第35話 「最初から」
王国は春を迎えた。
王宮の庭園では、淡い花々が静かに揺れている。
長かった冬は終わりを迎え、柔らかな風が吹き始めていた。
けれど、その春は、どこか静かすぎた。
エリアスの体調は、限界へ近づいていたからだ。継命の侵食は、既に全身へ及び始めている。
歩けない日も増えた。呼吸すら不安定な日がある。
公務は極端に減らされ、姿を見せない日も多くなった。
けれど、その事実を知る者は限られていた。
王宮は沈黙している。
騎士達も侍女達も、まるで、崩れかけた何かを必死に隠すみたいに。
エリアスの執務室。窓辺へ春の光が落ちている。エリアスは椅子へ身体を預けたまま、静かに目を閉じていた。
右手の黒い痕は、もう隠しきれないほど広がっている。
脚も重い。今日は立ち上がることすら難しかった。
それでも、
小さく息を吐きながら、机の上の封筒へ手を伸ばす。羽ペンすら重く、指に力が入らず床に何度も落とした。
白い封蝋、短い手紙。何度も繰り返してきた呼び出しだった。
おそらく、これが最後になるだろう--そう思いながら、エリアスは静かに目を伏せる。
春風がレースを揺らした。脳裏へ浮かぶのは、黒髪の少年と紅茶を飲みながら笑う顔。真っ直ぐな声。
『減るなら、会いに来ればいいだろ』
気付けば、小さく笑っていた。
「……本当に」
掠れた声が零れる。
「変わらないな、お前は」
*****
控えめなノックが響く。
エリアスはゆっくり顔を上げる。
「……入れ」
扉が開くと、春の光と共に、ディオンが姿を現した。
部屋へ入った瞬間、ディオンは小さく息を止める。
(分かっていた……体調が悪化していることは)
ここは、温室--ではなく白い執務室だった。
開けられた窓から、春の風が入り込んでくる。
以前は机へ積み上がっていた書類も、今は無い。静かだった。静かすぎるほどに。
その代わりみたいに、机の端には紅茶道具が置かれている。
エリアスは椅子へ身体を預けたまま、小さく笑った。
「……最近は、暇なんだ」
穏やかな声色なのに、
実際にエリアスを目の前にすると、想像以上だった。白い顔色、細くなった身体。長袖の奥へ隠しきれない黒い侵食。そして、立ち上がれないほど衰弱していること。
「……休まれてください」
エリアスは返事をしなかった。
執務椅子へ深く身体を預けたまま、浅い呼吸を繰り返している。
立ち上がる力が残っていないのは、見れば分かった。
——なら、何故。
どうして誰かを呼ばない。
どうしてベッドへ行かない。
そこまで考えて、ディオンは気付く。……違う。
行けないんじゃない。
行かないのだ。
エリアスはそんな視線へ気付いたのか、小さく笑った。
「そんな顔をするな」
「……します」
ディオンは眉を寄せたまま近づく。春風が白いカーテンを揺らした。窓の外では、花弁が静かに舞っている。
以前、温室で見た景色に少し似ていた。
けれど、今はもう、穏やかなだけではいられない。
ディオンは椅子の前で立ち止まる。何か言おうとして、結局、言葉が出なかった。エリアスは静かにその様子を見上げている。
「……座れ」
ディオンは黙って向かいへ腰掛けた。
「温室場所じゃなくて、すまない」
しばらく沈黙が落ちる。
聞きたいことが山ほどあった。どうしてここまで黙っていたのか、何故助けを求めないのか、何故そんな顔で笑うのか。
けれど、目の前のエリアスを見ていると、責める言葉は出てこなかった。
代わりに、ディオンは静かに口を開く。
「父上に、還命のことを聞きました」
エリアスの目が僅かに揺れる。
「代償があることも、記憶が削れることも」
春の光が静かに机へ落ちる。
エリアスは何も言わない。その沈黙が、逆に肯定みたいだった。
ディオンは小さく息を吐く。
「それで、父上に聞いたんです。小さい頃の俺って、どんなだったか」
エリアスが少しだけ目を瞬く。ディオンは苦笑した。
「よく笑う子だったって。人懐っこかったらしい」
「全然覚えてないけど」
掠れた笑いだった。
「昔、あなたを無礼にも“エリ”って呼んだ」
その瞬間、エリアスの呼吸が、ほんの僅かに止まる。
ディオンは気付かないまま続けた。
「そんなことする子どもだったんだな、俺」
