第4話 「森のボロ部屋」
西に傾いた光が、木々の隙間から細く差し込んでいた。葉の影が揺れるたび、地面の模様が静かに崩れていく。森は音を飲み込み、遠くの気配だけが遅れて届く。
森の奥にある旧寮は、長いあいだ使われていなかった。扉を開けた瞬間、埃が舞い思わず、目を細める。
床は灰色に覆われ、足を踏み入れるたびに、薄く音がたった。ギシ、と古い木が鳴り、壁の隅には、いくつものクモの巣。生活の痕跡は、すでに消えている。
「……」
ディオンは、部屋の中を一通り見渡すと、無言で、扉の横に立てかけてあった古いほうきを手に取る。そのまま、掃き始めた。ザッザッ、単調な音が部屋に響き、埃が舞う。目を瞑り少しだけ、顔をしかめる。
「……っ」
小さく、くしゃみを一つ。掃く手を止める。
「……面倒だな」
とさすがのディオンも小さく呟く。再び、ほうきを動かす。ずいぶん集中していたようだ。やっと床が見えるようになり、クモの巣も、少しずつ消えていく。ふと、ディオンは、手を止めた。床を見下ろし、
(……整えれば、一瞬か)と思ったが、魔術を知らない。
「……」
再び、ほうきを握き、一心不乱に掃いた。ザッザッ、気がつけば、空がわずかに白み始めていたのだった。
◇◇◇◇◇
夕方の授業終わりのこと。
「おいディオン!ちょっと待てって!」
カイルは半ば走りながら追いついた。
「お前さ、どこ住んでんの? 見たことねーんだけど!他の奴に聞いても、分からないってさ」
ディオンは足を止めない。
「……離れだ」
「は?離れ?」
「森側の建物」
「森!? なんでそんなとこにいんだよ!」
ディオンは返事しない。カイルは笑いながら肩をすくめた。
「よし、決めた。今日行く」
「来るな」
即答だった。
「なんでだよ! 余計行きたくなるわ!」
しばらく歩くと石畳が途切れ、土の道になる。周囲の声が消えていく。辺りは鬱蒼として、カイルは鳥の羽ばたきにさえ反応し、周囲を警戒したように言う。それもそのはずだ。辺りは、暗くなりはじめ普通の人間であれば、恐怖を感じるのも理解できる不気味さだった。
「……おい、マジでこっちなの?」
木々の影が長く伸びている古びた建物が見えた。
「うわ……なにここ」
木造に、壁はくすみ窓も曇っている。誰もいない気配が漂う旧い寮。ディオンは古い木製の扉を開けてカイルを入れた。扉はぎ、と音がした。中は薄暗く、ランプがゆらゆら揺れている。机、ベッド、最低限。簡素だったが、ディオンには十分だ。
「……お前、ここで寝てんの?」
「そうだ」
「いやいやいや、寮じゃねーじゃんこれ」
床が軋み、カイルは一歩踏み込んで、ふと黙った。
「……なんか」
ディオンは振り返らない。
「なんか、静かすぎて落ち着かねーな」
「慣れればいい」
「慣れねーよ普通」
風が窓を鳴らし、カイルは頭をかいた。
「……ディオン、お前さ」
少しだけ、声の調子が変わる。
「ここ、好きでいるのか?」
ディオンは少しだけ間を置いた。
「……嫌いではない」
「……ふーん」
カイルはそれ以上聞かなかったが、代わりにニヤっと笑う。
「ま、いいや」
机に肘をついて言う。
「たまには来てやるよ。ここ、暇だろ」
「来るなと言った」
「聞こえねーな」
軽く笑って、外に出ていくと去り際に一言。
「暗くなる前に食堂来いよ! 迷うなよー!」
扉が閉まり、静けさが戻る。ディオンはしばらく動かず、窓の外を見ていた。
翌日の夕刻。カイルは床を見下ろしたまま、ため息をついた。そのまましゃがみ込むと、指で床をなぞる。
スッ――うっすらと線が浮かび、一定方向に揃った細い筋が見えた。しかも、部屋の隅だけ、わずかに埃が残っている。
「……いや、やっぱ変だろ」
「……何がだ」
「掃除だよ掃除! なんで全部ほうきでやってんだよ!」
ディオンは、少しだけ考える。
「……それしか知らないからな」
「……は?」
「……清掃の魔術は、知らない」
「いやあるわ!! むしろ初歩中の初歩だぞ!?」
「……」
「なんでそんな無関心なんだよ!!」
カイルは立ち上がり、床を指さした。
「見ろよこれ。全部“同じ方向”に掃いてあるし、しかも隅、取りきれてない」
と窓際を指した。
「あとこれ、窓枠も、拭いてない」
さらに、空中を手で払う。
「で、空気が重い」
ディオンは、少しだけ視線を動かす。カイルは、軽く袖をまくる。
「普通な? 魔術で一気にやるんだよ。いいか、見せてやる」
カイルは一歩前に出て、手をかざす。静かに息を整え、そして、はっきりと詠唱する。
「水よ応えよ!」
空気が、わずかに震える。床の隙間に残っていた水分が、ゆっくりと浮かび上がると、粒が集まり、小さな水の塊になる。カイルは、そのまま指を動かした。
すると、水が流れ、埃を巻き込みながら滑るように床をなぞった。水のまとまりは、クモの巣を濡らし、絡め取りながらまとめて、一か所へ集まる。最後に、軽く手を振ると、水が、外へと弾かれた。
「……どうだ」
少しだけ得意げな顔のカイルを、ディオンは、じっと見た。
「……便利だな」
素直な感想を言うディオンに気を良くしたカイルは満面の笑みを浮かべている。
「だろ!? これが普通だからな!」
ディオンは、床を見る。少しだけきれいになった部分。
