第34話 「 代償」
その頃、王宮では、エリアスの体調悪化が静かに進んでいた。表向きは変わらず、公務にも出る。書類も片付ける。
穏やかに笑い、人前では弱さを見せない。けれど、
継命の侵食は、確実に広がっていた。右手から始まった老化、再び表れた蔦のような黒い痕は、既に上半身へ及び、さらに脚――膝の辺りまで静かに侵食している。
夏でも長袖を崩さないのは、そのためだった。
長く立っているだけで、脚へ鈍い痛みが走るり、時折呼吸も浅くなる。
それでもエリアスは、「問題ない」の一言で済ませてしまう。
袖の奥には、蔦のような細い線が皮膚の下を這い、絡みつくように首筋まで伸びている。
その周囲だけ、僅かに肌が痩せ細っていた。指先も、少しだけ不自然に骨張っている。
まるで、その部分だけ時間が早く流れてしまったみたいだった。
命を繋ぎ止めるほど、身体が先に朽ちていく。けれど、不思議なほど顔だけは綺麗なままだった。白い肌、静かな眼差し、穏やかな横顔。
だからこそ、余計に歪だった。
まるで、命だけを無理やり、この場所へ縫い留めているみたいに。
王宮の者達も、深くは聞けない。誰もが気付いていた。気付いていながら、触れられなかった。
白い執務室。いつものように、机へ向かったまま、エリアスは小さく息を吐く。右手が鈍く痛み、膝の奥も、重い。袖と衣服の奥で、黒が静かに脈打っていた。
窓の外では、秋風が白薔薇を揺らしている。
その景色を見つめながら、エリアスはゆっくり目を閉じた。
脳裏へ浮かぶのは、温室で笑っていた黒髪の少年。
『おいしい!』
雨の日の無邪気な笑い声。気付けば、小さく笑っていた。
「……本当に、変わらないな」
掠れた呟きが、静かな執務室へ落ちる。
その瞬間、視界が大きく揺れた。ぐらり、と世界が傾く。エリアスは咄嗟に机へ手をつく。カップは倒れ、紅茶が書類へ広がった。呼吸が乱れる。
胸の奥が焼けるみたいに熱い。
袖の下で、黒い痕が微かに光を帯びていた。
けれど、エリアスは誰も呼ばない。
ただ静かに、乱れた呼吸を押し殺していた。
その時だった。
「……殿下?」
控えめな声と共に、執務室の扉が開く。入ってきたのは、若い侍女だった。追加の書類と紅茶を運んできたのだろう。
けれど、部屋の中を見た瞬間、その顔色が変わった。
倒れたカップ、床へ広がる紅茶、机へ手をついたまま、荒く呼吸を繰り返すエリアス。
「で、殿下……!」
侍女は思わず駆け寄る。エリアスは咄嗟に顔を上げた。
「……来るな」
掠れた声だったけれど、その声に力は無い。侍女は足を止める。震える指先。どうすればいいのか分からない。
袖の隙間から見えてしまった。黒い痕、腕を這うみたいに広がる異様な侵食。侍女の喉が、小さく鳴る。
王宮では殿下の体調が良くないことは、すでに噂になっていた。しかし、実際に見た者は少ない。
エリアスは呼吸を整えようとしながら、小さく目を伏せた。
「……誰も呼ばなくていい」
「ですが……!」
侍女の声が震える。エリアスはゆっくり息を吐いた。
「大丈夫だ」
全く大丈夫には見えなかった。それでも、その人は穏やかに笑おうとする。
だから侍女は、余計に泣きそうになる。
「……フェルマ様を、お呼びします」
小さくそう告げると、侍女は駆け出した。
その背を見送りながら、エリアスは静かに目を閉じる。
ほどなくして--慌ただしい足音が廊下へ響いた。
執務室の扉が開く。
「……失礼します」
入ってきたのはフェルマだった。
その表情はいつも通り冷静だったが、歩く速度だけが僅かに速い。
倒れたカップ、乱れた書類。そして机へ手をついたままのエリアスを見た瞬間、フェルマの眉が寄った。
「侍女は?」
「下がらせた」
掠れた返答だった。フェルマは小さく息を吐く。
「……本当に無茶しかしませんね」
近づきながら器具を取り出す。エリアスは苦笑した。
「それ……毎回言ってないか」
「毎回無茶しておられるので」
即答だった。フェルマはそのままエリアスの右手へ触れる。
(熱い……)
以前より明らかに熱を持っていた。
「袖を」エリアスは僅かに沈黙し、それから静かに頷く。白い布が滑り落ちる。
フェルマは何も言わない。ただ静かに、その痕を見つめていた。やがて、
「……進行が早すぎる」
低い呟きが落ちる。エリアスは椅子へ深く身体を預けた。エリアスの呼吸はまだ浅い。フェルマは手袋越しに脈を測る。
不安定だった。まるで継命そのものが暴れているみたいに。