窓の外で、春風が花弁を攫っていく。長い沈黙が落ちた。
エリアスはゆっくり目を伏せる。その横顔へ、どこか懐かしむような笑みが浮かんでいた。
「……後にも先にも……そんな呼び方をしたのは、お前だけだった」
ディオンが少しだけ目を瞬く。
「お前は、初対面なのに妙に遠慮が無くて」
小さく笑う。
「勝手に隣へ座って、紅茶を飲んで、気付けば、毎日来るようになっていた」
ディオンは黙って聞いていた。
(何故だろう。知らない話のはずなのに)
胸の奥が、痛かった。
光を透かすガラスのポットには、静かに紅茶が満ちていた。エリアスは、静かに目を細めそっと手を伸ばした。
「……楽しかったよ」
その言葉だけが、春の静けさの中へ優しく落ちていく。
やがて--エリアスは静かに視線を向ける。
その目は穏やかだった。
だからこそ、全部見透かされている気がした。
「……ディオン」
名前を呼ばれる。
「お前が何を考えているのか、何となく分かる」
ディオンの指先が僅かに強張る。エリアスは小さく笑った。
「昔から、お前は顔に出やすい」
「そんなつもりないんだけどな」
「出ている」
少しだけ、昔みたいな空気になる。次の瞬間、光から逃げるように目を伏せた。
「……だからこそ、頼む」
「今回は、使わないで欲しい」
静かな声だったが、その一言だけがひどく重い。ディオンは息を止める。
エリアスは小さく目を伏せた。
「……俺は、後悔した」
掠れた声だった。
「騎士学生になったお前と再会した時」
ディオンの指先が僅かに強張る。エリアスは静かに続けた。
「お前は、何も覚えていなかった」
「温室のことも、紅茶のことも、毎日会っていたことも」
「全部」
胸の奥が、ひどくざわついていた。
エリアスは小さく笑う--いつもの穏やかな顔。
「……お前のことも、君の父上からも、奪った」
ディオンが目を見開く。
「違――」
思わず否定しかける。けれど、エリアスは静かに首を振った。
「違わない」
「お前は、本来もっと普通に笑って生きられたはずだ」
「なのに」
掠れた息が零れる。
「俺が、お前をこちら側へ引き込んだ」
継命、七不思議、禁忌……命の境界。本来なら、関わらなくてよかったもの。
エリアスはゆっくり目を伏せる。
「だからもう、お前に失ってほしくない」
湯気だけが、静まり返った執務室でゆっくり揺れている。静かで、優しくて、まるで最初から、自分だけ消えるつもりみたいだった。
ディオンはしばらく黙っていたが、ゆっくり顔を上げた。
「……俺は、後悔してない」
エリアスの目が僅かに揺れる。ディオンは真っ直ぐその目を見る。
「温室のことも、七不思議も、あなたに会ったことも」
「何一つ」
立ち上っていた湯気はもうなく、硝子の中で琥珀色だけが静かに揺れていた。
「騎士学院を出たら、仕える相手がいなくなるなんて」
そこで少しだけ眉を寄せる。
「そんなの、ごめんです」
その瞬間だった。空気が変わり、エリアスの表情から、静かな笑みが消えた。
「……ふざけるな」
低い声だった。ディオンが目を見開く。
エリアスはゆっくり息を乱しながら、ディオンを見る。
その瞳だけが、珍しく感情を露わにしていた。
「お前は、自分が何を失うか分かっていない」
「分かってる」
「分かっていない!」
掠れた声が、部屋へ響く。
初めてだった。
エリアスが、こんな風に声を荒げるのは。部屋の空気だけが張り詰めていた。
エリアスは苦しそうに呼吸を整えながら続ける。
「記憶を失うんだぞ」
「父親も」
「友人も」
「今まで生きてきた時間も」
「全部、お前から零れていく」
肩が僅かに震えていた。
怒っているのに、その声はどこか痛そうだった。
「そんなものを背負わせるくらいなら」
掠れた息。
「俺は――」
そこで言葉が止まる。
呼吸が乱れる。ディオンは反射的に立ち上がった。
「殿下――」
「来るな!」
即座に返る。けれど、その声にはもう力が無かった。
エリアスは苦しそうに目を伏せる。小さく、掠れた笑いが零れた。
「……すまない」
「怒るつもりじゃなかった」
ディオンは何も言えなかった。ただ、初めて見た。
この人が、本気で感情を乱すところを。
