第6話 「報告―ブリュム目線」
翌日、石造りの訓練場は、すでに静けさを取り戻していた。今はたはだ、焦げた焼け跡だけが明確に残っている。焦げた匂いも、まだ消えていない。
……未熟だ。短く、息を吐く。詠唱は正しかったが、理解が伴っていなかった。結果が、あれだ。
「……炎よ、立ち上がれ」
昨日の光景を思い出しながら、それとなく口に出す。初級と中級の狭間、扱える者は多い。だが、扱いきれる者は少ない。
止めるべきだった。魔術詠唱の講義は、常に危険と隣り合わせだ。予期せぬ事態が起きたとき、誰がどう動くのか。――試されるのは、そこだ。
そこでディオンを思い出す。あれは……異質だ。炎の消し方は制御でもなく、抑圧でもない。『崩壊』いや、違う。……還したのか。彼の言葉が、脳裏に残る。
「崩れかけていた。だから、戻しただけだ」
彼が何を言っているのか理解不能だが、否定もできない。
「……分からない、か」
あの少年の目。本当に、何も知らない顔だった。しかし、それが、最も危険だ意図していない力ほど、制御不能なものはない。ブリュムは、ゆっくりと踵を返した。
向かう先は、決まっている。――王宮だ。
***
早朝、俺は王宮の長い廊下を歩いていた。高い天井には緻密な装飾が施され、美しさが際立つ。絡み合う蔦の文様。花を模した彫刻、幾何学的に組まれた繊細な細工。目に写るどれもが、寸分の狂いもなく配置されている。一つとして、歪みがない。壁面も同様だった。足音だけが響く。何度も歩いた場所だが、今日は妙に長く感じる。
(報告は、事実のみでいい)
感情は不要。判断は、上が下すのだからそれでいい。
「……それで、済む話か」
自問する。モヤモヤと考えていても答えは、出なかった。やがて、俺は一つの真っ白な扉の前で足を止めた。
衛兵が俺に気付いて道を開ける。セレノア王国第一王子、エリアスの執務室。
「ブリュム・ハイゼンベルク、参上いたしました」
「入れ」と短い声が聞こえ、俺は中へ入る。
早朝の光が、室内に差し込んでいた。高い窓から落ちる、やわらかな白。その中央に一人、座している。
セレノア王国皇太子――エリアス・セレノア・アルヴェイン。
淡い銀の髪が、光を受けて透けるように揺れる。整いすぎた輪郭。触れれば壊れてしまいそうなほど、繊細な造形。だが、その瞳だけは違った。淡く澄んだ水色の奥には、揺らがない、静かな意志がある。背筋は、ピンと真っ直ぐに伸びている。力みはないそれでも、『崩れることを許されていない』ような在り方に見えた。肘掛けに触れたままの指先が、わずかに動く。コンコンと規則的で何かを確かめるようだ。
呼吸は、静かで整っている。あまりにも、正確に。
『……保たれている』その言葉が、脳裏をよぎる。
エリアスは、ゆっくりと視線を上げた。やわらかな微笑だが、その奥にあるものは、決してやわらかくはない。それでいて、静かなのだ。だが、ただの静けさではなく張り詰めた、『保たれている』静けさ。
(……変わらないな、この方は)俺はわずかに、視線を下げる。
「少し……久しぶりかな? ハイゼンベルク卿。報告があると聞いたよ」
エリアス殿下の声は、いつも穏やかだ。それでいて、逆らうことを許さない、静かな重みを持っている。俺は静かに口を開いた。
「……はい。昨日の詠唱授業にて、魔力暴走が発生しました。原因は、詠唱理解の不足。ですが――」
簡潔に報告した一瞬、言葉が止まる。あれをどう説明する? 事実はある。だが、言ってよいものか。
エリアス殿下が、わずかに顔を上げた。
「続けろ」
殿下の声は変わらなかった。
「……一名の生徒が、暴走を鎮めました。詠唱は、使用していません。剣の腕も優秀ですが、それ以上に――」
一瞬、言葉を選ぶように間をおく。
「読む力に長けています。」
空気が、変わる。殿下の指が、わずかに動く。
「……名は?」
「ディオン・リュミエール」
その瞬間、空気がわずかに揺れた。……やはり。殿下は、何も言わなかった。ただ、名前が出た瞬間、ほんのわずかに呼吸が深くなるのを感じた。
「その、彼は……どうやって、鎮めた」
静かな問い。
「……炎に触れ、消失させました」
言葉にしてなお、違和感が残る。あれは……消したのではない。
「崩壊、あるいは――」
言いかけて、止める俺を見て、殿下が先に言った。
「……還した、か」
目を見開く。理解している……?
「……その可能性が高いと判断します」
声が、わずかに低くなる。エリアスは、視線を落とす。何かを、思い出すように。
やがて、一言納得したように頷いただけだった。
「……そうか」
だが、殿下のその一言の重さを、理解していた。
これはただの報告では終わらない。胸の奥が、わずかにざわつく。理性では、整理できている。
「……あの少年は」
言葉が、漏れる。
「危険です」
エリアスは、顔を上げる。その目は、静かだった。だが、揺るがない。
「……それは違うよ、ブリュム卿」
エリアス殿下は、静かに否定する。
「危険なのは、その力ではない。扱う者が、それを知らないことだ」
そのまま、続ける。声音は、やわらかい。
「だからこそ、学院がある。学べばいい。自身で扱えるよう導くことが、そなたらの役目だ」
穏やかだった。責めるでもなく、命じるでもなく。ただ、当然のことを述べるように。
……この方は甘い。俺は視線をわずかに下げた。理は、通っているし、間違ってはいない。しかし、あの力は、『学べば済む』類のものなのか? 一歩、踏み外せば、取り返しがつかない。
「……は」
しかし、それでも否定はしない。できない。俺は顔を上げた。エリアス殿下は、穏やかにこちらを見ていた。
揺らぎのない眼。この方は、異質さを理解している。その上で、『導ける』と、信じている。……やさしすぎる。それが、あの少年の救いになるのか。
あるいは――沈黙の中で、わずかに息を吐いて退出したのだった。