「痛みは」
「最近は脚にも来る」
「歩行は」
「まだ問題ない」
“まだ”。
その言葉に、フェルマの視線が僅かに沈む。
しばらく沈黙したあと、フェルマは静かに口を開く。
「……殿下」
「このままでは、いずれ身体が耐えられません。」
静かな声だった。だか、その言葉だけは妙に重かった。
「……エリアス殿下」
フェルマは静かに口を開いた。
執務室には、薬草の香りが薄く漂っている。窓の外では、さっきまで晴れていた空が嘘のように、雲が広がり雨が降っていた。
エリアスは椅子へ腰掛けたまま、小さく視線を上げる。フェルマはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「貴方は、とても執務ができる状態ではありません」
その声音には医師としての強さがある。
「しばらく療養なさって下さい」
エリアスは苦笑する。
「……随分率直だな」
「今さらです」
即答だった。
フェルマは淡々と薬瓶を整理しながら続ける。
「歩行も不安定、侵食も進行しています。睡眠時間も足りていない」
そこで小さく眉を寄せる。
「むしろ、何故執務できると思われたのですか」
エリアスが少し吹き出す。久しぶりの、小さな笑いだった。
フェルマはその様子を見て、静かに目を伏せる。
「……殿下、貴方は、少し無理をしすぎです」
春の雨音だけが、静かに響いていた。
「分かっている」
小さな返答だった。
*****
雨上がりの温室だった。
ガラスを叩いていた雨音は止み、雫だけが静かに葉を濡らしている。エリアスは長椅子へ座ったまま、本を読んでいた。
白い手袋、細い指、静かな横顔。
ディオンは向かいへ座りながら、じっとその右手を見る。小さい頃のディオンは、妙に遠慮がなかった。
気になったことは、そのまま聞く。
「……エリ、右手、痛いのか?」
その瞬間、エリアスの指先が僅かに止まる。温室へ沈黙が落ちた。
「お前には関係ない」
冷たい声だった。エリアスは視線を逸らす。
「気にするな」
けれどディオンは引かなかった。むしろ、小さく眉を寄せる。
「でも、ずっと隠してる」
温室へ声が響く。雨上がりの静けさが、一瞬だけ壊れた。けれど、ディオンは驚かなかった。少し黙ったあと、ゆっくり口を開く。
「……関係なくないよ」
エリアスが息を止める。ディオンはそのまま、そっと右手へ触れた。白い手袋越しの手はひどく冷たかった。
エリアスの肩が僅かに震える。振り払われると思った。
だが、エリアスは動かなかった。
「やっぱり冷えてる」
まるで当たり前みたいに言う。
*****
フェルマは目を伏せる。その横顔へ、リリィの姿が一瞬だけ重なった。失いたくないものほど、手の中から零れていく。だから人は、禁忌へ縋るのだ。
フェルマは静かに拳を握る。
「……抑制薬を調整します」
それしか、今は出来なかった。
◇◇◇◇◇
秋の夕暮れだった。
任務を終えて騎士学院へ戻ろうとした時、ディオンは王宮の使いから小さな封筒を受け取った。
差出人の名前は無かったが、白い封蝋を見た瞬間、誰からなのか分かった。
『時間があれば、来ないか』
短い文のみで、場所は書かれていなくても、もう大丈夫だった。向かう先は決まっている。
王都の片隅、城下町の外れにある、あの紅茶店だ。
王都の空は、薄い茜色へ染まり始めていた。
石畳を踏みながら、ディオンは小さく封筒を見下ろす。
秋風が制服の裾を揺らした。やがて見慣れた店先が見えてくる。硝子窓から、柔らかな灯りが漏れていた。
ディオンは扉を開ける。カラン……鈴音が静かに響いた。
「……来たか」
エリアスが、小さく笑った。ディオンは向かいへ座る。
その顔色は以前より白い。しばらく穏やかな時間が流れる。
けれど、ディオンは小さく息を吐いた。回りくどいのは性に合わない。
「……殿下」
「ん?」
「身体、かなり悪いでしょう」エリアスの手が、ほんの僅かに止まった。すぐに小さく笑う。
「急だな」
「誤魔化さないで下さい」
ディオンの声は真っ直ぐだった。
「前より酷い」
エリアスは静かにカップを置いた。窓の外では、秋風が街路樹を揺らしている。しばらく沈黙が落ちたあと。
「……お前は昔から、妙に鋭いな」
否定はしなかった。ディオンは眉を寄せる。
「笑い事じゃない」
「まあな」
エリアスは窓の外へ視線を向けた。夕暮れの王都。静かな景色だった。
「……これから、会う機会も減りそうだからな」
