第7話 「継命の魔術師」
僕は、一人きりになり、少し息をはいた。温室は、静かだった。外の光が、ガラス越しにやわらかく落ちる。
湿った空気、一定に保たれた温度――変わらない場所。
ゆっくりと、観葉植物に手を伸ばして葉に触れる、その直前のこと。ほんのわずかに、指先が止まる。手袋の上から右手の指先をなぞった。確かめるように。
(……進んでいるな)
手の感覚は、鈍い。だが、分からないわけではない。ごくわずかに、時間がずれている。触れる葉は、柔らかくて生きている感触がした。
別の感覚が重なる、幼い日の記憶には小さな少年がいた。触れられた小さな手を思い出す。歪んでいたものが、整う感覚。あのときの少年。
「……ディオン。君は僕を覚えているか?」
……あれは、あの時は理解していなかった。だが、今なら、分かる。あれは、『戻された』のだと。右手に視線を落とすと、白い手袋。その下では、静かに、確実に『時間が進んでいる』……止まってはいないのだ。息を、わずかに吐く。誰もいないのだから、少しくらいいいだろう。ここは、保たれている。だが、自分は、違うのだ。
◇◇◇◇◇
治療の時間になり、執務室へ戻ると数分後に声がかかった。
「フェルマ・ヒルベルト参上いたしました」
「……入れ」
短い言葉を返すと、扉が開き、光がわずかに揺れた。
彼は、宮廷魔術師――フェルマ・ヒルベルト。またの名を『継命の魔術師』という。
「本日の処置に参りました」
穏やかな声。長い外套を着ていた。整えられた白髪まじりの金髪に、無駄のない立ち姿。視線は鋭いが、一切の揺れがない所が息子のリネによく似ていた。初めて見れば、威圧としか感じないが、近づいてくる足取りは、いつも静かだ。音を立てないように、空気を乱さないように落ち着いている。
やがて重厚な扉が閉じられた。外の音は、届かない。
整然と並ぶ書類に規則的に配置された家具。すべてが、正しい位置にある。
僕は、ゆっくりと立ち上がり、カウチに身を預けた。フェルマは、何も言わず礼をした後、静かに近づく。
「殿下、お変わりありませんか? どうぞ右手を」
手袋を外す。めったに外すことのない手袋。白い布が、静かに滑り落ちる。フェルマは、すぐには触れず、観察する。一瞬だけ、指先を見つめた後、状態を確かめるように、ゆっくりと手を取る。
指先に触れる力は、やわらかく強く握らない。逃げ場を残すような触れ方だ。露わになる指先は、わずかに色が違う。それは生きている色ではない。フェルマの視線が、そこに落ちる。
「殿下……進行しています。継命の影響が、末端に出ています」
淡々とした声だった。僕は、何も言わない。『知っているよ』それが、どういう意味かも。フェルマの手が触れ、冷たい魔力が流れ込む。
感覚が戻る。だが、それは修復ではなく繋ぎ止めるだけのもの。決して……止まってなどいない。右手に視線を落とす。完全に元に戻ることはないと分かっている。ただ、『遅らせている』だけだ。
フェルマが、手を離す。
「……恐れながら、殿下。騎士学院の生徒の話を耳にしました」
空気が、わずかに変わる。(来るか)
「詠唱なしで、暴走を鎮めた者がいると」
指先が、わずかに止まる。
「……名は確か、ディオン・リュミエール」
その瞬間、呼吸が、わずかに深くなる。
(……やはり)
「……そうか」
「私事ですが、危険な兆候です。制御されていない力は、いずれ破綻する」
ゆっくりとフェルマへ視線を向ける。
「……そうかもしれないね」
「けれど、だからこそ学院がある」
フェルマは、わずかに目を細める。
「学ばせるおつもりですかな?」
「導く」
穏やかな声音。
「扱えるようになるなら、それでいい」
フェルマは、何も言わない。わずかに、視線を逸らしたのだった。
◇◇◇◇◇
一方ディオンは、早朝から学院の図書室がある棟へ来ていた。まだ人の気配はなく、静かだった。足音だけが、わずかに響く。並ぶ本棚は整然とした配置で、崩れのない空間だ。本棚に並んだ一冊の魔術書を手に取る。
書かれているのは、『魔術理論』『詠唱』『基礎構造』
ページをめくっては、読む。読み進めては止まる。
「……違う」
もう一冊、また違う。
「……これも違う」
書かれているのは、『作る”魔術』だ。形を与えるもの。(……俺のものではない)諦めて開きかけの本を閉じた。(……分からない)初めて、そう思う。これまで、なんとなく使えていた。理由は知らない。だが、問題はなかった。
今は違う。分からないままでは、使えない。手を見ても、何も変わらない。だが、(……戻している)その感覚だけが、僅かに残っている。手元の本に視線を落とす。
並ぶ本は山ほどあるがどこにも、ない。
(……なら、カイルがやっていた水属性の清掃の魔術からだ。)本を棚に戻し、一冊の本を抱えて歩き出した。
◇◇◇◇◇
その日の夕刻。ディオンは、本を読みながら森の旧寮まで歩いていた。いつも通り帰る予定でいたのに、気づけば立ち入り禁止区域前まで来てしまっていた。
木々が、夕日を浴びてキラキラ揺れている。静かに、誰かを待っているようだった。




