第32話 「静かなる侵食」
夏の日差しが、王宮の執務室へ白く差し込んでいた。窓辺では、薄いレースが風に揺れている。
机の上には、未処理の書類。
その向こうで、エリアスは静かに椅子へ腰掛けていた。
「フェルマ·ヒルベルト参上しました」
「入れ」
「……失礼します」
扉が開き、フェルマが入室する。白衣の裾を揺らしながら近づくと、エリアスは小さく笑った。
「毎回思うが、診察室へ行った方が早いんじゃないか」
「殿下が動く方が問題でしょう」
即答だった。エリアスは肩を竦める。
「ひどいな」
「事実です」
エリアスは、椅子から立ち上がるとカウチへ移動し、ゆっくりと身を預けた。その間、フェルマは慣れた様子で机へ器具を置く。その表情はいつも通り冷静だ。けれど、視線だけが僅かに険しい。
「袖を」
エリアスは何も言わず、右袖の留め具を外した。
白い布が滑り落ちる。
蔦が絡まるような黒い痕。右手から始まった継命の代償は、既に肩口を越えていた。鎖骨の下、胸元へ。
薄く浮かぶ黒が、静かに上半身を侵食している。けれど、顔だけは恐ろしいほど綺麗なままだった。
だからこそ異様だった。
フェルマは黙ったまま、その痕へ触れ、僅かに眉が寄った。
「……進行が早いですね」
「そうか」
エリアスは驚いた様子もない。まるで他人事みたいだった。
「夏でも長袖を崩さない理由が増えましたね」
「お前、たまに容赦が無いな」
「気遣って治るなら気遣います」
フェルマは淡々と器具を片付ける。その沈黙が、逆に重かった。
エリアスは窓の外へ目を向ける。真夏の青空と緑溢れる王宮の庭園。遠くで噴水の音が響いていた。
「……あと、どれくらいだと思う」
不意の言葉に、フェルマの手が止まった。しばらく沈黙したあと、視線を落とす。
「分かりません。継命は、本来ここまで人へ定着する術ではないので」
エリアスは小さく笑った。
「つまり前例が無い、と」
「ええ。だからこそ危険なんです」
そう答えながらも、フェルマの脳裏には別の光景が過っていた。白い寝台、小さな手、熱に浮かされながら、それでも笑おうとしていた少女。
『お父さま』
鈴みたいな声。春の陽だまりみたいに柔らかかった。けれど、その温度はもう残っていない。フェルマは、無意識に指先を握り込む。
継命は危険だ。そんなことは、最初から分かっていた。それでも、繋ぎ止めたいと思ってしまった。失いたくなかった。
白いカーテンが揺れる。フェルマは静かに目を伏せたまま、感情を押し込める。もう、取り戻せないことくらい分かっている。それでも研究をやめられなかった。やがて診察を終え、静かに立ち上がる。
「殿下、無理はしないでください」
「難しい注文だな」
「殿下は昔からそうです」
フェルマが扉へ向かう。その背へ、エリアスがふと声を掛けた。
「フェルマ」
足が止まる。
「……お前は、まだ研究を続けているのか」
執務室へ静けさが落ちた。フェルマは振り返らないまま、小さく息を吐く。
「ええ。やめる理由がありませんので」
そのまま扉が閉まる。
残された執務室で、エリアスは静かに目を伏せた。右手の黒い痕が、ゆっくり袖の奥へ隠れていく。
何かを隠すみたいに……。
◇◇◇◇◇
王宮の一室は、昼だというのに静かだった。薄い白布の揺れる窓辺には、磨かれた白磁のティーカップ。夏の日差しが、床へ淡く落ちている。
フェルマは、その部屋の中央で静かに頭を下げた。向かい側では、一人の女性が紅茶へ口をつけている。
白銀にも見える淡い髪、柔らかな微笑、穏やかな空気。
けれど、その場へ漂う静けさは、王宮の誰より張り詰めていた。
「……継命の侵食は、想定より進んでいます」
フェルマの報告にも、女性はすぐには答えなかった。
カップを置く。小さな陶器音だけが、部屋へ響いた。
「そう」
返ってきたのは、それだけだった。驚きも、悲鳴も、怒りも無い。ただただ静かな声に、フェルマは視線を伏せたまま続ける。
「既に右腕だけではありません。上半身へ侵食が及んでいます」
夏風に白いレースが揺れる。女性は窓の外へ目を向けた。王宮の庭園では、噴水の水が夏光を弾いている。