ぽつりと呟く。
「進路の話か」
「それもある」
エリアスは曖昧に笑った。
「お前達も、もう学院を出て、それぞれ忙しくなるだろう」
その言葉が、妙に引っ掛かった。まるで、最初から遠ざかるつもりでいるみたいだったから。
ディオンは無意識に拳を握る。
「……減るなら、会えばいい」
エリアスが少しだけ目を見開く。
「王宮だって行ける。近衛になるかもしれないし、紅茶店にも来る」
真っ直ぐな声だった。エリアスはしばらく黙っていた。
それから、ふっと、小さく笑う。
「そうだな」
その笑みだけが、少し寂しそうだった。やがてエリアスは静かに立ち上がる。
「……もう一杯、淹れよう」
白い指先がティーポットへ触れる。慣れた動きだった。
立ち上がった瞬間、ほんの僅かに身体が揺れる。
「……殿下」
「見過ぎだ」
エリアスは苦笑した。それでも、一瞬だけ右脚へ力が入り損ねていた。ディオンは黙ったまま、その背を見る。
湯気がゆっくり立ち上る。
夕暮れの光が、白い横顔を淡く照らしていた。
ふと、ディオンは思う。
この人は、昔からこうだった。苦しい時ほど、穏やかに笑い、誰にも弱音を吐かない。だから余計に放っておけなかった。
それからだった。ディオンが、ぼんやり物思いにふけることが増えたのは。
授業中、訓練の合間、中庭。ふとした時に、視線が止まり、考え込む。そして無意識に黙る。
最初に気付いたのはカイルだった。
「……お前、最近変だぞ」
訓練帰りの騎士学院の廊下で、カイルが呆れたように言う。
「何が」
「何がじゃない」
「さっきから三回同じとこ見てる」
そこへ、本を抱えたリネが通り掛かる。二人を見て、少しだけ足を止めた。
「どうした」
「ディオンの様子が変」
カイルが即答する。リネは静かにディオンを見る。
「……考え事か」
「まあ」
曖昧な返事だった。リネは小さく目を細める。
「珍しいな」
「お前がそこまで引きずるの」
「俺、そんな分かりやすいか?」
「かなり」
カイルとリネの声が重なる。ディオンは思わず吹き出す。けれど、笑ったあとも、胸のざわつきだけは消えなかった。
その日の夜だった。
騎士学院の消灯後、ディオンは一人、王宮の回廊を歩いていた。
窓の外には秋の月。白い月光が石床へ静かに落ちている。向かう先は決まっていた。王宮の奥へ、滅多に人の来ない書庫の一室。扉の前で足を止めるた。
小さく息を吐き、それから叩いた。
「……入れ」
ディオンは扉を開いた。部屋の中では、ロランが古い資料へ目を通していた。机の上には術式書や見慣れない古文書が並んでいる。淡い魔法灯がゆらゆら揺れていた。
ディオンを見ると、ロランは少しだけ眉を上げた。
「珍しいな」
「お前から来るとは」
ディオンは扉を閉める。しばらく沈黙したあと、真っ直ぐ口を開いた。
「……還命について聞きたい」
ロランの視線が静かに向けられた。その目だけで、軽い話ではないと分かる。
「何故だ」
「知りたいからだ」
脳裏へ浮かぶのは、エリアスの横顔。あの、どこか諦めたみたいな笑い方。
ロランは静かに本を閉じた。
「……還命は、本来人へ使う術ではない」
「命は巡る……還るべき場所へ還る」
「それを無理やり引き留める以上、必ず歪みが出る」
ディオンは黙ったまま聞いている。ロランは続けた。
「代償は様々だ」
「肉体を削る者もいれば、魔力を失う者もいる、寿命を燃やす者もいる」
「お前は、何を聞きたい」
ディオンは小さく息を飲んだ。本当に聞きたいことを、見透かされた気がした。
「……記憶を失うことはあるのか」
「ある。強い還命ほど、“自分”を削り『記憶』『感情』『執着』『人との繋がり』そういうものから、先に零れていく」
ディオンの指先へ力が入る。ロランは静かに視線を落とした。
「だから還命は禁忌なんだ。救う術でありながら、使うほど、術者が壊れていく」
窓の外で、秋風が木々を揺らす。ディオンはゆっくり目を伏せた。脳裏へ浮かぶのは、カイルとリネの顔。
騎士学院、中庭、笑い声、当たり前みたいに続いていた日々。もし、それを失うとしても--ディオンは静かに拳を握る。
ロランは何も言わない。ただ、その横顔を見ていた。
まるで、昔の誰かを見るみたいに。
魔法灯の淡い光だけが、静かな書庫を照らしていた。
ディオンは視線を落としたまま、小さく息を吐く。
それから、不意に口を開く。
「……父上」
ロランが顔を上げた。
「小さい時の俺って、どんなだった」