エリアスは乱れた呼吸を整えるみたいに、小さく息を吐く。それから静かに目を伏せた。
「……俺は、一度諦めたんだ」
春の光が白い横顔を照らしている。
「昔」
「呪いのことを知った日、お前に会った」
ディオンはエリアスから視線を逸らさない。エリアスは小さく笑った。
「むしゃくしゃしていた」
「どうせ短命なら、何をしても変わらないと思っていた」
窓の外では花弁が舞っている。穏やかな春だった。
けれど、語られる声だけが静かに痛かった。
「そんな時に、お前が来た」
「勝手に隣へ座って、紅茶を飲んで、楽しそうに笑っていた」
エリアスは目を細める。まるで、遠い春の日を見ているみたいだった。
「……救われたんだ」
掠れた呟きが落ちる。ディオンは息を止めた。
エリアスは続ける。
「だから、もう少し生きてもいいのかもしれないと思った」
「けれど」
「ディオン、君とは会えなくなった。君と引き換えに呪いは消えた」
小さく視線を落とす。
「呪いは完全に消えてはいなかった」
「一度静まっても、また再発した」
右手、黒い侵食、継命。全部が静かに身体を蝕んでいく。エリアスは苦笑した。
「命を繋ぐことが、嫌になった」
「生きるほど、周りが苦しむ」
「だから、もう終わりでいいと思っていた」
部屋へ沈黙が落ちる。
エリアスはゆっくりディオンを見る。その目は、ひどく穏やかだった。
「……だけど」
「温室で、またお前に会った」
ディオンの喉が、小さく鳴る。エリアスは静かに笑った。
「何も覚えていないくせに、同じ顔で笑うから」
会話の止まった執務室で、紅茶の色だけがゆっくり濃くなっていた。
「……もう少し、生きたいと思った」
その言葉だけが、静かに部屋へ落ちた。
「でも、今は満足している」
穏やかな声だった。
「十分すぎるほど、幸せだった」
だから。
その続きを、ディオンは言わなかった。その先へ続く言葉だけは、痛いほど分かってしまった。
(どうか、言わないで欲しい)
いつの間にか、ディオンは拳を握り締めていた。
爪が食い込むほどに。
「本当は、今日」
「感謝を伝えるつもりで来てもらったんだ」
ディオンが顔を上げる。エリアスは静かに笑った。
「お前に会えてよかった」
「温室へ迷い込んできた日も」
「再会した日も」
「全部」
二つのカップは手つかずのまま、静かに机へ置かれていた
その表情は穏やかだった。穏やかすぎて、全部を終わらせる準備をしているみたいだった。
「お前がいたから--俺は、生きていてよかったと思えた」
胸の奥が、酷く痛かった。目の奥が、じんと熱い。
エリアスは小さく息を吐く。
「だから最後くらい、ちゃんと礼を言いたかった」
「……ありがとう、ディオン」
その言葉が落ちた瞬間。ディオンは、ゆっくりと立ち上がる。
もう決まっていた。
何を言われても。
何を失っても。
それでも、この人を、独りで終わらせたくなかった。
「俺は満足してない」
「まだ、あなたとやりたいことがある」
「卒業後の話もしたい」
「温室にも行きたい」
「紅茶だって、まだ飲めるだろ」
ディオンの声は静かだった。けれど、少しも揺れていない。
「勝手に終わったみたいな顔しないでくれ」
エリアスは何も言えない。ただ静かに、その横顔を見つめている。
「……あなたは昔、俺に救われたって言ったけど」
「俺だって、そうだ」
エリアスの目が揺れる。ディオンは少しだけ苦笑した。
「七不思議とか、任務とか、色々面倒なことに巻き込まれたけど」
「それでも--」
「あなたに会わなかった人生より、今の方がずっといい」
エリアスの肩が、ほんの僅かに震える。笑ったのか、泣きそうなのか。もう、よく分からなかった。
エリアスは掠れた息を吐く。
「……本当に--お前には敵わないな」
もう迷っていない。失うものも、代償も、全部分かった上で、ここへ来ていた。
ゆっくり息を吸う。魔力が静かに巡る。
その気配に、エリアスの表情が変わった。
「……ディオン」
止めようとしたのが分かった。けれど、ディオンは静かに右手を伸ばす。
「光は巡り――」
春風が止まり、部屋の空気が、静かに震えた。
「命は還る」
淡い光が指先から溢れていき、白い花弁がふわりと浮かんだ。エリアスが目を見開く。
