒い装束の上着だけ。
「くっ……!」
『私たち忍びは、闇と霧の底でこそ真価を発揮する。視覚になんて頼らない。……床を伝う微かな振動、血の匂い、空気の揺らぎ。そのすべてが、私たちの目になる』
アカネは闇雲に氷の花を周りに咲かせて自分の居場所を守ろうとする。しかし、視界を奪われた恐怖と、自分の周囲以外はすべて熱気に包まれているという状況が、彼女の極限の集中力を徐々に削り落としていた。
彼女は気づいていなかった。その絶対零度の防壁の、ほんの僅かな「死角」に、すでに泥這う忍びが入り込んでいることに。
チリッ、と。
アカネの背後。防壁の内側の空気が、微かに動いた。
「――っ!」
振り返ろうとしたアカネの首筋に、ヒヤリとした、氷よりも冷たい鋼の感触がピタリと添えられた。
「……動かないで」
濃密な水蒸気の中から、音もなく姿を現した私のクナイが、アカネの細い喉笛を完全に捉えていた。私が吐き出す熱い息が、彼女の白い首筋にかかる。
「っ……!」
アカネの息が止まる。
ほんの少しでも魔力を練り、冷気を放とうとすれば、それより早く私の刃が彼女の命を刈り取る。心臓の鼓動が、クナイの刃先から私の手へと伝わってくる。
完全に詰み(チェックメイト)の状況だった。
「お見事、お姉ちゃん!」
正面の霧の中から、サヤが水滴を滴らせながら悠然と歩み出てきた。その手には、抜身の忍者刀が握られている。水に濡れた黒髪の奥で、彼女の瞳が残酷な三日月型に歪んだ。
「さてさて。お父さんたちの仇の護衛さん。……このまま首をチョンパされたくなかったら、大人しく言うこと聞いてよね?」
絶対零度の氷姫と、霧の底から這い出た忍びの姉妹。
一瞬の判断が生死を分ける緊迫した空間で、私はクナイを握る手にぐっと力を込め、静かに言い放った。
「……さあ、教えてもらうわ。桐里ミチルの、本当の目的と能力の秘密を」