予想していなかった問いだったのか、ロランは少しだけ目を瞬く。ディオンは苦笑した。
「いや、なんとなく気になっただけ……覚えてないことも多いし」
最後の言葉だけ、少し曖昧だった。ロランはしばらく黙っていた。
「そうだな……」
視線が遠くなる。昔を思い出しているみたいだった。
「よく笑う子だった」
ディオンが少しだけ目を瞬く。
「今も笑うだろ」
「今とは違うぞ」
ロランは珍しく、小さく笑う。
「お前は昔、妙に人懐っこかった。初対面でも平気で話しかけるし、知らない騎士へ付いていこうとして、何度叱られたか分からん」
「……そんなだったか?」
「そんなだった」
ロランは静かに続ける。
「花も好きだったな」
「庭園へ行けば、すぐ座り込む。よく汚れて帰ってきた」
ディオンは少し吹き出した。
「全然覚えてない」
「だろうな」
穏やかな返答だった。しばらく沈黙が落ち、やがてロランは、ふと視線を細める。
「……お前は昔から、“誰かが泣いている”のを放っておけなかった」
ディオンの動きが止まる。ロランは静かに本を閉じた。
「だから、今のお前を見ていると時々怖くなる」
「救おうとする人間ほど、自分を削る」
部屋へ静けさが落ちる。ディオンは何も言えなかった。ロランはしばらく息子を見つめていたが、やがて静かに視線を落とす。
「……だが、昔より、少し不器用になったな」
ディオンは思わず眉を寄せる。
「どういう意味?」
「昔のお前は、もっと素直に笑っていた」
その言葉だけが、妙に静かに胸へ残った。
◇◇◇◇◇
冬の風は、冷たかった。王都外れの墓地には、静かな雪が降っている。積もった雪を踏む音だけが、小さく響いていた。
ディオンはその中をゆっくり歩いていく。腕に抱えているのは、小さな花束。白い鈴蘭だった。本来なら、まだ咲く時期ではないが、保存魔術によって特別に注文したものだ。
「季節外れですよ」
花屋の老婆は苦笑した。
「けれど、王都の保存術式なら数日は保てます。高額ですよ」
白い鈴蘭は、小さく揺れている。春の花は本来、冬には咲かない。
それでもディオンは、静かにその花を受け取った。
墓前へ辿り着くと、静かにしゃがみ込む。石へ触れた指先が、ひどく冷たい。
「……久しぶり」
吐く息が白い。返事は無い。けれど、不思議とここへ来ると少しだけ呼吸が楽になる。
鈴蘭を供えながら、ディオンは雪空を見上げた。
冬の空は静かだった。
風が吹く度、木々に積もった雪がさらりと落ちる。
しばらく黙っていたあと、ディオンはぽつりと口を開いた。
「俺、昔はよく笑ってたらしい」
苦笑混じりだった。
「父上に言われた」
白い鈴蘭が、冬風に小さく揺れる。ディオンはゆっくり息を吐いた。
「……正直、あんまり覚えてない」
「どんな顔して笑ってたのかも」
墓石へ視線を落とす。
最近、時々思う。
(失くした記憶は、本当に“忘れただけ”なのだろうか)
誰かと笑っていた気がするのに、輪郭だけが曖昧だった。ディオンは無意識に右手を握る。
ロランの言葉が脳裏へ過る。
『強い還命ほど、“自分”を削る』
記憶、感情、人との繋がり……静かな恐怖だった。
もし、本当に大切なものを忘れてしまったら。それでも、自分は同じ自分でいられるのだろうか。ディオンは目を伏せる。
「……俺、どうしたらいいと思う」
掠れた声だった。
雪が静かに降り続いていた。白い鈴蘭へ、淡く雪が積もっていく。ディオンは墓石を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……もし、本当に還命を使ったら」
声は、雪へ沈むみたいに静かだった。
「友人のことも、父上のことも忘れるのかな」
返事は無い。ディオンは苦笑した。
「変だよな」
「助けたいのに……忘れたら、多分」
そこで言葉が止まる。喉の奥が少し痛かった。
カイルの笑い方、リネの呆れた顔、騎士学院の中庭、
父と交わした会話、温室、紅茶、雪の日。
そんな景色が、脳裏へ静かに浮かぶ。どれも当たり前みたいに傍にあった。失うことなんて考えたこともなかった。
ディオンは雪空へ吐息を吐いた。白く、白く滲んでいく。
「……でも」
「それでも、放っておけないんだよな」
雪は静かに降り続いている。墓石も、鈴蘭も少しずつ白く染まっていく。
その景色を見つめながら、ディオンは静かに目を伏せた。
答えの出ない問いを、胸の奥へ抱え込むみたいだった。