「……あの子は、何か言っていましたか」
「いいえ」
フェルマは短く答える。
「いつも通りでした」
その瞬間、女性の指先が、ほんの僅かに揺れた。けれど、それも一瞬だった。次にはもう、穏やかな表情へ戻っている。
「そう」
まるで感情を閉じ込めるような、短い返答。フェルマは静かに目を伏せる。
(……この方は、いつもこうだ。決して取り乱さず、泣き叫ばない。どれほど苦しくても、王妃として微笑み続けておられる。)
だから余計に、見ている方が息苦しくなる時があった。
「研究は、続けているのですね」
不意に問われ、フェルマは一瞬だけ沈黙した。リリィの声が、脳裏を掠める。
『お父さま』
あの小さな手、熱の残る額、失いたくなかった温度。
「……ええ」
視線を落としたまま答える。
「やめる理由がありませんので」
女性は何も言わなかった。
ただ静かに、紅茶の水面を見つめている。
その横顔だけが、ひどく疲れて見えた。
*****
◇
数年前……。
その日は、雨だった。窓硝子を打つ音が、静かな部屋へ響いている。わたくしは本を閉じ、小さく息を吐いた。
また、咳。最近あの子は、よく苦しそうに呼吸をする。扉の向こうから足音が聞こえた。控えめなノック。
「母上」
まだ幼い声だ。
「入りなさい」
扉が開くと、銀色の髪を揺らしながら、エリアスが部屋へ入ってきた。まだ小さな身体。けれど、その瞳だけが、妙に大人びて見える時がある。
「眠れないの?」
問い掛けると、エリアスは少しだけ視線を逸らした。
「……少し」
嘘が下手な子だった。わたくしは微笑み、小さく手を伸ばす。
「こちらへ」
エリアスは静かに近づいてくる。その手を取った瞬間、胸が締め付けられた。
(冷たい……こんなに小さいのに。どうして、この子ばかり苦しまなければならないのだろう。)
エリアスは何も言わない。言えないのだ。周囲が気を遣っていることも、騎士達が陰で何を話しているのかも。
この子は、多分もう気付いている。それでも、泣かない、泣けない。
「母上」
不意に、エリアスが小さく口を開く。
「なあに?」
「人って、すぐ死ぬのかな」
呼吸が止まりそうになった。けれど、わたくしは笑う。
王妃だから……母だから。
「どうしてそんなことを聞くの?」
エリアスは少し迷って、それから首を振った。
「……なんとなく」
嘘だった。この子は昔から、優しい嘘をつく。わたくしはその小さな身体を抱き寄せる。窓の外では、雨が降り続いていた。
冷たい指先、細い肩、あまりにも軽い体温。失いたくない。その瞬間だけは、王妃ではなく、一人の母だった。
どうすれば、この子を守れるのだろう。どうすれば、
この子を、生かしておけるのだろう。
その問いだけが、雨音みたいに胸の奥へ降り積もっていった。
*****
しかし、ある日を境に、エリアスの右手はすっかり元へ戻っていた。あれほど苦しそうだった痣も、冷たかった指先も。何事も無かったみたいに消えていた。医師達は奇跡だと口にし、侍女達も安堵していた。
けれど、わたくしだけは、素直に喜べなかった。エリアスが、笑わなくなったから。窓辺へ座る横顔は静かで、
本を読む姿も以前と変わらない。食事も取るし、会話もする。王子として完璧だった。
それなのに、どこか、色が薄くなってしまったみたいだった。
「……エリアス」
夕暮れの温室。白薔薇へ落ちる西日を見ながら、わたくしはそっと声を掛ける。エリアスは静かに振り返った。
「右手、本当に痛まないの?」
「はい」
返答は迷いが無いけれど、その瞳だけが、妙に遠かった。わたくしは小さく息を呑む。
「何があったの」
問い掛ける。
「何をしたの?」
白薔薇が揺れる。
息子はしばらく黙ったままだった。その沈黙が、酷く怖い。やがて、
「……何も」
小さく笑う。
「もう平気です」
それ以上、あの子は何も言わなかった。わたくしも、それ以上聞けなかった。抱き締めた身体は、以前より少しだけ温かかったのに。
どうしてか、遠くへ行ってしまった気がした。