「ディオン! やめろ……!」
けれど、もう遅い。ディオンは真っ直ぐエリアスを見る、その瞳だけは、昔と変わらない。エリアスの右手に両手を添える。
「あるべき場所を違えるな」
光が広がる。春の部屋が、白く染まっていく。
「その理に従い――」
「今--ここに正す!」
その瞬間だった。胸の奥で、何かが軋む。記憶、温度、
笑い声--何か大切なものが、静かに指の隙間から零れていく感覚。
ディオンは止まらない。止まれなかった。
「還命」
白い光が、一気に溢れ春の部屋が、眩い輝きへ包まれる。花弁が舞い、風が渦を巻く。
魔力が、静かに、けれど確かに循環していく。
エリアスの目が見開かれていた。
「……っ、ディオン!」
伸ばされた手が、ディオンの腕を掴む。
けれど、その感触さえ、少しずつ遠くなる。
胸の奥が熱い。苦しい。なのに、不思議と怖くはなかった。
脳裏へ、いくつもの景色が浮かぶ。
騎士学院、中庭、カイルの笑い声、本を抱えたリネ。
雪の日、温室と紅茶の香り--
『エリ!』
幼い自分の声。
その全部が。
春の光へ溶けるみたいに、静かに滲んでいく中、母の声が聞こえた。
「痛いのは嫌よね。でも、ちゃんと治るから大丈夫よ」
ディオンは息を呑む。忘れたくない。そう思った瞬間。
胸元で、何かが淡く光った。
――人魚の涙。
透明な雫みたいな石が、白い光を返している。
次の瞬間、名前、笑い声、温度。
輪郭は曖昧なのに。白い光が、一気に部屋を包み込んだ。胸元の人魚の涙が、淡く光を返した。
完全には消えない。
感情だけが、静かに残る。大切だったという想いだけが。
光が収まると、エリアスの侵食は消えていた。
黒い痕が、春の雪みたいに静かに消え、重かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
指先へ、感覚が戻る。
脚の痛みも、静かに遠ざかっていった。
代わりに、ディオンの身体が、ゆっくり崩れ落ちる。
大切だったという感情だけが、強く残って。
エリアスの侵食が、ゆっくり薄れていく中、
花弁だけが、静かに床へ落ちていた。
「……ディオン!」
エリアスが咄嗟にその身体を支える。
力が抜けたみたいに、そのまま崩れ落ちかけた。
エリアスは反射的に腕を伸ばす。抱き留めた瞬間、呼吸が止まりそうになった。
軽い--あまりにも。
「ディオン」
名前を呼んでも返事は無い。
薄く目を開けているのに、焦点が合っていなかった。
春風が白いカーテンを揺らしている。
静かな部屋。
まるで、長い夢の終わりみたいだった。
「誰か――!」
その声が、王宮へ響く。エリアスが、こんな声を出したのは初めてだった。
扉が開き、駆け込んできた侍女達が息を呑む。床へ崩れたディオンと支えるエリアス。
そして--消えていた黒い侵食。誰も状況を理解できなかった。
「医師を呼べ!」
珍しく感情を露わにした声だった。騎士達が慌ただしく動き出す。
ディオンは静かに目を閉じていた。その手だけが、まだ微かに温かい。
エリアスは何も言わなかった。ただ静かに、震える指先で、ディオンの手を握る。
その温度だけを、確かめるみたいに--。
*****
気付けば、白い天井が見えていた。
薬草の匂い、静かな足音、薄いカーテン。
王宮の医務室だった。
ディオンはぼんやり瞬きを繰り返す。身体が重い。
頭の奥が妙に白かった。何か大切な夢を見ていた気がする。
けれど、思い出そうとすると、靄みたいに崩れていく。
「……ディオン?」
掠れた声が聞こえた。
顔を向けるとそこには、酷く安心した顔のカイルがいた。その後ろには、リネの姿もある。
ディオンはしばらく二人を見つめ、ぼんやりと瞬きを繰り返す。頭の中が、妙に白かった。
名前は分かる。
カイル、リネ……。
けれど、どうしても一緒に過ごした時間だけが、綺麗に抜け落ちている。
その時、控えめなノックが響いた。
「……入るぞ」
そこへ、扉が開く。春の光を背に、エリアスが姿を現した。
その瞬間--ディオンの胸が、強く締め付けられる。
懐かしい、泣きそうになる。理由だけが分からなかった。
「……ディオン」
呼ばれて、ゆっくり視線を向ける。
「殿下……?」