「……水を使うのか」
「そうだよ! 状況に合わせて属性変えんのが基本!」
「……なるほど」
「……さっきの、どうやって動かしていた」
「え?」
「……水の形が、途中で変わっていた」
カイルは、一瞬きょとんとする。
「……いや、普通に制御してただけだけど」
「……そうか」
ディオンは、少しだけ、考えるように目を伏せた。
「……なんだよ」
「……いや。……面白いと思った」
カイルは、少しだけ笑う。
「だろ? 魔術ってのはな、『命令』じゃねえ『応答』だ」
その時、カイルの足元には水。まだ残っていた水で、ツルッと足を滑らせる。
「うわっ!!」
カイルは盛大に転んだ。
「……危ないな」
「お前のせいじゃねえけど絶対これお前の部屋のせいだろ!!」
少しの沈黙の後、ディオンは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。カイルが転んだ拍子に、床の隅にあった箱がひっくり返る。ゴトッ。
「いてて……」
起き上がりながら、ふと天井を見る。
「……なあ」
「……なんだ」
「これ、まだクモいるんじゃね?」
天井の梁の暗がりの奥に黒い影。
「……」
さっと動いたかと思った刹那。糸が、二人の前に落ちてくる。
「……あ」
息つく間もなくドサッと床が軋み、音が鳴った。それは――かなり巨大な蜘蛛だった。長い脚が床板へ叩きつけられ、狭い部屋いっぱいに広がる。ぎち、ぎち、と湿った音を立てながら、蜘蛛がゆっくり身体を持ち上げた。
節のひとつひとつが、黒く鈍く光り、赤い目玉がキョロキョロと忙しなく動いていた。目が、多すぎる。しかし、ゆっくりと確実に、こちらを向く。
「……いや無理無理無理無理!!!」
カイルは一歩、後ずさる。床が、ギシ、と鳴る。
「……いやこれ絶対ただのクモじゃねえだろ!!」
「クモか」
と呑気な反応のディオンとは対照的だ。
「クモか。じゃねえよ!」
クモが、俊敏に動き、一気に二人に距離を詰める。
「来た!!」
カイルは反射的に手をかざす。
「水よ、応えよ!」
水が集まり塊となって、クモへ叩きつけられた。バシャッ! 水は蜘蛛に降り注いだが、クモは簡単に水を弾く。全くクモは止まらない。
「うわ、効いてねえ!?」
クモが、ゆっくりとこちらを見る。そして、ゆっくりと話し始めた。
「……久しいな。長く待った」
低く、濁った声だ。ディオンだけが、反応する。
「来るぞ!!」
「……喋るのか?」
「最初から、そうだ。大抵の者には聞こえぬだけで」
「え!? なに!? 今なんか言った!?」
「……いや」
クモの脚が、わずかに動く。だが、動きがずれている。一拍遅れているように思う。
「ここは、落ち着く。崩れかけた場所は、良い。繋ぎやすい」
ディオンの視線が、わずかに変わる。
「……お前は、何だ」
問いかけにクモは応えた。
「……我は、あるお方の、試み」
空気が、重くなる。
「命を、繋ぐ……途切れぬように、終わらぬように。そう願われて、生まれた」
ディオンの指先が、わずかに動く。
「……あるお方?」
クモは、わずかに揺れる。
「ちょっと待てって!! お前ら何の話してんだよ!!」
クモが、じわじわと二人の距離をつめる。
「お前は、違うな。繋がない、還す者。だから――我らに、触れる!」
蜘蛛は、素早い動きで糸を吐いた。細いが、鋭い。ディオンは、とっさに壁に立て掛けてあるホウキを手に取ると、ひらりと軽く糸をかわし、脚めがけて大きくホウキを振り抜いた。たくさんある脚の一つが少し鈍くなっていたことをディオンは最初に感じていた。そして、手のひらをクモにかざした。
次の瞬間、クモはピタリと止まり、巨大な体が空中で静止したのだ。誰が見ても不自然だった。
「……は?」
ディオンは、そのまま蜘蛛に近づき恐れもなく、手を伸ばして軽く、体へそっと触れる。パキ。音は小さかったが、ひび割れるような音と共に、巨体が内側から崩れていく。ついに脚が力を失い、体が形を保てなくなった。まるで糸がほどけるような崩れ方だった。そのまま、クモは最後に言う。
「……あるお方は、正しい。命は、繋ぐべきだ。還しては、ならない。お前は――間違いだ」
言い残して、塵のように消えた。
「……」
「……え? 今しゃべってた? いやちょっと待て。なんでそれ触って終わりなんだよ!!!」
「?……崩した」
「だから雑なんだよ!!!」
しばらくしてカイルは、床に手をつく。
「……マジで死ぬかと思った……」
「……そうか?」
「“そうか?” じゃねえよ!!!」
「……」
「……今のなに?」
ディオンは、床を見る。
「……巣の延長だ」
「は?」
「……この部屋に残っていた糸の“流れ”を使っていた」
「いやいやわかんねえって!!」
ディオンは、天井を見上げる。
「……え? 今度は何だ?」
「……少しいる」
「やめろよ!!」
少しの沈黙。そして、カイルは笑う。
「……まあでも、一人でやるよりマシか」
「……」
二人の間に、わずかな空気が生まれる。
「また、来てもいい」
「安心しろ、もう行かねーよ!」
笑い声をあげるカイル。この時のカイルは気づいていなかった。ディオンがわずかに、壁に手をついていることを。カイルには気づかれないように。