エリアスはすぐに言葉を返さなかった。ただ、確かめるみたいにこちらを見ている。
「……俺が分かるか」
「エリアス殿下です」
長い沈黙のあと、
「そうか」
それだけ呟いて、エリアスは深く息を吐いた。
——初めて、安心したみたいに。
何故だろう。その殿下を見ていると、胸が痛かった。
ディオンは小さく眉を寄せる。
「恐れ入りますが、殿下も休まれては……」
掠れた声でそう言うと、エリアスは息を吐いた。
「お前に言われたくない」
呆れたみたいな声音だったけれど、その目は少しだけ赤いように見える。
「……前にも会ったことありましたか?」
エリアスは、ほんの僅かに目を細めた。
「……ああ」
穏やかな声だった。
「ずっと昔にな」
ディオンはその言葉へ、小さく眉を寄せた。
“昔”。その響きだけが、妙に胸へ引っ掛かる。それ以上問い返そうとした時だった。
コン、コン--控えめなノックが響く。
「入るぞ」
低い声と共に扉が開いた。先に入ってきたのはロランだった。その後ろにはフェルマの姿もある。
ディオンは反射的に身体を起こそうとする。
「無理に動くな」
ロランが即座に言った。いつも通りの声音だった。
けれど、その目だけが、ディオンを静かに見つめている。ディオンは少しだけ眉を寄せた。
不思議だった。
“父親”だと分かる。名前も知っている。けれど、
その人と過ごした時間が、霧の向こうみたいに曖昧だった。
ロランはベッドの傍へ来る。
大きな手が、静かにディオンの頭へ触れた。
その瞬間、胸の奥が、少しだけ温かくなる。安心した。
理由は分からないのに。
ロランは小さく息を吐く。
「……無茶をしたな」
ディオンは困ったみたいに苦笑する。
「そうらしいですね」
フェルマはベッドの横へ立つと、淡々と脈を取った。
「魔力循環は安定しています」
静かな声だった。その横顔には、僅かな安堵が浮かんでいる。ディオンは小さく首を傾げた。
「そんなに危なかったんですか、俺」
フェルマは一瞬だけ言葉に詰まる。代わりに、ロランが静かに答えた。
「……三日眠っていた」
「魔力もかなり消耗している」
「しばらく安静だ」
ディオンは小さく息を吐く。
「はい」
素直な返事だった。
その様子へ、カイルが吹き出す。
「珍しく聞き分けいいな」
「今、動ける気がしない」
「それはそうだろ」
カイルが苦笑する。リネは静かにディオンを見ていた。その目は、どこか複雑だった。
失ったことを知っているから。
けれど、
ディオン自身は、それを知らない。
フェルマは静かに視線を落とす。
「……記憶の混乱は?」
ディオンは少し考える。それから、ゆっくり首を振った。
「名前とかは分かります」
「でも……」
そこで言葉が止まる。
ディオンは小さく眉を寄せた。
「大事なことを忘れてる気はするんですけど--何を忘れたのかが、分からない」
医務室へ静かな沈黙が落ちた。
*****
春が深まる頃には、ディオンも少しずつ歩けるようになっていた。
魔力の消耗は大きかったものの、身体そのものは順調に回復しているらしい。
王宮の医務室を出た日。
久しぶりに戻った旧寮は、驚くほど静かだった。
窓の外では春風が木々を揺らしている。
ディオンは小さく息を吐き、扉を開けた。
見慣れた部屋。
机、本棚。制服。
全部知っているはずなのに、どこか少しだけ他人の部屋みたいだった。
「……変な感じ」
小さく呟きながら、机へ視線を向ける。
ディオンは足を止めた。
机の上へ、何通もの封筒が並んでいたからだ。
白い封に丁寧な字。名前が書かれている。
『カイルへ』
『リネへ』
『父上へ』
『エリアス殿下へ』
そして。
一番奥に、少しだけ小さな封筒。
そこには、
『ディオンへ』
自分の名前が書かれていた。
ディオンはゆっくり近づく。何故だろう、胸がざわついた。まるで、“こうなること”を知っていたみたいに。
指先が、少し震える。ディオンは静かに自分宛の封筒を手に取った。封は切られていない。筆跡は、自分のものだった。
「……俺が書いたのか」
掠れた声が零れ、窓の外で春風が吹く。
ディオンはゆっくり封を切る。中には、一枚の便箋が入っていた。見慣れた字。少し癖のある、自分の筆跡。
ディオンは静かに目を落とした。
『これを読んでいる頃、俺は多分、大事なことを忘れている』
その一文を見た瞬間。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
ディオンは無意識に便箋を握り締める。遠くで聞こえる騎士学院の声。
なのに、その音だけが、やけに遠い。
ディオンはゆっくり続きを読む。
『まず最初に言っておく。多分、お前は今かなり混乱してる。まあ、俺も多分そうなると思った』
少しだけ、ディオンの口元が緩む。
書き方が妙に自分らしかった。
『だから先に安心しろ。カイルも、リネも、父上も、ちゃんと生きてる。お前が大事だった人達は、ちゃんとそこにいる』
その名前を見るだけで、胸が少し温かくなる。
『でも、多分、一緒に過ごした時間だけが曖昧になってるだろう。それで正解だ。俺は、それを分かった上で選んだ。だから、お前は気に病まなくていい』
そこで一度、文字が途切れていた。書いた本人も、迷ったのかもしれない。少しだけインクが滲んでいる。
続きの文字が現れる。
『それと』
『多分、お前はある人を見ると胸が苦しくなる』
ディオンの呼吸が、僅かに止まる。
脳裏に浮かぶ。穏やかな笑い方--エリアス殿下。
『理由は思い出せなくても、大丈夫だ』
『ちゃんと、大事だった』
便箋を持つ手へ、力が入る。胸の奥が、ひどく痛かった。
泣きたいみたいに、懐かしいみたいに。何一つ思い出せない。
『俺は、多分』
『また同じ選択をする』
ディオンは便箋を見つめたまま、動けなかった。
最後の行だけ、少し文字が乱れている。
『だから』
『もう一度、最初からやり直してこい』
その言葉が。
静かな春の部屋へ、優しく落ちていった。
説明できない感覚だけが残っている。その時だった。
コン、コン--控えめなノックが響く。
ディオンはゆっくり顔を上げた。
「……開いてる」
扉が開くと、入ってきたのはカイルだった。その後ろにはリネの姿もある。
「お、起きてたか」
カイルは軽く手を上げる。いつも通りの調子だ。顔を見た瞬間、不思議と安心した。
「なんか、落ち着くな」
「何だそれ」
カイルが苦笑する。リネは机の上へ並んだ封筒を見ると、静かに目を細めた。
「……それ」
ディオンも視線を落とす。
机の上には、いくつもの封筒が並んでいた。
『カイルへ』
『リネへ』
『父上へ』
『エリアス殿下へ』
そして……開かれたままの『ディオンへ』。
ディオンは少し迷うように指先を動かしたあと、二通の封筒を手に取る。
「……これ、多分」
「お前達に渡すつもりだったんだと思う」
カイルの表情が少しだけ止まる。リネも静かにディオンを見る。ディオンは苦笑した。
「ここまでするくらい、忘れたくなかったんだな、俺」
その言葉に、短い沈黙が落ちる。
やがて、ディオンはゆっくり封筒を差し出した。
「……読むか?」
春の光が、静かに三人を照らしていた。カイルは差し出された封筒を見る。
いつもの軽口は、すぐには出てこなかった。代わりに、小さく息を吐く。
「……読む」
リネも静かに封筒を受け取った。
白い紙、見慣れた筆跡。それだけで、胸の奥が少し痛かった。ディオンは二人の反応を見ながら、苦笑する。
「そんな顔されると、逆に気になる」
「気になるだろ、普通」
カイルが封を見つめたまま返し、ゆっくり封を切る。
中から便箋を取り出した瞬間、小さく目を細めた。
「……字、汚ねえ」
「おい」
ディオンが即座に眉を寄せる。そのやり取りに、少しだけ空気が和らいだ。リネも静かに便箋を開く。
二人の視線が文字を追っていく。
部屋へ沈黙が落ちた。
ディオンは何となく落ち着かなくなり、窓の外を見る。
その時だった。カイルが、小さく息を呑む。
ディオンは振り返る。
カイルは便箋を見つめたまま、珍しく黙っていた。
隣では、リネも静かに目を伏せている。
ディオンは少しだけ困った顔をした。
「……何書いてあった?」
カイルはすぐに答えなかった。しばらくしてから、小さく笑う。
けれど、その笑い方は少し掠れていた。
「いや」
便箋を軽く掲げる。
「“また友達になれ”ってさ」
その言葉だけが、静かな部屋へ優しく残った。




